#あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~ (3)
NHKスペシャル | #あちこちのすずさん~教えてください あなたの戦争~
【キャスター】千原ジュニア,【リポーター】八乙女光,伊野尾慧,【出演】広瀬すず,片渕須直,【アナウンサー】近江友里恵,【語り】松嶋菜々子
「今回,伊野尾さんも取材に行ってきてくれたですよね」
「はい,そうなんです.こんな投稿がありました」
投稿 薬剤師・らくさん
私は,薬局に勤めていますが,そこの患者さんの青春がとても波瀾万丈なんです.ぜひ,話を聞いてみて下さい.
ということで,行ってまいりました」
「こんにちは」「いらっしゃいませ」
大阪府の溝渕栄美さん.93歳です.
「(写真が)キレイに残ってますね.栄美ちゃん,可愛いじゃないですか」「そうよ」
太平洋戦争が始まった年(1941年),栄美さんは15歳.
スポーツが得意で,水泳部で活躍していました.
「戦争中だったんですけど,部活とかはあったんですね」「ええ.みんなと話すことは,甘いものの話ね.おぜんざい欲しいな〜って」
それは,栄美さん16歳.夏休みの登校日のこと.
「佐野,おまえに返事が来たぞ」
学校に届いた1通の手紙は,見知らぬ兵士から.栄美さんが送った手紙への返事でした.そのころ,遠い戦地の兵士を励ますために,手紙を書くことが,学校で奨励されていましたが,内容は決まり文句になりがち.やりとりに発展することは,まれでした.
でも,栄美さんと兵士との場合は違いました.
(保管されていた手紙の封筒を手に)「出すの緊張感ある」「ボロボロやから」
最初に届いたのは,この手紙.ちょっと,気負った感じでした.
「われも,日本男児.ましてや海軍の軍人です」
富崎康夫さん.21歳.けが人の治療を担う兵士でした.
「何これ?『むさぼるように読みました』って」「ははは.何書いたんでしょうね」
「明らかテンション上がってますね」
友達にからかわれながらも,栄美さんは,休み時間に返事を書き続けました.内容は身の回りで起きたおかしな出来事ばかり.
巨大な毛虫を見つけて池のコイに投げたら,パクリと食べちゃったこと.
なぎなたの授業で正座をしていたら,先生の話が長くて,立つとき全員がこけたこと.
「たわいないけどね」
「たわいないことが無い状況にいたわけじゃないですか.戦地にいる方々は.たわいないことが本当に励みというか,癒やしというか」
やがて,康夫さんは,少しずつ積極的な一面を見せるようになります.
“これからは,兵隊さんでなく,康夫と書いて下さいませんでしょうか”
“栄美さんのお写真もお願いいたします.だめかしら”
「すごい,詩とかも書いてある」「(康夫さんは)詩を書くのが好きなのよ」
「は〜」「わからへんのよ,私.詩を読んでも」
「ははははは.男の思い.伝わらないな〜.曲作って歌ってやるぞ,彼女のために.でも『ちょっとわかんないな』って,あるじゃない.変わんないね,今と.男女の感覚」
最初は受け身だった栄美さんも,康夫さんの人柄を知るうちに,月に一度ほどの頼りを心待ちにするようになります.
“今度,白い猫を飼いました.夜は一緒に寝ています”
“現地の子供たちに折り紙を折ってあげました.戦友は,彼らを不潔だと言うけど,同じ人間です”
1943年(栄美さん17歳)
しかし,文通を始めて1年.栄美さんは,康夫さんの部隊が,苦戦していることを感じ始めます.
“何も考えることも嫌になりました”
「これが一番,グサッときました」
戦争が終わる4ヶ月前.康夫さんからの頼りは途絶えました.
3年にわたるやりとりの中で,一度だけ,康夫さんは栄美さんへのまっすぐな気持ちをつづっています.
“思い出に一番残るものは,いくら考えても,ただ,一人しかありません.長い長い間,本当に楽しい,そして,忘れることができないくらいにまで,印象を残してくださいました人.私も,本当に,その人が大好きです”
「生きててくれたら,会ってみたかった?」「会ってみたかったね」
「そうですよね.大好きって書いてあるとおり,栄美さんのことを大切に思っていたし,何より,会いたかったんじゃないかな」
宮城10代女性 ぽんどさん
「大好き」って言葉が,こんなにも切なく感じたのは初めてです.
東京40代男性 キムキムさん
私の祖父母は,手紙から結婚をしました.そういう関係ってあったんですね.
「ぼく,手紙に何十通もあるもの,全て,見させていただいたんですけれど,手紙のやりとりというのは,本当に,今の時代でもありそうな,この恋というか,男女の距離感の縮まり方なんだけれども,そこに,戦争っていうものが起こってしまうと,ここまで---何て言うんですかね.
2人の仲を引き裂いて,悲しいことになってしまうと思うと驚きでしたし,また,康夫さんの文字が,楽しい話をしてるときは,すごいやわらかい字なんだけれど,本当に,お国のために戦わなければならないという話を書いているときは,字に,そういう思いが乗っかってるというか,つらさも伝わってくるという.本当に貴重なものを見させていただいたなと思いました」
「栄美さんの文通相手の宮崎康夫さんの消息,今回,番組スタッフも調べてみました.
こちらをご覧ください.終戦の年の1945年に,日本兵がいた場所を示しています.
千島・樺太,朝鮮北部・南部,台湾,中国(含む香港),フィリピン,仏領インドシナ,タイ,ビルマ,太平洋諸島,オランダ領東インド(インドネシア等),マレーシア・シンガポール
その数は,およそ350万人.
康夫さんは,こちら,今で言うフィリピンにいたということまで分かっているんですが,その後の消息や,ご家族の連絡先は,分からなかったということです」
「その時21歳」
「康夫さんのような方が,海外に赴いていていた方が,350万人もいたと.
戦争中に海外で亡くなった方は,200万人いたといわれています.その一人一人に,いろんなドラマがあって,生活があったんだなということを,どうでしょう,ジュニアさん」
「監督,兵隊さんにお手紙っていうのは,良く書いておられたんですか」
「そうだと思いますね.だから,沢山,今でも残ってるじゃないですかね.あちこちに.
僕,ちょっとね.猫とか,子供たち,どうしたのかなっていうのを気になっちゃいましたよね.せっかく仲良くしてたんだけど,爆弾が落ちてくるときは,一緒に爆弾が落ちてくるんだし.
200万人亡くなった方の中で,病気で亡くなったとか,食べるものがなくなって亡くなってしまった方が,相当の数なんですよね.でも,「それは,その土地にいる人たちにとっても,やっぱり,食べ物がなくなってしまうとか,いろんなことがあったんじゃないかなと思うと---」
「でも,かなりの数のやりとりがあったでしょうから,もしかしたらその中には,一組,二組会われたっていうこともあるかも分かりませんね.」
「あ〜,そうですね.帰ってきてね.ちゃんと帰って来れた人は,本当に人生がね,またそっから,芽生えていくわけですからね」
「海外でも多くの方が犠牲になった戦争なんですが,国内でも多くの方が空襲でなくなりました.全国500カ所以上が空襲を受け,死者は,およそ,41万人といわれています.
その記憶は,今も多くの人に消えない傷として残っているんです」