中村哲さん.
亡くなるヶ月前の映像です.
(映像:公演する中村さん.神奈川/川崎 9月)
「(アフガニスタンの)治安はですね.過去最悪なんですよ.ますます悪くなっている」
「ともかくですね.和解と言うことですよ.人間と人間が和解する」
中村さんの信念とは,どのようなものだったのか.
20年余りにわたって,記録された映像や,中村さんが遺した膨大な手記.テロを力でねじ伏せるという大国の論理にあらがう,一貫した志が刻まれていました.
(映像 1998年.アフガニスタンの現地の人々と車座に座って現地語で語る中村さん)
「あなた方が脈々と守ってきた文化があることは知っています.それを踏みにじるつもりはありません」
(ペシャワール会 2006年会報より)「『世界平和』のために戦争をするという.こんな偽善と茶番が長続きするはずがない」
2008年には,活動をともにしていた若者(伊藤和也さん 当時31歳)が,武装グループに殺害されます.
中村さんは,その死に対し,自分なりの責任を果たし続けていました.
(映像 伊藤さんのご両親)
伊藤さんの母「この手紙が,最後の先生からいただいた言葉だと思うと,本当に,なんとも言えない気持ちになります」
中村さんは,貧困やテロとどう戦ってきたのか.私たちへの問いかけです.
NHK クローズアップ現代+ の“ダイジェスト”のサイトに,ほぼ全文が公開されていました.
画像は,このサイトからお借りしました.また,以下の文章も,録画から起こしつつ,このサイトの助けを借りて綴ったもの.
既にあるものを,重ねてネット上にあげる必要はありません.しかし,偉大な方と心から思える中村医師の名を本ブログにも残しておきたかったので,取り上げました.yachikusakusaki
“武力ではテロはなくならない”
2001年のアメリカ同時多発テロ事件.
中村さんは,その後,一貫して,武力によるテロとの戦いに疑問を投げかけてきました.
ブッシュ大統領(当時)「テロリストたちに正義をつくつけようではないか」
アメリカなどが,オサマ・ビンラディンなどが潜伏しているとして,アフガニスタンに攻撃を仕掛けます.
(「医者,用水路を拓く」より)「ジャララバードから緊急の電話があり,米国でのテロ事件を伝えられた.テレビが,未知の国『アフガニスタン』を騒々しく報道する.ブッシュ大統領が『強いアメリカ』を叫んで報復の雄叫びを上げ,米国人が喝采する.
瀕死の小国に,世界中の超大国が束になり,果たして何を守ろうとするのか,素朴な疑問である」
中村さんの信念.それは,1983年から,パキスタン,そしてアフガニスタンで活動する仲で培われていたものでした.
(映像 倒れている老人に手をさしのべる中村さん)「おじいさん,大丈夫ですか?」
当初,現地で診療所を開設するなど,医療支援を行っていた中村さん.
しかし,みずからの力の限界を知ることになります.干ばつによる水不足が深刻化し,多くの子どもたちが命を落としていたのです.
(映像 お尻から腹部にかけて赤く爛れたようになっている幼い子ども)
(映像 語る中村さん)
「水が汚い.で,下痢なんかで簡単に子どもが死んでいく.そういう状態を改善すれば.
医者を100人連れてくるより,水路一本作った方がいいですよ」
根源にある問題を解決しなければ,この惨状は変えられない.その考えはテロについても同じでした.
(映像 並ぶ難民テント)
「想像以上ですね」
中村さんは,武力ではテロは断ち切れない,その背景にある貧困の問題を解決しなければならないと考えていたのです.
「家族を食わせるために米軍のよう兵になったり,タリバン派,反タリバン派の軍閥のよう兵になったりして食わざるを得ない.
家族がみんな一緒におれて,飢きんに出会わずに安心して食べていける,というのが,何よりも大きな願いというか,望みじゃないですかね」
2003年,中村さんは貧困問題を解決しようと,新たな活動を始めます.
(映像 クナール川を見て回る中村さん)
「わ〜.前より,だいぶ水量が増えてます」
山々の氷河を源流とするアフガニスタン有数の大河クナール川.
干ばつでも枯れることがない,この川の水を引き込む用水路を作ることにしたのです.
緑の大地計画.
川から用水路を引き,水が届かない地域を潤します.全長20km以上.周辺の土地と砂漠を農地に変えていく,壮大な計画です.
資金もノウハウもない中,手探りの作業が続きました.
(映像 石を運ぶトラクター)
「バックバックバック」
川の流れを変え,水路に水を呼び込むための工事.遠く離れた山から巨大な石を転がして運び,次々と入れていきます.
当時,作業に加わっていた山口敦史さんです.
困難な作業を推し進める力は,中村さん自身の姿勢から生み出されていたといいます.
「雪解け水なんで,本当に冷たい.そこに石が落ちていたら,石が用水路を傷つけるからといって自らどけに入る.
そんな見ていたら,水が冷たくても飛び込んで一緒に取りに行かないわけにはいけない.そういう雰囲気を作っていたのは,中村先生の姿」
次第に,現地の人たちに変化が現れ始めます.
タリバンの戦闘員だった人や,米軍に雇われていた人たちが武器をつるはしに持ち替え,協力するようになってきたのです.
「自分たちの手で国を立ち直らせたい.また農業をやりたいんだ」
「農業ができるようになれば,子どもに食べさせることができる.出稼ぎに行かずに,家族と一緒に暮らせるんだ」
(ペシャワール会 会報より)「アフガン問題とは,政治や軍事問題ではなく,パンと水の問題である.『人々の人権を守るために』と空爆で人々を殺す.果ては『世界平和』のために戦争をするという.いったい何を何から守るのか.こんな偽善と茶番が長続きするはずはない」
(映像 ヘリコプター.その下で用水路建設の作業をする中村さんと現地の人々)
用水路完成に向けて,作業を続けていた中村さん.
その上空を,アメリカ軍のヘリコプターが行き交うようになりました.
「攻撃用っていうんですかね.それが旋回してきて,ここを機銃掃射したわけですね.危なかった」
アメリカは,アフガニスタンへの空爆を継続.誤爆も相次ぎ,民間人の死者が急増します.
一方,タリバンは爆弾テロなどで対抗.治安は一段と悪化していきました.
日本は,テロとの戦いの一環として,インド洋で海上自衛隊による給油活動を行っていました.
(映像 日の丸を消した跡が残る車両)
欧米の支援団体と差別化でき,安全につながると中村さんたちが車につけてきた日の丸.かえって危険を招くと感じ,消すようになりました.
(ペシャワール会 会報より)
「『日本だけが何もしないで良いのか,国際的な孤児になる』ということを耳にします.だが,今熟考すべきは『先ず,何をしたらいけないか』です.民衆の半分が飢えている状態を放置して,『国際協調』も『対テロ戦争』も,うつろに響きます」
“仲間の死”それでも続けた活動
2008年8月.中村さんにとって,衝撃的な事件が起きます.
5年にわたり活動をともにしてきた仲間を,武装グループに殺害されたのです.
伊藤和也さん.
2001年の同時多発テロ事件をきっかけに,中村さんの志に共感し,活動に加わっていました.
中村さんは伊藤さんへの追悼文で決意の言葉を寄せていました.
(「アフガニスタンの大地とともに 伊藤和也 遺稿・追悼文集」より)
「今,必要なのは,憎しみの共有ではありません.憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え,今後も力を尽くすことを誓い,心から祈ります」
(映像 墓参する伊藤正之さん.順子さん)
伊藤和也さんの両親です.
母 順子さん「これを3つ,先生が持ってきてくださった」
以下続く.