「私は産みたかった~旧優生保護法の下で~」3
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障害者が生まれないことを目的とした優生保護法.
1960年代後半,不妊手術以外にも障害者の誕生を妨げる手段が現れます.日本で出生前診断の技術が確立されたのです.
「不幸な子どもの生まれない運動」
1966年に,全国に先駆け,兵庫県が始めた取り組みです.運動の目的は,安全なお産の普及と障害児が生まれないようにするという“発生予防”.
その中で導入された出生前診断.
しかし,兵庫県のこの運動は,障害者本人たちからの激しい反発を引き起こします.
当時,抗議活動を行った古井正代(ふるいまさよ)さん.
脳性マヒと診断された一歳半の時.母親は障害を悲観し,古井さんに手をかけようとしたといいます.「生きてる障害者を殺すのも,お腹の中で(障害が)わかって殺すのも,いらない存在やと思うから殺すわけでしょ.いる存在やったら誰も殺さへんわけや」
NHK ETV特集「私は産みたかった~旧優生保護法の下で~」4
生まれる前に,障害の有無が分かる出生前診断の技術.それは優生保護法にも影響を及ぼします.
1972年に改正案が提出されたのです.
それまで,優生保護法は,障害者への不妊手術によって,障害のある子どもの誕生を防ごうとしてきました.
改正案はそれに加えて,妊娠中,胎児に障害が見つかれば,それを理由に中絶してもいいと,明確に定めるものでした.
(映像 委員長「優生保護法の一部を改正する-----」 委員会室奥でなにかざわめき)
これに対し,古井さんたち障害者の団体は猛抗議.
(映像 委員会室傍聴席の障害者たち)
激しい議論の末,法律の改正は見送られることになりました.
こうした動きは,優生保護法が障害者を差別しているという認識を広げていきます.
1970年代以降,強制不妊手術の件数は減っていきました.
(映像 古井正代さんの自宅 食卓場面)
古井透さん「味はね,コーラの味がする.これが不思議と」
25歳の時,古井さんは運動を通して知り合った男性と結婚しました.
古井正代さん「甘いやん」
「そりゃコーラやもん」「いらんわ」「何それ」
正代さん「ほな,いただきます」
現在は,夫と子どもと一緒に暮らしています.
(映像 夫・透さん,次男・勝さん,長女・妙さんと食卓を囲む正代さん)
「子育てなんか,できるはずがない」
当時,親族は古井さんの出産に強く反対したといいます.
「でか,お母さん食べれてんの?」「引っ張って」「何を引っ張るの?」
「かむから,引きちぎる能力ないので」
(映像 噛んだ肉を,透さんに引っ張ってもらって噛みきる正代さん)
それでも,3人の子どもたちを産み育てました.
古井さんは,今でも,障害者に向けられる目線に違和感を覚えることがあるといいます.
(映像 横断歩道を電動車いすで渡る古井さん)
「私たち,障害者を見て,『あんな姿になったらおしまいや』とか,勝手に人のことそうやって,いまだに,その辺行ったら,結構,お年寄りの人が,そないに言いはるもんね」
「私は楽しんでるのに,なんでおしまいと思うか知らんけど」
(映像 「行け行け」といいながら,電動車いすを手繰る正代さん)
「不幸であるかないかは,本人が決めることであって,他人が決めることではありません」
続く