長田 弘「国境を越える言葉」なつかしい時間(岩波新書1414) より
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言葉以上におたがいを非常に親しくさせるものはありません.にもかかわらず,その言葉を共有しないとき,あるいはできないとき,知らない国のまるで知らない言葉がそうであるように,際立って親和的にもなれば,際立って排他的になるのも,言葉です.
けれども言葉には,もう一つの言葉があります.在り方も,はたらきかたも異なる,別の言葉.ないもの,ここにないもの,誰も見たことのないもの,見えないもの,そういうものについて言うことができる言葉です.
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ああ,(------)どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように.そのためならば,わたしのからだなどは,何べん引き裂かれてもかまいません
[宮沢賢治 「カラスの北斗七星」 より]
戦いが終わって,
戦士が死んでいた 男がひとりやって来て
言った.ー《いけない 死ぬのは!きみをこんなにも愛している》
けれどもその屍(しかばね)は ああ!死につづけた
[バジェッポ 「群衆」(飯吉光男訳)より]
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しかし,二人の詩人の言葉に遺されているのは,そのときおたがいに知る由もなかった二人の詩人が国境を越えて共有していたと言っていい,死者への深い祈りと沈黙です.
その言葉によって,感じ,考え,受け止めるほかない言葉があります.そのように言葉でしか言い表せない大事なものを,国境を越えて,私たちはそれぞれの言葉のうちに,おたがいにもちあうことができるということを,二人の詩人の言葉は伝えています.
国境を越え,それぞれの違いを越えるのは,言葉でなくて.言葉が表す概念です.
概念は音楽に似ています.
それぞれの言葉という楽器によって,わたしたちにとって大切な概念を,誰にむかって,どう演奏するか.なにより国境を越えた概念の共有が求められなければ,たやすく過つ(あやまつ)だろう.そう思うのです.