科学の名の下に・旧優生保護法を問う
/3 産科医主導で「選別」
毎日新聞2018年6月6日 東京朝刊
https://mainichi.jp/articles/20180606/ddm/041/040/157000c
「当時は優生思想を反映した法律があり,産婦人科医は,法に基づき国や親の要望に応えた」.日本産婦人科医会の木下勝之会長(77)が振り返る.
同会は,旧優生保護法が施行された翌年の1949年に設立され,優生保護行政を後押しした日本母性保護医協会(日母)が前身だ.
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旧法は議員立法で成立した.提案したのは,参院議員の谷口弥三郎氏や衆院議員の太田典礼氏*(いずれも故人)ら産婦人科医だった.
谷口氏が死去した後の63年に発行された業界誌には「思いやりの行き届いた」「理想を抱き邁進(まいしん)した」など故人をしのぶ記事が並ぶ.
一方で谷口氏は,障害者らへの差別的表現を繰り返した.
48年11月の参院厚生委員会.「浮浪者とかごく下の階級,乞食みたようなもの(議事録のまま)」にも「どしどし保健所の医師が申請して(略)不良分子の出生を防止する」よう厚相に強制不妊の推進を求め,対象を遺伝性以外の「精神病」「精神薄弱」(当時の病名)に広げた52年の法改正でも中心的役割を担った.
反対意見も国会議事録上は皆無で,社会的な反発もなかった.
そうした中,谷口氏が旧法に基づく人工妊娠中絶の指定医団体として設立したのが日母だった.
53~61年の人工妊娠中絶は毎年100万件を超え,全国の開業医の収入源となった.強制不妊手術の7割にあたる女性の手術も執刀した.
「優生利権」を日母が独占した.
だが,避妊法が普及していくと,人工中絶は減少.強制不妊手術も減っていった.
一方で「自己決定」という衣をまとい,出生前に胎児の異常の有無を調べて選択的に中絶する「新たな優生」が登場した.
66年に兵庫県で「不幸な子どもの生まれない運動」が始まった.
「障害児の出生予防」を掲げ,羊水検査費を県が負担するなど医学と行政が連携.運動は全国に広がった.障害者団体などの抗議で74年に県の対策室は廃止されたが,「障害児は不幸」との認識を社会に植え付けた.
技術の進歩で出生前診断が身近になった今,初期から関わってきた産婦人科医の佐藤孝道さん(72)が危惧を抱く.
より手軽に「選別」を進めるビジネスが医療現場に浸透し,「出生前診断は受けて当たり前」という風潮が生まれれば,親たちは不安をかき立てられる.
その先に待つのは,旧法が目指した「障害者を排除する」世界だと思うからだ.
「好きで中絶や不妊手術をする医師はいない.
過去の医師たちの罪を問うなら,同時に障害児を当たり前に受け入れる社会をどう構築するのか,社会全体で考えなければ」.強制不妊を批判してきた産婦人科医の堀口貞夫さん(85)が言った.
命の誕生に立ち会う産科医たちは,常に「優生」と隣り合わせだ.社会のありようを映し出す鏡であり,社会への警告役にもなる.
=つづく
1948年 優生保護法成立
66年 世界で初めて羊水細胞の染色体分析実施
兵庫県で「不幸な子どもの生まれない運動」開始
70年代 羊水検査が国内で広まる
72年 「胎児条項」を追加する旧法改正案が廃案に
74年 「不幸な子どもの生まれない運動」県対策室が廃止
2013年 国内で新型出生前診断開始