NHK ETV特集「私は産みたかった~旧優生保護法の下で~」2
7月21日土曜NHKEテレ1 午後11時00分~ 午前0時00分
再放送 7月26日木曜 午前0時(水曜深夜)
「私は産みたかった~旧優生保護法の下で~」1
「何も告げられないまま子どもをうめなくされたんで,ずっと今日に至るまで,毎日苦しい思いできたんで,うん----(涙)」NHK ETV特集「私は産みたかった~旧優生保護法の下で~」1 -yachikusakusaki's blog
16歳の時,私は子どもを産めない身体にされました.飯塚淳子さん(仮名 70代)
「いろいろやりたいことがあったり,夢もあったし,くやしいし,くやしいだけじゃすまない問題なんで」
「やっぱりできれば16歳にもどして欲しい.そこからやり直したいって思いがあるんで.でも戻れないんで」
飯塚さんが手術を受ける理由となった法律.
障害や病気が子孫に遺伝しないよう,精神障害者や知的障害者などへの,強制的な不妊手術を認めていました.
そのルーツは,19世紀の終わりから世界中でブームになった優生学.
劣った人間の遺伝子を淘汰し,優れた人間を増やすことが社会の発展につながるという考え方.
スウェーデンやドイツ,アメリカなどで,国家による不妊手術が広がりました.
日本で優生保護法がつくられたのは,戦争が終わってからのこと.
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人口爆発を防ぐためにも,当時,法律で禁止されていた妊娠中絶を求める声が高まります.
しかし,中絶の解禁に対して,国会で懸念の声が上がりました.
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優生保護法を提案した議員の一人・谷口弥三郎「よほど注意せんと,子孫の将来を考えるような,比較的優秀な人が普通産児制限を行い,無自覚者や低脳者などはこれを行わんために,国民資質の低下,すなわち民族の逆淘汰が現れてくる恐れがあります」
「逆淘汰」----
この考えのもと,妊娠中絶を解禁する一方,障害者への強制不妊手術が,法律に盛り込まれたのです.
1948年.優生保護法は全会一致で成立しました.
「----素質の悪いものはどんどん優生手術をして,今後そういう不良分子の出生を防止するというように活動するようして頂きたい」
1950年代,強制不妊手術は,年間1000件以上のペースで行われて行きました.
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1960年代後半,不妊手術以外にも障害者の誕生を妨げる手段が現れます.
日本で出生前診断の技術が確立されたのです.
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生まれる前に障害の有無が分かる出生前診断技術.
それは優生保護法にも影響を及ぼします.
1972年に優生保護法改正案が提出されたのです.
それまで,優生保護法は,障害者への不妊手術によって,障害のある子どもの誕生を防ごうとしてきました.
改正案はそれに加えて,妊娠中に胎児に障害が見つかれば,それを理由に中絶してもよいと明確に定めるものでした.
これに対し,古井さん(兵庫県「不幸な子どもの生まれない運度」に抗議してきた古井正代さん)たち障害者の団体は猛抗議.
激しい議論の末,法律の改正は見送られることになりました.
こうした動きは,優生保護法が障害者を差別しているという認識を広げていきます.
1970年代以降,強制不妊手術の件数は減っていきました.
1996年,国際的な批判が高まるなか,優生保護法は母体保護法へとその名を変え,強制不妊手術の規定は廃止されました.
しかし,国は,被害者への謝罪も補償も行いませんでした.
飯塚さん「闇に葬られては困るっていう,その思いがずっとあったんで---」
私は16歳で,子どもを産めない体にされました.その事を少しでも知って欲しい.私は自分の経験を語ることに決めました.
飯塚さん「五十何年という長い年月.誰にも言えないで心に秘めて生きてきました.いつも優生保護のことが頭から離れないし,今も心の傷は消えることはありません」
厚生労働省にも足を運びました.
でも「当時は合法だった」と言われました.
手術から55年.
今年,私と同じように手術を受けた人たちが,全国で裁判を起こしました.
国も調査を始めたそうです.
でも,謝罪や補償は,今もありません.
洗濯物を取り込む飯塚さん「もう,やるときは簡単にやったんでしょうけどね」
日本では,まだ,検討が始まったばかりの被害者への謝罪や補償.
海外では,過去の過ちを精算しようと,徹底的に取り組む国もあります.
36万人が法の下での不妊手術を受けたドイツ.
(映像)ドイツハダマー
障害者を排除しようという思想はエスカレートし,その後虐殺にまで至りました.
(映像)ハダマー精神科病院
番組まるごとテキスト - シリーズ戦後70年 障害者と戦争 20万人の大虐殺はなぜ起きたか
38年前に,被害者の補償が始まりました.今でも年金が支払われています.
国による謝罪や補償.
それと同時に行われてきたのが,なぜ,悲劇が起きたのかを,未来に伝える取り組みです.
(映像)ハダマー精神科病院ガス室を見学してまわる女子学生の一団
説明者「このガス室におよそ50人ずつ入れられ,医師の立ち会いのもと,殺されました.
全ては『安楽死』という名で行われました.『安楽死』という言葉は,本来の死を手助けする意味もありますが,ドイツでは精神疾患の患者や障害者の虐殺も意味します」
伝えているのは,障害者を『不幸から解放する』という名目で虐殺が行われたという事.
そして,虐殺をになったのは,国だけではないという事.
(映像)かつてのハダマー精神科病院の遠景.煙突から煙り.
番組まるごとテキスト - シリーズ戦後70年 障害者と戦争 20万人の大虐殺はなぜ起きたか
国が虐殺の中止命令を出したあとも,医師や介護士などが,自らの判断で続けていたのです.
説明者「虐殺はベルリンからの指令ではなく,この現場にいた医師,介護士が決めていきました.その医師も介護士も虐殺を続けなくてもよかった.
強制はなかった.誰もがノーと言えたのです.
もちろん,周囲の市民もこの事実に気づいていました.病院から死体を焼く煙は,止むことがなく,臭いもありました.
当時の子どもたちは,よく,『いい子にしないとハダマーのオーブンに入れられるよ』と言われることもありました」
「障害は不幸」という考えが加速させた悲劇.
それは,この先,二度と起こらないとは限らないと伝え続けています.
ハダマー記念所ガブリエル所長「当時の人たちも,悪人になるために生まれてきたわけではありませんし,そう,しつけられたわけでもありません.
はじめから『人権を無視する人』だった訳ではないのです.
時代や政治が変わる中で,社会的弱者が“敵”だとされると,突然,その人たちを攻撃するようになってしまう.
これは,歴史の中で度々繰り返してきました.
だからこそ,社会の変化を注意深く見ていく必要があるのです」
ニュースアナウンサーの音声
「相模原市の障害者施設で入所者などが刺され,19人が死亡し,25人がけがをした事件で,逮捕された,施設の元職員の男が,調べに対し,障害者がいなくなればいいと思ったという趣旨の供述をしているという事で,事件の動機などを調べています」
(優生保護法がなくなって20年目の事件)
続く