アセビ(アシビ 馬酔木)を詠んだ短歌  磯の上に生(を)ふる馬酔木を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女  池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入(こき)れな 大伴家持  庭隈のあしびの花に夕雨のあかるうそそぐ見つつ語らふ 佐佐木信綱  のぼり来し比叡の山の雲にぬれて馬酔木の花は咲きさかりけり 斎藤茂吉  水の辺の馬酔木の若木小さけれどほのかに群れて花つけぬらし 北原白秋  来る道は 馬酔木花咲く日の曇り—。大倭(ヤマト)し遠き 海鳴りの音 釈迢空

鎌倉に所用で出かけました.

少し早く着いたので,鎌倉駅からすぐのおんめさま(大巧寺)へ.鶴岡八幡宮の二ノ鳥居近く,

大好きな,このブログでも一番多く取り上げてきた寺院.

いつ行っても花に出会えるお寺です.今日であった花々は:

 

ヤマザクラトキワマンサク

ヒメツルソバタンポポ

ヤマブキ.

ヒメウツギ.こちらはまだ蕾.もうすぐ花開きそうです.

ハナニラとオオツルボ(ワイルドヒヤシンス).

リキュウバイ(ウメザキウツギ).

ヒルムシロ.

ザクロの芽とマツの蕾.

そして

アセビ/アシビ(馬酔木).

 

アセビは,この時期,鎌倉のお寺・寺院では必ずと言っていいほど出会う花.個人のお宅の門の横や垣根の横にも花を咲かせています.

葉に,ツツジ科の植物の多くが持つ毒(グラヤノトキシン類)の一つ(グラヤノトキシンⅠ /アセボトキシン)を持っていて,奈良の鹿が食べ残すことで知られていますが,万葉集に十首ほど詠まれていて,万葉歌人に愛された花としても有名です.

 

 

アセビ(アシビ 馬酔木)を詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

磯の上に生(を)ふる馬酔木を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに  大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集巻二 166

 

斎藤茂吉 万葉秀歌: 石のほとりに生えている,美しいこの馬酔木の花を手折りもしようが,その花をお見せ申す弟の君(大津皇子)はもはやこの世に生きておられない.)

 

池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入(こき)れな  大伴家持 万葉集 巻二十 4512

 

庭隈のあしびの花に夕雨のあかるうそそぐ見つつ語らふ  佐佐木信綱 山と水と

 

花時の馬酔木に月のまさやけく白々にほふ木下くぐりつ  岡麓 宿僕詠草

 

のぼり来し比叡の山の雲にぬれて馬酔木の花は咲きさかりけり  斎藤茂吉 白桃

 

水の辺の馬酔木の若木小さけれどほのかに群れて花つけぬらし  北原白秋 風隠集

 

来る道は 馬酔木花咲く日の曇り—。大倭(ヤマト)し遠き 海鳴りの音  釈迢空 倭をぐな

 

馬酔木の花うつろふ傍(そば)に枯木なす合歓は五月に入らば芽ぶかむ  山口茂吉 赤土

 

数花の白き馬酔木は灯(ひ)映りにみどり含みて房に垂りつつ  宮柊二 群鶏

 

ひとり知るけやきの道の花あしび花終る日の雲凍る色  近藤芳美 黒豹

 

土曜午後ここの馬酔木に来て坐る何もかもわが失いしはて  田井安曇 経過一束 

 

昏れ残る障子明かりの花のいろ馬酔木のかたに春は来てゐる  稲葉京子 柊の門

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/アセビ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルーベリー

 

うらうら/うららかを用いた短歌  うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば 大伴家持(前半は,情景ですよね.後半で自分の気持ちが詠われるんですけど,その,コントラストが現代の感覚に通じるような気がしますね) 麗らかや此方(こなた)へ此方へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず 北原白秋  うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花 若山牧水  うららかに一天晴れて吹く風のとよみの音も耳にのどけし 尾山篤二郎

久しぶりによく晴れ,うららかな春の日を満喫できる一日.

青空の下,江ノ島付近の波は穏やか.弁天橋から見た富士は,春の富士.遠く霞んだ姿を見せていました.

晴れた日に,かえって物憂くなることもあるかとは思いますが---今日は,澄んだ青空を見ただけで心躍り,ウキウキした気分で片瀬東浜から,境川の川辺を歩いて江ノ電鵠沼駅あたりまで歩いてきました.

 

境川河口の桟橋につながれた舟には,休息の時を過ごす海鵜が二羽.

 

道路沿いのお宅や,公園,教会の花たち.

 

柿の木,早咲き桜,梅,カナメモチの新芽からは,元気をもらえます.

松の雌花.この写真では雄花は見えませんね.

 

片瀬教会の前を通る道の境川側の土手の桜.見事に咲き誇っていました.

 

 

うららか,うらら,うらうらを用いた短歌

(古今短歌歳時記より)

 

うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば  大伴家持 万葉集巻十九 4292

 

穂村弘

NHK「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」

麗らかに晴れた春の空に,雲雀が上がつていく.でも,ものを思つている私の心は,悲しい.

前半は,情景ですよね.自分が目で見た物が詠われていて,後半で自分の気持ちが詠われるんですけど,その,コントラストがすごいですよね.

でも,今の我々も,明るい物を見れば明るくなるとは限らなくて,気持ちが沈んでいる時,明るい物いを見てしまうと,より,何か暗くなるというようなこともあるので,このコントラストが現代の感覚に通じるような気がしますね.

 

 

ことといへばもてはなれたるけしきかなうららかなれや人の心の  西行 山家集 

 

うららかに蒼雲たなびく岡の辺を樹を植うる人豆の如く見ゆ  伊藤左千夫 左千夫歌集

 

麗らかや此方(こなた)へ此方へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず  北原白秋 雲母集

 

うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花  若山牧水 山桜の花

 

うららなる春日ねもすを 出で遊ぶこと七日にも なりやしつらむ  釈迢空 遠やまひこ

 

うららかに一天晴れて吹く風のとよみの音も耳にのどけし  尾山篤二郎 平明調

 

野に花を摘みにゆかなむ春うらら巷に虚飾の花をもとめず  宮崎智恵 花鏡

最中 「餅を薄くのばし,切って型で焼いた皮=もなか種(だね)をつくり,餡をはさんだもの」.最中の元の意は「事物または事柄の中心.まんなか.中央」.「陰暦十五夜,またはその月」の意味も持つようになり,江戸時代「最中の月」という菓子が作られ評判に.現在でも丸い形が一般的かと思いますが,有名店の最中は,それぞれ形にも工夫を凝らしていて,見た目も楽しませてくれています.

和菓子の最中は,「餅を薄くのばし,切って型で焼いた皮をつくり,餡(あん)をはさんだもの」(事典和菓子の世界 岩波書店).

 

https://www.google.com/search?最中

皮の原料は餅米なんですね.今まで気にしたことがなかったので,やや驚きですが,聞けばなるほどそうなのかという印象です.

型で焼いた皮は「もなか種(だね)」と呼ばれ,種屋などと呼ばれる専門の業者がつくる事が多いとか.

餅として食べる餅の製法と異なり,一般的には米粉としたあとに蒸して餅生地にするようですhttp://tanehirosyoten.main.jp/process.html

https://fukuyama-monaka.jp/process/).

 

最中の由来

「最中 もなか」という言葉は,現代では,この和菓子をさす言葉として用いられる場合がほとんどかと思いますが---

 

日本国語大辞典によれば,

最中( もなか)のもともとの意味は,

①「事物または事柄の中心.まんなか.中央.」

②「まっさかり,さいちゅう(最中は「さいちゅう」とも読めますね)

 

室町時代になると,

③「陰暦十五夜,またはその月」の意味も持つようになり---

 

江戸時代にできた和菓子の最中は,「形が円形で,最中の月(=陰暦十五夜の月)に似ているところからこの名前で呼ばれるようになった」とのこと.

 

満月のように丸いのが原形で,江戸時代に初めて最中を作ったと言われる吉原の菓子商竹村伊勢がつけた名前は「最中の月」.

当時とても有名になったようで,川柳や黄表紙に描かれています.

「吉原は竹の中から月が出る」(柳多留 事典和菓子の世界 岩波書店

「もなかの月八片をもって小判一両にかへ」黄表紙・文武二道万石通(1788)下 日本国語大辞典

 

「最中の月」の月が取れて最中になったのかと思われますが,江戸時代には「最中饅頭」という菓子が日本橋で作られていたとの記録(江戸買物独案内)もあるとのこと.事典和菓子の世界 岩波書店

最中の月/最中饅頭⇨最中 ということでしょうか?

 

現在でも最中と聞けば,私は丸い形を思い描きますが---

有名店の最中は,それぞれ形にも工夫を凝らしていて,見た目も楽しませてくれています.

美味しそう!

https://www.shiose.co.jp/products/sodegauramonaka-6

https://ja.wikipedia.org/wiki/空也最中

http://www.ueno-usagiya.jp/okashi2/okashi2.htm

https://www.o-sakaya.com/product/syuushikimonaka/

https://www.google.com/search?古印(こいん)最中

https://www.kankomie.or.jp/spot/23285

https://www.edenotsuki.com/item.php?item_num=1

 

今川焼き/大判焼き/回転焼き---- 多様な名称には,多くの方々が興味を持っていて,この名称の違いを解説した記事がネット上にも溢れていてます.同志社大の吉海先生の記事だけでざっと数えるて26の名前が挙げられていて,他の記事も合わせると,30を越える名前がありました.地方によって呼び名が異なること,その傾向も調べられていますが,最も古い名前は今川焼き(1770〜1780頃)であることは多くの記事に共通しています.

全国的に根強い人気を持っている今川焼き大判焼き回転焼き----

この和菓子の多様な名称には,多くの方々が興味を持っていて,この名称の違いを解説した記事がネット上にも溢れていてます.

https://www.google.com/search?今川焼き/大判焼き/回転焼き

その中には同志社大や奈良大の先生方が調べた記事もあります.

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2017-08-10-13-07

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

 

この内,同志社大学の吉海先生は,沢山の名称を採取して,それぞれの名前の由来についても簡単な解説をつけています.

驚くのはその数の多さ.

吉海先生の記事だけでもざっと数えると26.

他の記事も合わせると,30を越える名前がありました.

由来がはっきりしない名前も多いようですが,例えば兵庫県の御座候は「他店の開店焼きと区別してお客様がそう呼ぶようになったから」とのこと.

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

それぞれの名前には一つ一つ物語があるのでしょうね.

 

このような多様な名称を持っているものの,地方によって優勢な名前があることよく知られていて,全国の傾向を網羅的に調べた記事も.

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

https://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all

この内,Jタウンネットの記事の図をお借りして掲載しておきます.詳細はこのサイトをお読みください.

https://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all

 

このような多様な名称で呼ばれているものの,どの記事にも「最も古い呼び名は今川焼き」とあります.その理由をはっきり示しているのが,国立国会図書館のサイト.

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000143045&page=ref_view

この記事には,

「1770〜1780頃,今川焼きという名で売り出された」ことを示す資料が明記されています.

他の名前でこれより古い物はみつからないということですね.

 

国会図書館レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000143045&page=ref_view

今川焼は、江戸中期の安永年間(1772~80)頃から、神田の今川橋辺りで売り出された.

▽1777(安永6)年に出た『富貴地座位』という資料の中に、「本所の今川焼き那須屋弥平」と店の名前が記されている.

この内容を書いている資料名:

・『たべもの起源事典』岡田 哲/編 東京堂出版 2003
  p.51 いまがわやき(今川焼き
・『事典和菓子の世界』中山 圭子/著 岩波書店 2006
  p.20 今川焼 いまがわやき

三浦の新キャベツ/春の日を詠んだ短歌  三浦の畑へ行って来ました.今の主力は春キャベツ.桜の開花と同じく,早いと思った収穫が遅れたそうです.畑では春の日を満喫してきました. けふのみと思へばながき春の日もほどなくくるる心地こそすれ 西行  つれづれと物おもひをれば春の日のめにたつものは霞なりけり 和泉式部  春の日は ただのどかにてあらましを—.人の家出でて目に沁む青空 釈迢空

今日は,友人の農家さんを訪ねて三浦まで行って来ました.

畑は,三浦半島の先端に近い高台.

途中,長者ケ崎でトイレ休憩.

夏は海水浴で賑わう場所.今はウィンドサーフィンと春の水辺を楽しむ親子連れの方々でチラホラ.

遠くに江ノ島が見える浜辺で,見晴らしのよい時には富士山も見えるのですが--

水平線にはヨットがかなりの数見えました.

駐車場脇の春の野の花たち.

 

今の季節,三浦の畑の主力は春キャベツ.

春先には,収穫が早まると思っていたところ,その後の寒さで,今一番美味しいとのこと.桜と一緒ですね.花と野菜の違いはありますが.

友人は,農家といっても普段は勤めに出ていて,高齢の父親を助けて,毎週土日のお手伝い.休みなく働いています.

畑に入ると,土がふわふわ.よく手入れされていることを足で感じることができました.

曇ってはいましたが,暖かな春の日を満喫できました.もちろん沢山の春キャベツが,帰りの車のお供に.

 

春の日を詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則 古今集小倉百人一首

 

けふのみと思へばながき春の日もほどなくくるる心地こそすれ  西行 山家集

 

つれづれと物おもひをれば春の日のめにたつものは霞なりけり  和泉式部 玉葉

 

鶯に蛙鳴きつぐ庭ありて我が春日は果なきごとし  北原白秋 黑檜

 

春の日は ただのどかにてあらましを—.人の家出でて目に沁む青空  釈迢空 遠やまひこ

 

こんなにも美しい春の日に生きてゐていいのかと子供の手をにぎりしめる  五島美代子 暖流

 

春の日の正午とおもふにほひして敏捷に薔薇は花びらひらく  生方たつゑ 鎮花祭

 

 

 

わらび餅 わらび餅は,本来は,ワラビの根から採った「わらび粉」を用いて作られてきたものですが--- 江戸時代から既にわらび粉以外の材料も用いられていました.わらびもち粉には 「①本わらび粉100%②本わらび粉を数パーセント配合(残りは芋系でん粉)③本わらび粉ゼロで芋系でん粉100%」があるとのこと.有名和菓子店でもわらび粉ゼロの商品もあります.わらび餅の歴史も踏まえれば,わらび粉100%にこだわる必要はないとはいえ,わらび粉100%,もしくはそれに近いものの味だけは確かめておきたいですね.

今日は,日が沈んでから買い物.少し足を伸ばして勝たせ片瀬東浜へ.

曇り空でしたが,夜の江ノ島は,灯台の光と,大橋〜ヨットハーバーの道路を照らす光,そして,引いたあとの砂浜がこれらの光を反射させていて,美しい光景を作り出していました.

帰りにセブンイレブンへ寄って,明日の朝食用のサンドイッチ(車で出かけるので)・飲み物を購入.

お菓子コーナーにわらび餅(商品名は「とろもちわらび」)を発見.今日のブログの題材にしようとしていたので,これも購入.

原材料は?とみると:

味付けは,「きな粉,加工黒糖,精製糖,黒蜜」

わらび餅部分の材料は,「デンプン,わらび粉,寒天/加工デンプン,糊料(加工デンプン,増粘多糖体)」.

一応,わらび粉も入ってはいるものの,コンビニ商品として並べるための工夫が多数詰まった材料が用いられていました.

 

わらび餅は,本来は,ワラビの根から採った「わらび粉」(ワラビでん粉が主成分)を用いて作られてきたものですが---

https://ja.wikipedia.org/wiki/ワラビ

https://www.google.com/search?ワラビの根

 

わらび餅は,江戸時代から盛んに食べられていて(料理物語1643年にレシピが載っている!),この時から既に,わらび粉以外の材料(例えばくず粉)も用いられていました.

儒者林羅山の丙辰紀行(1616)によれば,東海道の日坂の宿の名物のわらび餅はくず粉を混ぜたもので,きな粉に塩を加え,まぶしたものだという」(事典和菓子の世界 岩波書店

 

現代のわらび餅のレシピにも,わらび粉は高価で手に入りにくいこともあり,他の材料を用いたものが掲載されています.

「わらび餅」での検索トップのレシピ(白ごはん.com)は「わらびもち粉」(わらび粉ではない!)を用いていて,その解説は次の通り:

https://www.sirogohan.com/recipe/warabimoti/

わらび餅の材料  (3~5人分)

わらびもち粉(※)…60g  •砂糖 … 80~100g  •水 … 300ml  •きな粉 … 大さじ3~4

※わらびもち粉の市販品には

【①本わらび粉100%】【②本わらび粉を数パーセント配合(残りは芋系でん粉)】【③本わらび粉ゼロで芋系でん粉100%】があります.

①は粘りが強くて黒っぽい仕上がりに。

②は5~10%配合のものが多く、適度にわらび粉の香りも感じられて粘りもしっかりめ(我が家ではこのタイプを愛用しています)。

③がいちばん流通しているもので、もちもちした食感。「わらびもち粉」という商品名でも本わらび粉が入っていないものもたくさんあるので要注意です!

 

わらび餅は,奈良の名物として名が通ってきましたが,本場奈良の和菓子店でもわらび粉100%の商品はそれほど多くないようで,例えば,次の「千壽庵吉宗」では,2種類の商品を販売していて,一方のみ(純本生わらび餅)がわらび粉100%.人気トップの商品(生わらび餅)は,「天日干し甘藷でん粉(さつまいもでん粉)を主体とし,国産本わらび粉をブレンド」とあります..


わらび餅として,わらび粉以外のものを用いる時には,さつまいもでん粉が多いようですが,中にはコンニャク成分を活用しているものも見られました.

 

消費サイドとしては,美味しければ良いので(もちろん安全でなくてはいけませんが),わらび餅の歴史も踏まえれば,わらび粉100%にこだわる必要はないといえます.ただ,わらび粉100%,もしくはそれに近いものの味だけは確かめておきたいですね.

実は,はっきりとわらびこ100%と確認してわらび餅を食べたことはありません.近日中に試さなくては.

 

月餅家直正,文の助茶屋,叶匠寿庵のわらび餅.

https://www.google.com/search?月餅家直正

https://www.google.com/search?文の助茶屋 わらび餅

https://kanou.com/gnaviplus/item/souanwarabi/

 

付録

菓子材料の基礎知識

創業明治43年 御菓子処・宇治駿河屋[うじするがや] 

https://www.surugaya.co.jp/school/kisogaku/denpun.html

わらび澱粉 (蕨粉 わらびこ)

蕨は地下に直径1㎝位の太く長い根茎を有し、横に伸びて繁茂している。

わらび澱粉の製造は、秋の九月から十一月ごろにかけて、わらびの根を掘り出し、まず30センチくらいの長さに切断し、臼(木製もたは石製)の中でよく粉砕し、これに水を加えてでんぷんを洗い出し、何回も水洗いと沈殿を繰り返して精製し、製品にする。

精製法は、葛澱粉と同様に処理して行なう。

収量は、生原料に対して21%前後である。生産は比較的僅少であるが、わらび餅、その他に用いられる。

国産わらび澱粉は非常に高価なものなので、最近は国産わらび澱粉の代わりに、片栗粉、ジャガイモ、甘藷でんぷん、タピオカ澱粉などで調合・混合された物が殆どである。

国産わらび粉

純正国産わらび粉は灰汁も強いが、その分風味も優れている。精製段階でもこの風味を大切に残すためにも純白には仕上げていない。

国産のわらび粉かどうかは、熱を加えて練り上げると、茶褐色の独特の腰のある粘りが出てくる。冷えると強い粘りがありながら歯切れと口溶けの良さ、独特の野性的な風味はその他の澱粉質とは明確に異なる。

(仕上がり比較)

国産わらびの仕上色は黒っぽくて見た目も悪い。

代替えわらび粉(タピオカ澱粉や甘藷澱粉などでのミックス製品)は色も浅く、食味も進む色合いだが、食すると味はまるで無い。

どら焼き(別名三笠山) 好きな和菓子ランキングでも,大福(いちご大福を含む),団子(みたらし団子+餡の団子)に次ぐ人気和菓子.江戸時代には,どら焼きと金鍔は同じものを指していたとのことですが,明治になって卵を入れた生地を使う丸い形に.どら焼きの名前は銅鑼に似た形だからという説以外に銅鑼の上で焼いたからという説があります.三笠山は奈良の三笠山の稜線の形から,或いは三笠山にかかる満月から.

ご近所の和菓子店でどら焼きを購入.重曹の味が少し残っていましたが,それはそれ.美味しかったです

どら焼きは大好きな和菓子の一つです.ネット上の好きな和菓子ランキングでも,大福(いちご大福を含む),団子(みたらし団子+餡の団子)に次ぐ人気和菓子で,

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/03/27/235653

和菓子を置いてあるお店ならほぼ必ずあるような気がします.

セブンイレブンを含め.

東京では,

うさぎや、亀十、草月など様々などら焼き人気店があるとのことですが

長らく住んでいた鎌倉には,「鎌倉どらやき」があります.あまり知られていない?

https://www.google.com/search? 鎌倉 どら焼き

鎌倉では,「大くに」という和菓子店のバターどら焼きが大好きでした.私のイチオシです.

“時代の流れに合わせて和に洋を重ねる和菓子。大くに4代目の山内さんが「美味しいですよ」と勧めてくれたのが「バターどら焼き」です。 しっとりとした食感に、甘い皮に甘さ控えめの粒あん、そして濃厚なバターの塩気が合う” との評も.

https://oriori-web.jp/article/2204/

 

どら焼きの歴史・由来に関しては,ネット上にも多くの解説がありますが---

以下,ニッポニカ,https://kotobank.jp/word/どら焼き 並びに「事典和菓子の世界(中山圭子著 岩波書店)」をよりどころに,まとめてみます.

 

どら焼きの形状の変遷

現在のどら焼きは,卵や砂糖などを加えた小麦粉生地を丸く焼き,その二枚で餡を挟んだもの.

しかし,江戸時代の随筆「嬉遊笑覧 きょうゆうしょうらん」では,「どら焼きは,また金鍔ともいい」とあり,当時,どら焼きと金鍔(きんつば水でこねたうどん粉を薄くのばして餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、油をひいた鉄板の上で焼いたもの。日本国語大辞典)は,同じものをさしていて,どちらも卵を使わない小麦粉生地だったようです.

榮太郎金鍔 https://www.eitaro.com/kintsuba

ニッポニカの解説にも,

江戸・麹町の助惣(すけそう)を元祖とする当時のどら焼きは、小麦粉を薄く溶いて鉄板に丸く流し、餡を入れて皮を四角に畳んだもので、皮は薄く形状からいえば金鍔(きんつば)であった。
とあります.

 

現在のどら焼きは「日本橋大伝馬町の老舗・梅花亭が明治年間に創案」との記述が,ニッポニカにありましたが---
「事典和菓子の世界」にこの記述はありません.しかし,他のサイトでも,梅花亭はどら焼きを考案したお店として紹介されています.
そして,現在の梅花亭のどら焼きは,「2枚の皮に餡を挟むスタイルではなく、餡が生地(タネ)に包まれている状態」.

 

名前の由来

どら焼きの「どら」は,打楽器の「銅鑼」.

本来は法会ほうえに用いるものであったが、歌舞伎の囃子はやしや茶席、現在では船の出帆の際の合図など広く用いられる(精選版日本国語大辞典

https://www.facebook.com/100057324104751/posts/5208070195923743/

ニッポニカには「形が銅鑼に似ているのでこの名がある」とあり,名前の由来は「形が銅鑼に似ているから」で決まりと思っていましたが---

「形」以外にもう一つの説があって,「銅鑼の上で焼いたから」.

実際,京都笹屋伊織のサイトでは,

https://www.sasayaiori.com/dorayaki/

「江戸時代末期、五代目当主・笹屋伊兵衛が、京都・東寺のお坊さんから『副食となる菓子を作ってほしい』と依頼を受け 鉄板の代わりに、お寺の銅鑼(どら)の上で焼いたことから「どら焼」と名付けられました。」とし,

売られているどら焼きは,他のものとかなり異なる筒状!

(月に3日間だけの限定販売!)

https://www.sasayaiori.com/dorayaki/


どら焼きには,もう一つ別名があります.

三笠山」で,京都の三笠山の稜線の連想から命名されたようです(「三笠山にかかる満月」との説もあり:天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも から)

文明堂総本店文明堂東京はこの名前でどら焼きを販売していることはよく知られていますね.

 

文明堂総本店の紹介文:全国的に「どらやき」という呼称が主流ですが、文明堂総本店では発売当初から三笠山登録商標)と名付け販売を続けてまいりました。
長崎の長い歴史の中で親しまれてきた和菓子、「三笠山」を是非ご賞味ください。

https://www.castella.website/category/mikasayama/

https://www.bunmeido.co.jp/item/123

 

 

桜を詠んだ短歌4 鎌倉鶴岡八幡宮の段葛,源平池の桜は,まさに満開.妙本寺の桜も見応えがありましたが,本覚寺の八重桜は早くも散っていました. さくらさくら美(うま)しさくらの幻惑にのめり込めたる日本浪曼派 道浦母都子  わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ 河野裕子   日本的美意識なぞの埒の外咲きたくて桜うすべにを吐く 松平盟子  愛恋はさくらはなびら散りぬれば散りぬるあとの風のなごりよ 紀野恵

今日は,鎌倉鶴岡八幡宮の桜を見に行って来ました.

段葛の桜,源平池の桜,今がまさに見頃.ほぼ満開でした.


宝戒寺,妙本寺の桜も満開.特に妙本寺の桜はなかなか見応えがありました.

 

本覚寺の八重桜は,かなり散ってしまっていて、やや残念.今年の桜は見頃の時期が短いようです.


桜を詠んだ短歌4

(古今短歌歳時記より)

 

さびしからぬと思ふや桜花の領に入りひとり春たつ祝祭をなす  稲葉京子 桜花の領

 

たてがみをなびかせ駆け出す馬ありと思わるるまで桜花吹雪ける  松坂弘 石の鳥

 

さくら花散る夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む  小中英之 翼鏡

 

さくらさくら美(うま)しさくらの幻惑にのめり込めたる日本浪曼派  道浦母都子 風の婚

 

夜ざくらを見つつ思ほゆ人の世に暗くただ一つある〈非常口〉  高野公彦 雨月

 

旺然と花みだれ降る桜木(こ)原に佇ちゐて行き処(ど)あらぬこの身か  成瀬有 遊べ桜の園

 

さくらばな散る墓石にこしかけている父のしろがねの脳天  伊藤一彦 瞑鳥記

 

わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ  河野裕子 桜森

 

日本的美意識なぞの埒の外咲きたくて桜うすべにを吐く  松平盟子 シュガー

 

愛恋はさくらはなびら散りぬれば散りぬるあとの風のなごりよ  紀野恵 フムフムランドの四季

 

桜を詠んだ短歌3 後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる(達観の見事さというのがあって,ちょっとね,武士の気概みたいな,大げさに言うと,そういう覚悟まで感じさせる歌).夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん(心の中の全部を占めて桜が流れていくような感じがして,ちょっと壮絶な歌だな〜と思うんですけどね)  精神の外の面の闇に桜咲きざくりと折られゆく腕がある 岡井隆  さくら散るさくらしぐれにほのじろき声満ちて空を母ひかるなり 川口美根子

おそらく,短歌に最も多く詠まれてきた桜.

手許の「古今短歌歳時記(鳥居正博編著)教育社」1289ページのうち,13ページは「桜の花」が直接詠われた歌で占められています(別稿「花」にも明らかに桜を詠んだ歌があります.全13ページに「桜の葉」は含めていません).

この書籍で選ばれた季節に関わる歌の内,1%以上が桜の花を詠んだ歌ということになります.

(一昨日から取り上げてきたのは,「桜・桜花」に分類してある歌ですが,全13ページには,「山桜・彼岸桜・染井吉野」「八重桜・遅桜」「桜狩・花見」が項目として立てられています.)

 

名歌と言われるものにも,桜を詠んだ短歌は数多くあります.

昨日書いたように,

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/04/02/235733

NHK「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」の中の短歌50首の内,3首で桜が詠まれています.

 

紀貫之の歌

桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 

については,昨日,穂村弘氏の評を載せましたが,他の二首についても番組中の評を書き起こしておきます.

 

山川登美子・明治時代

(歌と恋の両面で,与謝野晶子のライバルだった)

後世(ごせ)は猶 今生(こんじょう)だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる

 

栗木京子評

生まれ変わったらこうなりたいっていうようなことは,自分は何も思わない,生きている今,この時でさえ,何の望みもない,でも,そんな自分のふところに桜は美しく散り落ちてくれる.という歌で,29才で結核で亡くなるんですね.

与謝野晶子のライバルで,晶子の夫となる一人の男性を争った仲,女性であるわけで,短歌もとても上手かったんですけれど,惜しくも亡くなってしまう.そういう亡くなる少し前に詠んだ歌で,ニヒリズムというよりは,達観の見事さというのがあって,ちょっとね,武士の気概みたいな,大げさに言うと,そういう覚悟まで感じさせる歌ですね.

風間俊介)これはもう自分の死期を感じているときに---?

もう十分.当時は,結核って治りにくい病気だったので,もうここまでと覚悟を決めてからの歌ですね.

穂村弘

光と影みたいなんですよね.与謝野晶子に対して登美子は.この歌なんか,誇り高さっていうんですかね,普通だと絶望的な状況だと思うんですけど,ほんの一筋の光,見えないくらいの光が,「わがふところにさくら来てちる」っていうところに感じられて,そこになんか我々は反応してしまうところがありますね.

 

 

馬場あき子・昭和戦後

(古典や能の教養をベースに独自の世界を築いた)

夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん

 

穂村弘

夜中にふと目が覚めて,ふと見ると,怖いように桜が散り続けている.眠っていた間もこんなふうに散っていたんだ.っていうことですね.私が眠っていても止まることなく桜は散り続けている.

もう一つは,これは,もしかしたら,桜を通して時間を詠っているんじゃないか,っていう感じが,時間は目に見えないんで,ふだん,時計はそれを目で見せてくれる道具なんだけれど,この歌では,桜がその代わりに.

それが,「とどまらざらん」という,ちょっと不思議な表現ですね,渡部先生に教えていただいたんですけれど,推量の表現だと,選考会の時に.目で見ているのに推量というのは,目に見えない時間が背後にあるから,一瞬も止まらないんだ,っていうこと.この歌って,最後の「とどまらざらん」がすごい感じがするんですけど---

渡部泰明評 

普通だったら,「とどまらざりけり」とかいうところを,推量の「ん」って流すところで,「本当に散っているんだろうか?見ているんだろうか?」と.心の中の全部を占めて桜が流れていくような感じがして,ちょっと壮絶な歌だな〜と思うんですけどね.

 

桜を詠んだ短歌3

(古今短歌歳時記より)

 

ものぐるふ心はもとな枝々のすべては醒めてさくら咲くなり  河野愛子 鳥眉

 

彼岸より呼びもどされてしうつそみはさくらふぶきをあそびつゝ歩む  阿久津善治 冬木の桜

 

雨のすぢ空より長くそそげるに桜あかるく咲きて乱れず  玉城徹 馬の首

 

みちのくの桜ふぶけり帰りきて我が病む夢になほぞふぶけり  岡野弘彦 異類界消息

 

さくらばな陽に泡立つを目(ま)(も)りゐるこの冥(くら)き遊星に人と生れて  山中智恵子 みずかありなむ

 

さくら咲くその花影の水に硏ぐ夢やはらかし朝(あした)の斧は  前登志夫 霊異記

 

雨の夜のガラスに音なくなだれくるさくらは巨(おほ)きひかりとなれり  春日真木子 花中蓮 

 

精神の外(と)の面(も)の闇に桜咲きざくりと折られゆく腕がある  岡井隆 天河庭園集

 

さくら散るさくらしぐれにほのじろき声満ちて空を母ひかるなり  川口美根子 桜しぐれ 

 

 

 

桜を詠んだ短歌2 桜は短歌の題材として多く取り上げられ,秀歌も数多くあります.NHK究極の短歌50選のうち三首が桜の歌! 桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 紀貫之  後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる 山川登美子  夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん 馬場あき子 

桜は,短歌に最も多く詠まれた花といえるのではないでしようか.

一昨年,NHKBSプレミアム/Eテレで,「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」という番組がありました.

https://www.nhk.jp/p/tankahaiku100/ts/L8R11WY878/

その冒頭のナレーションは

 

桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 

 

昨日も取り上げた,古今集紀貫之の短歌でした.

穂村弘評 

さくらの花に風が吹いて,その風が去った後,水がないはずの空に,花吹雪の浪がたっているという歌だと思うんですけれど,花が本当に浪に見えているという感じとは違うと僕には思える.

あえて,水のない空に花が浪のようになったと見立てることで,言葉によって一つの別世界を作り出そうとしている気がする.

「水なき空に浪ぞたちける」と初めて見た時に,かっこいいと思ったんですけれど,これは何か美意識の幻想空間みたいなものじゃないかなというふうに思いました.)

 

この番組で取り上げられた50首の短歌の内,3首が桜を詠んだ短歌!

他の二首は,古歌ではなく,明治期,昭和期が一首ずつ.

 

山川登美子・明治時代

後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる 

 

馬場あき子・昭和戦後

夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん

 

 

桜は,短歌に最も多く詠まれた花といえるのではないでしょうか?

 

万葉集では,ハギ(140首余り),ウメ(120種近い)と比較するとそれほど多いとはいえません.それでも40首は詠まれています.(ニッポニカ https://kotobank.jp/word/サクラ-1538660

 

今日の為と思ひて標(し)めしあしひきの峰(お)の上(え)の桜かく咲きにけり  大伴家持 万葉集 巻一九・四一五一

(楽しい万葉集  今日のこの日のためにと思って,しるしをつけておいた,峰の桜がこんなにも咲きました.)

 

同じ大伴家持は,庭の桜も歌にしていることから,当時から鑑賞用として桜が植えられていたことがわかります.

 

我が背子(せこ)が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来ね 大友家持 巻18,4077

(折口信夫 万葉集  あなたの以前の屋敷内の桜が,まだ莟んで(つぼんで)います.せめて一目,見にいらっしゃい.)

 

 

古今集になると

”サクラの用例は,「桜」「桜花」「山桜」「花桜」「かには(樺)桜」(物名(もののな))を含めて43首,題からサクラと知られる「花」10首もあり,「桜色」も1首加わり,ウメの「梅」「梅の花24首,題からウメと知られる「花」5首よりかなり多い.”(ニッポニカ)
とのこと
 
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平
 
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師
 
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則
 
 

その後の勅撰集,さらには,明治・昭和の歌人によっても,桜は多くの歌の歌題となっています

 

 

桜を詠んだ短歌2

(古今短歌歳時記より)

 

かぐわしき桜の花の空に散る春の夕べは暮れずもあらなむ  良寛 布留散束

 

八またのちまたの桜花咲きて都の空は夕曇りせり  正岡子規 竹の里歌

 

交番の上にさしおほふ桜咲けり子供らは遊ぶおまはりさんと  佐佐木信綱 椎の木

 

ブルガリアのソフィアに桜が咲くといふその桜ばな一日(ひとひ)おもへり  斎藤茂吉 霜

 

咲きのかぎり咲きたるさくらおのづからとどまりかねてゆらげるごとし  三ヶ島葭子 三ヶ島葭子全歌集

 

桜の花ちりぢりにしも/わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ  釈迢空 春のことぶれ

 

わが宿の夕光(ゆうかげ)桜散るを惜(をし)み麦酒飲みぬ暮れはつるまで  吉野秀雄 苔径集

 

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処(ありか)おもほゆ  葛原妙子 薔薇窓

 

よきものは一つにて足る高々と老木の桜咲き照れる庭  窪田章一郎 素心臘梅  

 

ひといろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に  近藤芳美 埃ふく街

 

 

 

 

 

唱歌「さくらさくら」/桜を詠んだ短歌1  四月は別名卯月ですが,これは陰暦四月の別名.私の頭の中では,「桜が咲くのは弥生」と唱歌「さくらさくら」によってすり込まれています.この唱歌が「さくらさくら」が教育現場に登場するのは1941年.歌詞は音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年)編纂時につけられたもの.「歌詞のテーマを桜にしぼったことも,誰もが知る歌となった要因かもしれない」 ただ一度生れ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき  島田修二 

四月に入りました.

今日の片瀬東浜は,曇り空でしたが,吹く風は温かく,浜の人々も春の雰囲気を楽しんでいるように見えました.



昨日訪れた鎌倉では,遅れていた関東地方の桜も開花し,「春,たけなわ」といっていいでしょう.

 

四月は別名卯月ですが,これは陰暦四月の別名.

今日四月一日は,旧暦では二月二三日とのことですから,まだ陰暦三月=弥生にもなっていませんが----

私の頭の中では,「桜が咲くのは弥生」と唱歌「さくらさくら」によってすり込まれています.

 

https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/sakura.htm

さくら さくら

やよいの空は 見わたす限り

かすみか雲か 匂いぞ出ずる

いざやいざや 見にゆかん

 

 

この唱歌は日本を代表する楽曲となっていて,外国人に「日本」をイメージさせる時,また,特に外国人が日本に親しみを表明する時にはほぼ必ず演奏されるように思います.(一時期は「SUKIYAKI」だったかもしれませんが)

 

なにせ,かのプッチーニ蝶々夫人に中に取り入れているのですから.


www.youtube.com

 

「作者不詳の日本古謡」とされていますが,その歴史に関しては,音楽之友社のウェブ読み物ONTOMOが興味深い記事(宮城道雄記念館資料室長千葉優子氏への聞き取り)を掲載しています.

https://ontomo-mag.com/article/column/sakurasakura/

是非お読みになることをお薦めします.

大まかにまとめると:

 

・音楽教科書の定番と思われがちだが,「さくらさくら」が教育現場に登場するのは、1941年(昭和16)に文部省が出版した『うたのほん 下』が最初.

 

・楽曲として最初に掲載されたのは,音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年).題名は「桜」.この箏曲集に「旧 咲た桜」とあることから,江戸時代以来の箏の手ほどき曲と考えられる.

ただし曲についての江戸時代の資料はない.

(音楽取調掛:世界に通用する新しい日本の音楽の創造と音楽教育の調査研究を目的として、1879年に文部省内に設立された機関)

 

・“やよいの空は”とする現在の歌詞(1941年「うたのほん下」では“野山も里も”とする別バージョン)は音楽取調掛撰『箏曲集』編纂時につけられた.したがって「日本古謡」という言い方はややそぐわない.

江戸時代の「咲た桜」の歌詞は桜に限ったものではなく,植物の名所を連ねたものだった.

「咲た桜」歌詞(年代不詳): 咲いた桜 花見て戻る 吉野は桜 竜田は紅葉 唐崎の松 常盤常盤 深緑

 この箏曲集編纂時に,歌詞のテーマを桜にしぼったことも,誰もが知る歌となった要因かもしれない.なぜなら,日本人はとにかく桜が好きだから.

 


www.youtube.com

 

桜を詠んだ短歌1 

(古今短歌歳時記より

島田修二の歌以外は以前取り上げたものです: https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2022/04/02/234220

 

今日の為と思ひて標(し)めしあしひきの峰(お)の上(え)の桜かく咲きにけり  大伴家持 万葉集 巻一九・四一五一

 

さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに波ぞ立ちける  紀貫之 古今集 春下・八九

 

春深み嵐の山の桜ばな咲くと見し間に散りにけるかな  源実朝 金槐集 春・八二  

 

さくほどの光りとなりてうすうすと霞あひたるこずゑの桜  太田水穂 冬菜  

 

ひとひろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に  近藤芳美 埃吹く街  

 

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり  馬場あき子 桜花伝承  

 

桜花ちれちるちりてゆく下の笑いが濡れているゆうまぐれ  佐佐木幸綱 群黎

 

ただ一度生れ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき  島田修二 花火の星

 

https://www.youtube.com/watch?v=vxiaghdUxl4

 

https://ameblo.jp/sakuramitih31/entry-12665237069.html

鎌倉では山桜,染井吉野,そして枝垂れ桜が一斉に花開きました.安国論寺-妙法寺地区と本覚寺界隈をぶらぶら歩きました.サクラ以外に出会った春の花は,タンポポ,カタバミ,ヘビイチゴ,ムラサキハナナ,フリージア,リキュウバイ等17種類.染井吉野は額田病院脇,山桜は安国論寺で.そして枝垂れ桜は安国論寺と本覚寺.やはり本覚寺の枝垂れ桜が鎌倉では一番でしょうか.

今日は,東京では夏日.3月では観測史上最高気温を更新したとか.おそらく藤沢・鎌倉も---

午後.春の草花,特に桜を求めて,鎌倉へ.八幡宮は避け,安国論寺-妙法寺地区と本覚寺界隈をぶらぶら歩きました.

 

桜の前に:

今日であった様々な春の花の画像を集めてみました.

 

タンポポカタバミ(オオキバナカタバミ?),ムラサキハナナ,ヘビイチゴ

ペラルゴニウム,トキワマンサクヒイラギナンテン

フリージア,ムラサキアイリス?

アセビ

サツキ,ムラサキツツジ(カラムラサキツツジ?)

セイヨウシャクナゲ

カエデ.

サンシュユ,ヒュウガミズキ.

リキュウバイ.

 

 

今日初めに出会ったサクラは,個人のお宅の塀越しに咲いていたヤマザクラ

目的地の一つは,額田病院脇の桜並木でした.

十分楽しめるだけのソメイヨシノが花開いていました.

 

そして,安国論寺の枝垂れ桜.

山門脇.

そして更に立派な木が境内に.

境内にならぶ2本の枝垂れ桜の隣には山桜も.

 

最後に,本覚寺境内の枝垂れ桜.

鎌倉でおそらく一番立派な枝垂れ桜です.安国論寺の枝垂れ桜より植えられている場所が広々としていて多くの人の目を惹きつけてやみません.

 

団子 名物団子と団子の歴史 日本人が大好きな団子は,全国に名物団子を生み出しました.今は日本中に売られているみたらし団子ももとは京都の下賀茂神社で氏子がつくり後に社頭の茶店で売ったもの.中世まで団子は貴族や僧侶の「点心」であったと考えられています.団子の名前は平安期にも見られますが,室町時代に急速に広まりました.

日本人の多くが大好きな団子.

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/03/27/235653

日本各地には,名物となっている団子が数多く見られます.

とりわけ万人に人気で,日本各地に広まっているみたらし団子も,もとは,「 京都市左京区の賀茂御祖かもみおや神社(下賀茂神社)の葵祭や御手洗会(みたらしえ)などの折に氏子が家々で作り、のちには社頭の茶店で売った団子(日本国語大辞典)」とのこと.

御手洗(みたらし)団子 京都

みたらし団子 高山

以下は,ニッポニカ「団子」の解説に名前が挙がっていた名物団子です.京都御手洗団子同様歴史が古いものは,十団子(1524年の記録がある),京都編笠団子(寛永年間1624〜1644の記録)など.

十団子 駿河

https://ja.wikipedia.org/wiki/十団子

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七条編笠(編笠)団子 京都

きびだんご 岡山

茶団子 京都宇治

笹団子 新潟

言問(こととい)団子 東京 向島(むこうじま)

草団子 柴又(柴又)

 

団子の来歴は「諸説あって明らかではない平凡社世界大百科事典)」とはされるものの---

日本国語大辞典によれば,中世までは,もっぱら貴族や僧侶の点心(昼食の前に、一時の空腹をいやすための少量の食事)として食べられていたようです.

平安時代に記録のある唐菓子『団喜』は今の団子とよく似たもの」で,「室町時代初期の書にある唐菓子の中に団子(だんす)という名前がある」とのこと平凡社世界大百科事典)

「団子」という名前は,「新猿楽記」(平安時代中期)が初見と考えられ,室町時代には多く見られるようになりました.

上に挙げた十団子や御手洗団子はそのはしりというべきものだったと考えられます.平凡社世界大百科事典)

 

なお,団子は主に丸い形のものを指し,平たくしたものは「餅」と呼ばれることが多いとのことです.

「いちご大福」「大福餅」の起源(ネット検索から) いちご大福は,いくつもの候補があって,どの和菓子店が元祖なのかは確定できないというのが実際のようです.東京新宿の「大角玉屋」,群馬前橋の「金内屋」,三重県津市の「とらや本家」,大阪旭区「松福堂正一」など.「大福の由来」については--- ネット上では、多くのサイトがほぼ同じ内容を記しています.ただし,サイト内に「統一見解」の根拠にはあまり触れられていませんが,どのサイトの記事も出典は世界大百科事典と思われます.

ネット上に見る「いちご大福」「大福餅」の起源

いちご大福,大福餅は,日本人が最も好む和菓子の一つ.

ネット上の「好きな和菓子ランキング」をまとめた四つのサイトでは,いちご大福,大福餅を併せると断然トップといってよい結果.

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/03/27/235653

https://www.google.com/search? いちご大福

https://www.google.com/search? 大福餅



とうことで,それぞれの歴史・起源を調べようとネット検索したのですが---

結論からいえば,はっきりしたことはわからない.

 

いちご大福は,比較的新しい和菓子であることから,すぐわかるかと思いきや,いくつもの候補があって,どの和菓子店が元祖なのかは確定できないというのが実際のようです.

例えば,かなり信用できそうなな記事は次の二つによれば,

https://souzen.co.jp/wp/about/warabi/frtdaifuku/

https://news.yahoo.co.jp/articles/9519351057a7c4fd2d57697d37a2d35f52a908a9

 

生まれたのは昭和50代終わり〜昭和60年代初頭.(昭和60年=1985年)

発祥のお店の候補はいくつかあるものの,次の店は特に名が通っているようです.

 

東京新宿の「大角玉屋」(豆大福にいちごを入れた形.餡はつぶ餡)

https://agatajapan.com/tokyo/shop/大角玉屋/

群馬前橋の「金内屋」(つぶ餡の大福の中にいちごがやはり丸ごとひとつ)

https://www.google.com/search?いちご大福 群馬前橋の「金内屋」

三重県津市の「とらや本家」(白餡を使ったいちご大福)

https://tsu.goguynet.jp/2021/02/12/torayahonke-ichigodaifuku/

大阪旭区「松福堂正一」(はじめ,いちごと餅を合わせた和菓子だったものに粒がしっかり残った餡を入れてある)

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/f27c7d7684df6fb3b0047045b2f593c5acd96eb2

 

このいちご大福のもととなった「大福の由来」については---

ネット上では、一見,ほぼ解決がついているようです.多くのサイトがほぼ同じ事を記している!

例えば

https://mag.japaaan.com/archives/170646

https://shop.sweetsvillage.com/blogs/knowledge/daifuku

https://wagashimiryoku.com/wagashi/daifuku/

https://gogen-yurai.jp/daifuku/

https://www.ishizakisyouten.com/column/1378/

https://ja.wikipedia.org/wiki/大福

これらの記事には,その「統一見解」の根拠に触れられていませんが,同じ内容が複数のサイトで記されている場合は,同じ参照元からの記事と考えた方が良い:

ネット上に公開されている平凡社世界大百科事典を写したものと言えそうです.(最後尾に引用)

 

 

▽和菓子の魅力

https://wagashimiryoku.com/wagashi/daifuku/

大福の歴史は,室町時代後期にはじまります.

当時,鶉(うずら)の卵に似た「うずら餅」が作られており,これが後の大福の起源になったと言われています.ただし,うずら餅の中身は塩餡が使われていたため,甘味には乏しかったようです.

一方,大福の名前の由来は,うずら餅の呼び名として使われた「大腹持ち」「腹太餅」が変化したものと考えられています.うずら餅は腹持ちが良かったため,先のように呼ばれていました.それをもっと縁起の良い名前にするため,「大福」の文字が採用されたとする説が有力です.

大福が歴史的転換点をむかえるのは江戸時代中期.

「宝暦現来集」(1831年)には,1771年(明和8年),江戸の小石川に住んでいた「おたま」という一人の未亡人が,砂糖餡を入れた小ぶりの「おた福餅」を開発し江戸で売り歩いていたという記述があります.これが現在の甘味豊かな大福の走りです.

時あたかも,江戸では上菓子が大流行.饅頭,羊羹などさまざまな種類の和菓子が庶民の味覚を楽しませていた時期であり,おたまさんはこの時流をしっかりとらえ,次々におた福餅を売り出しては大好評を得て,甘くて美味しい大福の普及に貢献しました.

今では色も形も味もさまざまな種類の大福を楽しめるようになりましたが,その礎を築いたのは,なんと一人のやまとなでしこだったのです.

 

日本国語大辞典によれば,「大福餅」という語は18世紀後半には使われていたとのこと.

だいふく‐もち【大福餠】

精選版日本国語大辞典
〘名〙 小豆の餡あんを薄い餠の皮で包んだ菓子。鉄板の上で両面を焼いたりする。賀寿の時に用いるものは、賀に当たる人が「寿」の一字を紅で書いて親戚などへ配った。大福。〔随筆・寛政紀聞(1789−99)〕

 

 

▽レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000030023&page=ref_view

レファレンス事例詳細(事例作成日 2002/03/05)

質問

大福餅の起源を調べているが、「宝暦現来集」が大福餅に関する最古の文献か。またこの資料は入手可能か知りたい。

回答

『和菓子の辞典』の〈大福餅〉の項には、「喜遊笑覧」(文政13年(1830)自序)の文献名あり。

『事物起源辞典』には、「寛政紀聞」(成立年不明。ただし寛政10年(1798)の記述にあり。『未刊随筆百種 2』所収)の記述あり。

平凡社大百科事典』には、前掲2文献に加え「宝暦現来集」(天保2年(1831))もあげられている。

『江戸生活事典』等にも、大福餅は寛政中頃より売り出されたとあるので、おそらく「寛政紀聞」が最古の文献と思われる。

以上を回答する。

 

平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

大福餅 (だいふくもち)

https://kotobank.jp/word/大福餅-558251#

小豆あんを薄い餅の皮で包んだ菓子。

庶民的な餅菓子として愛好され,ゆでたエンドウを餅に入れた豆大福,ヨモギの葉をつきこんだ草大福などもつくられている。

室町後期から鶉(うずら)餅という菓子があり,これを焼いたり,焼印を押したりしたものを鶉焼と呼んだ。塩味のあんをたっぷり入れ,丸くふくらんだ形にしていたための名で,のちには腹太(はらぶと)餅ともいった。これを平たくしたのが大福餅である。

《宝暦現来集》(1831)は,江戸小石川のある寡婦が1771年(明和8)冬に売り始めた〈おた福餅〉の後身とするが,とにかく寛政年間(1789-1801)にいたって流行し,江戸の町には毎夜〈籠の内へ火鉢を入れ,焼き鍋(なべ)をかけ,その上に餅をならべ〉(《寛政紀聞》)た大福餅売の姿が見られたものであった。

《嬉遊笑覧》などによればあんは砂糖を用いるようになったとするが,明治・大正期にはまだ塩あんのものも行われていた。

〈大福へ紅がらで書くいせやの賀〉という川柳のように,還暦や喜寿の祝いに〈寿〉の1字を紅で書いてくばり物にすることもあった。

なお,江戸初期から京都名物の一つに数えられた大仏餅は,滝沢馬琴が〈江戸の羽二重もちに似て餡(あん)をうちにつゝめり,味ひ甚だ佳なり〉としているように,大福餅の高級品というべきものだったようである。

執筆者:鈴木 晋一

 

 

妙本寺の春/海棠を読んだ短歌  午後,嵐となる前に,霊園と,鎌倉妙本寺へ参拝.妙本寺では,レンギョウ,ツツジ,楓の若葉が楽しめました.そして桜が開花!そして花海棠も!  今日もまた海棠の実を啄(は)みに来ぬい隠れたまへわが帰るまで 良寛  くれなゐの唇いとどなまめきて雨にしめれる花の顔よき 橘曙覧  ともし火の明るき屋に海棠のひと鉢こぞる花のいきざし 太田水穂  はろばろとなりゆく人か海棠の花咲きそめし庭にわかるる 岡田弘彦

このブログを書いている今,硝子窓に風が吹き付けてマンションにもすきま風が.このところ,このような天気が続き,桜の開花も遅れるばかりですが---

 

午後,嵐となる前に,春のお彼岸には行けなかった霊園と,その帰りに,鎌倉妙本寺へ参拝.どちらでも春の花を楽しむことができました.

 

今日行った霊園は,鎌倉と横浜の間の鎌倉霊園.

とても大きな霊園ですが,よく整備され,道路脇には椿や桜,コニファーが植樹されていて落ち着いた雰囲気を演出しています.

少し奮発して,デンドロビウム入りの花束をお供えしてきました.

墓石の隙間にスミレ!

昨年も見た気がします.どなたかが植えたのでしょうか?思わぬ所に咲いているスミレは素敵です.種類は私にはわかりませんが,鎌倉の山で見かけるタチツボスミレとは違う種と思います.

中央の道路には,花壇も整備されています.

ノースポールとヒメキンギョソウリナリア


妙本寺では

日蓮上人像の横にはレンギョウと早咲きのツツジ(サツキ?).

 

そして,今年初めて開花しているのを見たソメイヨシノ


楓の若葉も美しい季節です.

 

そして,妙本寺といえばカイドウ(花海棠).光則寺のカイドウが老木になった今,鎌倉で一番のカイドウかと思います.

こちらも開花が始まっていました!

 

海棠を詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

今日もまた海棠の実を啄(は)みに来ぬい隠れたまへわが帰るまで  良寛 良寛歌集

 

くれなゐの唇いとどなまめきて雨にしめれる花の顔よき  橘曙覧 志濃夫廼舎歌集

 

ともし火の明るき屋に海棠のひと鉢こぞる花のいきざし  太田水穂 鷺・鵜

 

一もとの海棠の花若葉木のながめとなりぬ山中の雨  岡麓 涌井

 

くれなゐのつぼみはひらきあはあはとなりゆくまでの山の海棠  福田栄一 きさらぎやよひ

 

海棠は紅ゆるびたる影の花こけづく土に幾ひらか散り  片山貞美 つりかはの歌

 

海棠はまだ咲きそめの実のごとき小花ぞゆらぐかぜふきしかば  上田三四二 遊行

 

はろばろとなりゆく人か海棠の花咲きそめし庭にわかるる  岡田弘彦 滄浪歌

 

 

 

Evolutionary and phylogenetic aspects of the chloroplast genome of Chaenomeles species

    July 2020Scientific Reports 10(1):11466