“レーベンスボルン”2  NHKBS「ヒトラーの子供たち」より(1)終戦間近,ドイツシュタインへーリングの施設に入ったアメリカ兵は,300人近い見捨てられた子供たちを発見します.レーベンスボルン計画で初めて作られた拠点施設でした.しかし,終戦後長い間,レーベンスボルンの詳細は不明でした.かなりの年月を経て.クラリッサ・ヘンリーらが,シュタインへーリングにいたイングリット・デフォーとの接触に成功し,彼女宛ての手紙と彼女の記憶から,フランスでのレーベンスボルンを特定し,活動内容を解明します.

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」(Gedeon フランス 2017年).

ナチスの施設“レーベンスボルン”(生命の泉)についてのドキュメンタリー番組です.

 

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NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子どもたち」

 

レーベンスボルン(生命の泉)は, ナチス親衛隊と秘密警察トップのヒムラーの指揮下,親衛隊SSが創設し,

“(ナチスの民族的衛生学基準のもとで)民族的に純粋” で,

“(ナチスの健康思想に基づいて)健康”

と分類された人の“アーリア人”の子供の出生率を高めることを目的とした出産・養育施設です.

主に未婚の母(*)に福利を与え,匿名の出産を奨励し, “民族的に純粋で健康”な里親,とりわけ親衛隊SSメンバーとその家族による養子縁組を仲介していました.

ドイツだけではなく,オーストリアノルウェーなど占領した国々にも開設されました.

(以上,英語版Wikipedia 等よりLebensborn - Wikipedia

*⇒「未婚の母」:本番組によれば,当該施設内でのドイツ兵と引き合わされた結果「未婚の母」になり,施設内で出産)

 

フランスにも一カ所つくられました.このフランスの施設は,長らくどこにつくられていたのか不明でした.

 

ヒトラーの子供たち」では,フランスの “レーベンスボルン”で生まれた二人の人物の生い立ちを通して,レーベンスボルンの全貌に近づいていく形をとっています.

また,ボリス・ティオレイ(ジャーナリスト),クラリッサ・ヘンリー(作家),アーウィン・グリンスキー(レーベンスボルンで生まれた当事者),ヨハン・シュプトー(歴史学者 ソルボンヌ大学教授)の証言が要所要所で組み込まれ,施設の実態,ここで生まれた人物の葛藤などを巧みな構成で明らかにしています.

 

以下,このブログでは,実際の番組構成を無視し,かなり独善的に組み替え再構成して,番組の内容を記録してみたいと思います.

私の理解不足で間違える箇所も出てしまうと思いますが,ご容赦を.再放送がいつの日かあったときにはぜひご覧になって下さい.

 

 

ヒトラーの子供たち」(Gedeon フランス 2017年)より(1)イングリット・デフォー

終戦間近,ドイツ,シュタインへーリングの施設に入ったアメリカ兵は,300人近い見捨てられた子供たちを発見します.(このシュタインへーリングの施設は,レーベンスボルンの拠点施設で,1935年に初めて作られた施設でもありました.)

子供たちは連合国の救済機関の手で養育されますが,子供たちの身元の特定は困難を極めました.ドイツだけではなく,他のヨーロッパ諸国の子供も多かった事も一因でした.

子供たちには奇妙な行動が見られました.「動物の群のように,一人が腹を空かせると,他の全員も空腹を訴え,一人が左へ動くと他も左に動く」(ボリス・ティオレイ).

レーベンスボルンについて,第二次世界大戦の調査ファイルから,真実を解明できる可能性があったにもかかわらず,けっして根底まで掘り下げられませんでした.

施設の責任者は,1948年からのニュルンベルグ継続裁判で一度は被告席に立たされますが,結果は無罪.極秘に進められた計画で決定的な証拠に乏しく,「妊娠して窮地に陥っていた若い女性を保護し,無事出産できる場を提供していた」との被告の主張が認められたのです.

実際には,「おぞましい思想のもと,子供を産ませ,母親から子供を奪っていた」(ボリス・ティオレイ)にもかかわらず.

 

第二次大戦終結後かなりの年月を経て,マーク・イレルとクラリッサ・ヘンリーが.この施設について,追跡取材を開始します.

ほとんど資料がない中,終戦間近シュタインへーリングで発見され,その後ドイツ赤十字に身を寄せたイングリット・デフォーのファイルに,フランス・ボルドーの住所が追加で書き込まれているのを発見します.イングリッド自身が出生の秘密を調べていたためでした.

その住所を訪ねると,彼女は自分の生い立ちを話してくれます.

第二次大戦末期,イングリットは他の子供たちを一緒にシュタインへーリングに連れて行かれました.まだ二歳か三歳だったイングリットでしたが,フランスから来たことは知られていて,終戦後ドイツからフランスに戻され,里親に引き取られました.敵国ドイツ人の子供と知っていたと思われる養母により冷たい扱いを受けてきたイングリットですが,成長して自分の生まれを知りたいと思い始めます.しかし,身を寄せていた赤十字はレーベンスボルンの情報を持っていません.フランスに一カ所あったことは把握していたものの,場所は特定できていませんでした.

しかし,ある日,イングリットは洗礼名をつけた洗礼親がイングリットにあてた手紙の束を屋根裏で発見します.里親がイングリットに渡さないで隠しておいたものでした.

イングリットに会いたい旨書かれていましたが,その送り主は.大戦末期,フランス・ラモルレイ(Lamorlaye)のヴェストヴァルトで看護師をしていたことも書き記していました.

イングリットが覚えていたこのラモルレイという場所からフランスに一カ所あったレーベンスボルンの場所が特定されることになります.

この実話は,当時週刊誌に取り上げられ,クラリッサ・ヘンリーたちが描いた「純血」という本(**)によって世間に知られることになりました.秘密が公になりました.30年の沈黙が破られたのです.

フランスの人々は,ナチスの出産施設が自国のラモルレイの森にあったという衝撃の事実を知ったのでした.ラモルレイのレーベンスボルンの設立は1943年.ウェストランドと呼ばれていた地名はヴェストヴァルトに改名され,チョコレート工場を営むムニエ邸がその施設になりました.

「戦況が既に不利に転じたと知りながら.ナチスがノルマンディー上陸作戦の半年前に,このレーベンスボルン計画を立てたと思うとぞっとする」(ボリス・ティオレイ)

 

開所は1944年2月.

「庭もお屋敷もすてきで,すばらしいところでした.信じられないほど安らぐ平和な場所だったんです.パリにも近い距離」(クラリッサ・ヘンリー)

人々が訪れ始めます.

その多くは,フランスに駐屯する親衛隊員たちで,例え,ドイツに妻を残してきたとしても,そこで子どもをつくれというヒムラーの命令に従った兵士たちでした.

ドイツ兵が若い女性を誘惑する場所として,美しいヴェストヴァルトはうってつけだったのです.

「車が到着して人が大急ぎで屋敷に入っていくところを何度か見ました.サッと入っていくんですよ.車には前に男性,後に女性が乗っていましたが,じっくり見ている間はありませんでした」(ラモルレイの住人)

「それはトップシークレットでした.そこで若い娘たちがドイツ兵の相手をし,子供を産んでいたからです.ラモルレイの住人には理解しがたいことでしょう.ですから,レーベンスボルンの中と外は,完全に遮断されていたんです」(クラリッサ・ヘンリー)

子どもをつくれという命令に従い,親衛隊員がこぞってフランスで一休みするなど,にわかには信じられないことです.

 

そして,ナチスによる厳格な審査で,フランスやヨーロッパ各地から選ばれた娘たちが,自らの意思で子供を産んで,第三帝国に差し出すのも驚くべき事です. 

「まず,親衛隊に会わせる若い女性たちを手配します.そして,純粋なアーリア人女性と純粋なアーリア人男性のためのパーティを催すんです.そこに集まる女性も男性も,人種という観点から,自分たちは価値があると認識していました.しかし,祝福されて妊娠する場合ばかりとは限りません.望まない妊娠から生まれる子供たちもいました.その子供たちはレーベンスボルンに預けられるんです」(クラリッサ・ヘンリー)

「レーベンスボルンでは,女性は妊娠すると出産予定日の6週間前から施設に入り,出産後も6週間そこに滞在しました.もちろん,その間,女性は厳しく監視されていました」(ボリス・ティオレイ)

 

ヨーロッパ各地で同じように誕生した子供たちが何千人もいました.

しかし,ラモルレイの秘密が明らかにされたにもかかわらず(**),この件について世間の関心は低いものでした.

この後も関係者の沈黙は40年続きました.

 

(**)クラリッサ・ヘンリーと夫のマーク・イレルが,その存在を明らかにしたのは,フランスのレーベンスボルンだけではなく,ドイツ・ノルウェーなど広範囲の国の施設にわたり,レーベンスボルン計画のほぼ全容を下記の著書によって世に出しました.

内容を読んでいませんので,これ以上のコメントはできませんが---

(しかし,日本語訳の題名はその内容とはかなりかけ離れたものとなっている気がします.原著のフランス語では“民族のために”とか“民族の名の下に”のような意味かと思われますし,英語版は“純血の---”.日本語翻訳版の題名がこのようなものになったのは,とても残念です.出版社,翻訳者の方は,一体何を考えていたのでしょうか?)

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Au nom de la race (French) janvier 1975 de M. Hillel, C. Henry

Of Pure Blood 1978 by Marc Hillel & Clarissa Henry

狂気の家畜人収容所 (1976年) マーク・イレル,クラリッサ・ヘンリー (著), 鈴木 豊 (翻訳)

 

“レーベンスボルン(生命の泉)”1  BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子供たち」は, “レーベンスボルン”で生まれた二人の人物の生い立ちを通して,レーベンスボルンの全貌に近づいていく好番組. - yachikusakusaki's blog

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