“レーベンスボルン”5 NHKBS「ヒトラーの子供たち」より(2)ー3 エリザベスは,ドイツのおばを頼ります.1944年7月,親子3人で施設を出ました. たどり着いたドルトムントは,毎日,連合軍の爆撃にさらされていました.ドルトムントのエリザベスにはある不安がありました.レーベンスボルンで生まれた子供たちは,ナチス親衛隊に属していたからです.

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 3

 

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(1)

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終戦間近,ドイツ・シュタインへーリングの施設に入ったアメリカ兵は,300人近い見捨てられた子供たちを発見します.レーベンスボルン計画で初めて作られた拠点施設でした.しかし,終戦後長い間,レーベンスボルンの詳細は不明でした.

かなりの年月を経て.マーク・イレル(作家・映画監督)とクラリッサ・ヘンリー(作家・女優)が,シュタインへーリングにいたイングリット・デフォーとの接触に成功し,彼女宛ての手紙と彼女の記憶から,フランスでのレーベンスボルンを特定し,活動内容を解明します.

そこでは,選ばれた若い娘たちがドイツ兵の相手をし,子供を産み,第三帝国に差し出していました.ヨーロッパ各地で同じように誕生した子供たちが何千人も.

しかし,ラモルレイの秘密が明らかにされたにもかかわらず,この件について世間の関心は低いものでした.

この後も関係者の沈黙は40年続きました.

 

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー ー1

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2010年,その沈黙を破り,ジャーナリストのボリス・ティオレイが,真相究明に乗り出します.

「役所の記録には1944年に生まれたアーウィン・グリンスキーの名前が書かれていました.その男性に電話をかけたんです」

「「ボリスは『自分がどこで生まれたか知っていますか?』と聞きました.私は『ムニエのチョコレート御殿で生まれたとしか聞いていない』と答えました.母はその件について語ろうとしませんでした」

「記録は,1944年5月21日生まれに訂正されていたんです.出生地はラモルレイのムニエ邸でした.疑いの余地はありません.それこそ,レーベンスボルンのあった場所です」

ばらばらだった,アーウィンの記憶の断片がつながり,彼の忘れがたい過去がよみがえりました.

 

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 2

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「出てきたのは写真の束だったのです」

ついに手がかりを発見したのです.ドイツ人の恋人とほほえんでいる母の写真でした.アーウィンはその男性を知りませんでした.

「母が笑っているところを生前には見たことがありません」隣に座っているのは,施設を運営していたグルンヴァルト夫妻.グルンヴァルトは親衛隊の軍曹でした.エリザベスは分かっていたはずです.

アーウィンは全てを知り,家族の秘密が実は歴史上の秘密であったと認識しました.

 

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 3

 

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NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子どもたち」

 

アーウィンは全てを知り,家族の秘密が実は歴史上の秘密であったと認識しました.

 

それは世界の変革を望んだヒトラーの忘れられた秘密でした.

これまで幾度となく浮かんでは消え,全貌が明らかにされることはなかったのです.

 

ヒトラーの望みは,絶対的な帝国の建設だけではなく,支配者たる人種の手にその帝国を託したかったのです.

それこそが,レーベンスボルン計画で生み出そうとした,純粋な支配者民族でした.

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ドイツ軍が,ウクライナ戦線にいるソビエト赤軍と,迫り来る連合軍との間に挟まれていると分かったときも,ナチスはレーベンスボルンを一カ所たりとも敵に渡すまいと,細心の注意を払いました.

 

クラリッサ・ヘンリー終戦間近になり,連合国軍が迫ってくると,ヴェストヴァルトと呼ばれていた,あのラモルレイの施設で暮らしていた人々は,フランスからドイツに避難させられました」

ボリス・ティオレイナチスは,レーベンスボルンの子供たちは優秀だと信じ込んでいました.ですから,子供たちの安全を確保し,何としてもドイツへ連れて行かなければならなかったのです」

 

1944年,ドイツ軍が撤退し始めた頃,アーウィンはまだラモルレイの施設にいました.父親との別れがその頃なのか,アーウィンの母親は,当時のことを話したがりませんでした.

アーウィン・グリンスキー「父は,フランスから撤退命令を受けると,母にこう言ったそうです.『自分は妻帯者だ.国に妻子がいる』と.それだけ.母から聞いた話はそれだけです」

母,エリザベスの夢は砕け散りました.

そしてアーウィンは,母親に尋ねたのです.

アーウィン・グリンスキー「『父さんと別れたかったの?』と私は聞きました.母は父を本当に愛していました.私には分かります.本当に父を愛している様子でした.しかし,父の目的はただ一つ.レーベンスボルンの子供を作ることだったんです.父にとって大切なのは,それだけでした」

 

エリザベスは,乳飲み子を抱え,行動を起こさなくてはなりませんでした.

連合国軍が,連合国軍がノルマンディーに上陸したことを,施設の人々も分かっていました.

ボリス・ティオレイ「いくつか選択肢がありました.一つはエリザベスが子供と一緒に,レーベンスボルンを出て,子供の父親とドイツに行く.二つ目は,エリザベスだけが脱出し,子供はレーベンスボルンに残していく.その場合,その子は5〜6歳まで施設の看護師に養育され,その後,ドイツに暮らす模範的なナチ党員の家庭の養子にされます」

 

エリザベスには,看護師として施設に残るという選択肢もありました.レーベンスボルンの看護師の多くは,そこで子供を産んだ母親たちだったのです.

しかし,施設に残っても,いずれわが子をナチスに取り上げられると分かっていたエリザベスは,せめて自分たちをドイツに連れて行って欲しいと,息子の父親に頼んだのです.

 

アーウィン・グリンスキー「その時,母が思いついたのはドイツのドルトムントにいる親族のもとに身を寄せる事でした」

エリザベスは,ドイツのおばを頼ります.

1944年7月,親子3人で施設を出ました.8月10日にドイツ人は全員ムニエ邸からの撤退をを余儀なくされたことを考えれば,間一髪でした.

ボリス・ティオレイ「8月19日にパリ解放の戦いが始まるまであとわずか---.つまり,ドイツ人にとって逃げ出す最後のタイミングです.

2ー3台のトラックが,東のドイツ方面へ向かっていったという情報があり.トラックには,その時点で,まだレーベンスボルンに残っていたスタッフと赤ん坊を連れた複数の女性が乗っていたようです.

彼らは,シュタインへーリングの施設に行き着いたようです.

シュタインへーリングといえば,レーベンスボルンが最初にできた場所です.全てはシュタインへーリングに始まり,終わったんです」

 

程なく,パリは解放されました.ドイツに敗戦が近づいていました.

フランスを脱出したエリザベスでしたが,たどり着いたドルトムントは,毎日,連合軍の爆撃にさらされていました.

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ドルトムントのエリザベスにはある不安がありました.

レーベンスボルンで生まれた子供たちは,ナチス親衛隊に属していたからです.

子供たちは,生後たった1ヶ月で親衛隊に宣誓をさせられていました.

命名式では,隊員たちが赤ん坊を取り囲み,その子の額に短剣をあて,正式な一員としていました.

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Lebensborn, The Nazi Breeding Program To Create A Master Race

その事実を知って欲しくなかったエリザベスは,終戦間際の出来事を,生涯,アーウィンに話すことはありませんでした.

 

ますます戦闘が激化するドイツ.連合国軍の爆撃機への警戒が続きます.空は燃えていました.

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ドルトムントにいたエリザベスは決断しました.

息子を守るため,フランス赤十字の病院列車に彼を乗せ,フランスに逃がすことにしたのです.エリザベスは,看護師だった上に,ドイツ語が話せるので,何を聞かれてもごまかせると踏んだのです.

アーウィン・グリンスキー「ドイツからフランスへ戻る他の子供たちと同じように,『僕の名前はエルヴェ・グリンスキーです』と書かれた看板を持ちました.そして,鉄道職員だった私のおじが,おばに私を駅まで迎えに来させたのです」

 

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