レーベンスボルン8 NHKBS1「ヒトラーの子供たち」より(3)総集編−2 戦後,レーベンスボルンについて被害を訴え出る女性はいませんでした./おぞましい思想のもと,子供たちを産ませ,母親から子供を奪っていたのに,連合国側はそのことを把握しきれなかったんです./責任者は医師や弁護士として活躍する一方で,レーベンスボルンで発見された子供たちの問題解決には,長い年月が必要でした.ヨーロッパ各国に,生まれも,名前すらわからない子供たちが大勢いたのです.

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(3)総集編−2

 

ヒトラーの子供たち」より(3)総集編−1

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ナチスの様々な計画は,実は,一つの壮大なたくらみだったのです.  その核心にあったのが,ナチスの子供たちをつくることでした.  その子供たちが,いつの日か世界を征服し,ヒトラーこそが英雄だとたたえる日のために.

ヨーロッパ各地に建てられたレーベンスボルンは,ゲルマン民族により多くの子供たちを提供し,最強の帝国を作ることを目的としていました.わずか10年で何千人もの子供たちが誕生しました.第三帝国が千年続いたら,そのうち何人が世界の支配者になっていたでしょう.

 

 

ヒトラーの子供たち」より(3)総集編−2

 

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NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子どもたち」

 

ドイツ軍がウクライナ戦線にいるソビエト赤軍と迫り来る連合国軍との間に挟まれていると分かったときも,ナチスはレーベンスボルンを一カ所とも敵に渡すまいと,細心の注意を払いました.

 

クラリッサ・ヘンリー(作家)終戦間近になり,連合国軍が迫ってくると,ヴェストヴァルトと呼ばれていた,あのラモルレイの施設で暮らしていた人々は,フランスから,ドイツに避難させられました」

ボリス・ティオレイ(ジャーナリスト)ナチスはレーベンスボルンの子供たちは優秀だと信じ込んでいました.ですから,子供たちの安全を確保し,何としてもドイツへ,連れて行かなくてはいけなかったんです」

 

ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 3

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1944年,ドイツ軍が撤退し始めた頃,アーウィンはまだラモルレイの施設にいました.父親との別れがその頃なのか?

アーウィン・グリンスキー「父は,フランスから撤退命令を受けると,母にこう言ったそうです.『自分は妻帯者だ.国に妻子がいる』と.それだけ.母から聞いた話はそれだけです.

母は父を本当に愛していました.私には分かります.本当に父を愛している様子でした.

しかし,父の目的はただ一つ.レーベンスボルンの子供を作ることだったんです.父にとって大切なのは,それだけでした」 

 

エリザベスは,ドイツのおばを頼ります.

1944年7月,親子3人で施設を出ました.8月10日にドイツ人は全員ムニエ邸からの撤退をを余儀なくされたことを考えれば,間一髪でした.

 

程なく,パリは解放されました.ドイツに敗戦が近づいていました.

フランスを脱出したエリザベスでしたが,たどり着いたドルトムントは,毎日,連合軍の爆撃にさらされていました.

 

1945年,建築家アルベルト・シュペーアが地下壕に潜んでいたヒトラーに,戦後ドイツ人はどうなるのでしょう?」と聞くと,「戦後などない.我々の世界は終わるのだ」とヒトラーは言い放ったのです.

しかし,ドイツ国民はヒトラーを信じていました.「私たちは信じ続ける」と書かれたプラカードをがれきの上に掲げるほどでした.

 

ドルトムントのエリザベスにはある不安がありました.レーベンスボルンで生まれた子供たちは,ナチス親衛隊に属していたからです.

子供たちは,生後たった1ヶ月で親衛隊に宣誓をさせられていました.命名式では,隊員たちが赤ん坊を取り囲み,その子の額に短剣をあて,正式な一員としていました.

その事実を知って欲しくなかったエリザベスは,終戦間際の出来事を,生涯,アーウィンに話すことはありませんでした.

 

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Lebensborn, The Nazi Breeding Program To Create A Master Race

 

ますます戦闘が激化するドイツ.連合国軍の爆撃機への警戒が続きます.空は燃えていました.

ヨハン・シャプトー(歴史学者 ソルボンヌ大学教授)「戦闘が第三帝国の中心部に迫ってくるにつれ,ナチスは子供たちまで戦場にかり出し始めます.ヒトラー・ユーゲントのまだ若い10代の子供たちに対空防御砲操作させ,ドイツ各地を絶え間なく攻撃していた連合国の爆撃機を撃墜させていたんです」

そうするしかなかったのです.

ヨハン・シャプトー「第三帝国に必要とあらば,ドイツの子供たちは,否応なく兵士として動員されました.幼いながらも戦場で役立つよう訓練されてもいました」

 

もし.レーベンスボルンの子供たちが成長していれば,彼らは最強の軍団となって帝国を無敵にしていたでしょう

 

ヨハン・シャプトー「1944年からは,国民突撃隊フォルクトシュトルムが結成されました.いよいよ総力戦となって,10代後半の少年たちまで,戦場に送り込まれました.

その後,対象年齢は,更に下がり,16歳にもならない子供たちも,危険な任務に就かされたのです」

 

ドルトムントにいたエリザベスは決断しました.

息子を守るため,フランス赤十字の病院列車に彼を乗せ,フランスに逃がすことにしたのです.

 

1945年4月16日,ベルリン攻防戦が始まり,ヒトラーは敗戦を悟ります.

彼は,地下壕で自殺する前日まで,長い時間,(ゲルマニアの)縮尺模型の前で過ごしていました.偉大なドイツの未来都市と,支配したであろう世界を思い描いていたのです.

4月30日にヒトラーが自殺すると,5月2日にはソ連軍がベルリンを掌握します.こうして1000年続くはずだった帝国の夢は終わったのです.

 

ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 4

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2018/12/28/000357

エリザベスはフランスでアーウィンと再会すると,隠れるように暮らし始めます.8歳になるまで,アーウィンを学校にも行かせませんでした.

しかし,彼女のように傷ついた女性に他に生き方があったでしょうか?

 

ボリス・ティオレイ「レーベンスボルンのことを,話したがる人はいません.というのも,ほとんどの国で,そこで生まれた子供たちは恥と見なされたからです.

フランスで生まれた子供は少数でしたが,彼らの母親が,子供の出自を明かすことはなかったでしょう」

 

 戦後やっと訪れた平和な時代に,レーベンスボルンについて被害を訴え出る女性はいませんでした.

 

しかも,1946年のニュルンベルグ裁判では,レーベンスボルンの責任者たちは,戦争責任を問われなかったのです.

彼らが,レーベンスボルンの責任者として,被告人席に着いたのは,その2年後の1948年,ニュルンベルグ継続裁判においてでした.

 

クラリッサ・ヘンリーニュルンベルグ裁判では,施設の非人道的な一面が暴露されました.年若い母親だけでなく,少女たちまでもが,大勢レーベンスボルンへ送られていたんです.

後のニュルンベルグ継続裁判では,2年にわたって反対尋問が行われ,結局,レーベンスボルンの責任者たちは,判決で無罪になりました」

ボリス・ティオレイ「法廷は,レーベンスボルン計画が犯罪行為であるという事実を,完全には理解しませんでした.施設では,おぞましい思想のもと,子供たちを産ませ,母親から子供を奪っていたのに,連合国側はそのことを把握しきれなかったんです.

それは,この計画で中心的役割を果たしていた事務局長のゾルマンと,医療部長エーブナーの反対弁論によるところが大きいでしょう.『我々は,妊娠して窮地に陥っていた若い女性たちを保護し,彼女たちが無事に出産できる場を提供していたのだ』と述べたんです」

 

しかし,クラリッサ・ヘンリーとアーク・イレルは責任者たちを追跡取材することにしました.「私たちは,夜に押し入る泥棒のように,すぐにでもドアを破って入らなくてはならなかったのです」.マークイレルは,著作の冒頭で,そう書いています.

 

クラリッサ・ヘンリー「マックス・ゾルマン,グレーゴル・エーブナー医師,インゲ・フィーアメッツ,ギュンター・テッシュ医師.以上の4名が,レーベンスボルン計画の責任者です.ヒムラーの指揮下にいました」

 

しかし,ヒムラーは,既に死んでいました.1945年5月,アメリカ兵の前で青酸カリを飲んだのです.ゾルマンとエーブナーは存命でした.

クラリッサはエーベンスボルン生まれの女性,イングリットになりすまし,接触を試みました.

クラリッサ・ヘンリー「もし,私の容姿が,本物のイングリット・デフォーと同じ,目の色も髪の色も黒だったら,彼らに近づくことはできなかったと思います.中でも,事務局長ゾルマンと,医療部長エーブナーは無理でしょう.でも,私は金髪で青い瞳なので,レーベンスボルン生まれの女性になりすませたのです」

 

クラリッサたちは.ゾルマンの居所を突き止めました.南アメリカに移住したと思われていた彼は,ひそかにミュンヘンに戻っていたのです.

クラリッサ・ヘンリー「ゾルマンは,その慈善事業について語りました.レーベンスボルンは若くして妊娠した女性のための施設だったという主張です.彼らは,かわいそうな女性を救っていたんだと---.インタビューの終わりに,『いいかね?我々は世界を変える絶好の機会を逃してしまったのだ』と言いました.『しかし,後悔はしていない』とも.一切ね.

一方,グレーゴル・エーブナーは,ゾルマンと対照的です.エーブナーは,寝たきりで,動くことができない状態でした.でも,頭はしっかりしていて,そこが肝心です.全てを覚えていたんです.

そこで,私は『自分はイングリット・デフォーで,フランスのレーベンスボルンで生まれたらしいが,自分の出生について,もっとよく知りたい』と言ったんです.そして,彼に近づきました.

人の目に,あれほどの喜びが浮かぶのを,私は見た覚えがありません.彼の目に私はどう映ったのか.エーブナーの顔が,奇跡でも見たように輝きました.その時の私が,シュタインへーリングで,彼が生み出した子供の一人に見えたのでしょう.

私は---,本当にぞっとしました.『この男は,耳が突き出ている,といった理不尽な理由で,子供たちに断種手術を行い,純血のアーリア人ではないからといって,子供たちを大勢殺していたんだ』と.

私が見た書類には,エーブナーのサインがあったんです.エーブナーは重大な犯罪者でした.

そのあと,私たちは,その書類をもとにして,レーベンスボルンの責任者ゾルマン,エーブナー医師,テッシュ医師,インゲ・フィーアメッツが戦争犯罪者だと証明しました」

 

しかし,彼らは,終戦時の裁判では,ナチスの組織に属していたという罪にしか問われず,わずか2年服役しただけでした.

 彼らがその後,医師や弁護士として活躍する一方で,レーベンスボルンで発見された子供たちの問題解決には,長い年月が必要でした.

 

フランスに限らず,ヨーロッパ各国に,生まれも,名前すらわからない子供たちが大勢いたのです.

皆,見捨てられた子供たちでした.

 

ボリス・ティオレイアーウィンは私に電話をかけてきては,メッセージを残します.絆っていうほどじゃありませんが,つながりがあるんです.

アーウィンは言いました.『私の見付けてくれたのは君だ』と.なんて言うか,私が彼の出生の秘密を明らかにしたかのようでした.

アーウィンと私は,出会うべくして出会ったんです」

 

父親は親衛隊員で,ヒトラーの護衛だったと判明した.SS番号 35 133.

 

“レーベンスボルン(生命の泉)”1  BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子供たち」は, “レーベンスボルン”で生まれた二人の人物の生い立ちを通して,レーベンスボルンの全貌に近づいていく好番組. - yachikusakusaki's blog

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レーベンスボルン7 NHKBS1「ヒトラーの子供たち」より(3)-1 総集編−1  yachikusakusaki's blog

レーベンスボルン8  NHKBS1「ヒトラーの子供たち」より(3)-2 総集編−2   yachikusakusaki's blog