NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 4
「ヒトラーの子供たち」より(1)イングリット・デフォー
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終戦間近,ドイツ・シュタインへーリングの施設に入ったアメリカ兵は,300人近い見捨てられた子供たちを発見します.レーベンスボルン計画で初めて作られた拠点施設でした.しかし,終戦後長い間,レーベンスボルンの詳細は不明でした.
かなりの年月を経て.マーク・イレル(作家・映画監督)とクラリッサ・ヘンリー(作家・女優)が,シュタインへーリングにいたイングリット・デフォーとの接触に成功し,彼女宛ての手紙と彼女の記憶から,フランスでのレーベンスボルンを特定し,活動内容を解明します.
そこでは,選ばれた若い娘たちがドイツ兵の相手をし,子供を産み,第三帝国に差し出していました.ヨーロッパ各地で同じように誕生した子供たちが何千人もいました.
しかし,ラモルレイの秘密が明らかにされたにもかかわらず,この件について世間の関心は低いものでした.
この後も関係者の沈黙は40年続きました.
「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 1
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2010年,その沈黙を破り,ジャーナリストのボリス・ティオレイが,真相究明に乗り出します.
「役所の記録には1944年に生まれたアーウィン・グリンスキーの名前が書かれていました.その男性に電話をかけたんです」
「「ボリスは『自分がどこで生まれたか知っていますか?』と聞きました.私は『ムニエのチョコレート御殿で生まれたとしか聞いていない』と答えました.母はその件について語ろうとしませんでした」
「記録は,1944年5月21日生まれに訂正されていたんです.出生地はラモルレイのムニエ邸でした.疑いの余地はありません.それこそ,レーベンスボルンのあった場所です」
ばらばらだった,アーウィンの記憶の断片がつながり,彼の忘れがたい過去がよみがえりました.
「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 2
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「出てきたのは写真の束だったのです」
ついに手がかりを発見したのです.ドイツ人の恋人とほほえんでいる母の写真でした.アーウィンはその男性を知りませんでした.
「母が笑っているところを生前には見たことがありません」
隣に座っているのは,施設を運営していたグルンヴァルト夫妻.グルンヴァルトは親衛隊の軍曹でした.エリザベスは分かっていたはずです.
アーウィンは全てを知り,家族の秘密が実は歴史上の秘密であったと認識しました.
「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 3
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1944年,ドイツ軍が撤退し始めた頃,アーウィンはまだラモルレイの施設にいました.父親との別れがその頃なのか?「父は,フランスから撤退命令を受けると,母にこう言ったそうです.『自分は妻帯者だ.国に妻子がいる』と.それだけ.母から聞いた話はそれだけです」
エリザベスは,ドイツのおばを頼ります.たどり着いたドルトムントは,毎日,連合軍の爆撃にさらされていました.エリザベスにはある不安がありました.レーベンスボルンで生まれた子供たちは,ナチス親衛隊に属していたからです.その事実を知って欲しくなかったエリザベスは,終戦間際の出来事を,生涯,アーウィンに話すことはありませんでした.
ドルトムントにいたエリザベスは決断しました.
息子を守るため,フランス赤十字の病院列車に彼を乗せ,フランスに逃がすことにしたのです.
「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 4
NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子どもたち」
1945年4月16日,ベルリン攻防戦が始まり,ヒトラーは敗戦を悟ります.
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4月30日にヒトラーが自殺すると,5月2日には,ソ連軍がベルリンを掌握します.
こうして1000年続くはずだった帝国の夢は終わったのです.
エリザベスはフランスのアビニョンでアーウィンと再会すると,息子と2人,隠れるように暮らし始めます.
8歳になるまで,アーウィンを学校にも行かせませんでした.
エリザベスはめったに外出せず,看護師ではなく,裁縫の仕事をして,他人とは口をききませんでした.
しかし,彼女のように傷ついた女性に他に生き方があったでしょうか?
ボリス・ティオレイ「レーベンスボルンのことを,話したがる人はいません.というのも,ほとんどの国で,そこで生まれた子供たちは恥と見なされたからです.
フランスで生まれた子供は少数でしたが,彼らの母親が,子供の出自を明かすことはなかったでしょう」
戦後やっと訪れた平和な時代に,レーベンスボルンについて被害を訴え出る女性はいませんでした.
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レーベンスボルンの責任者は,終戦時の裁判では,ナチスの組織に所属していたという罪にしか問われず,わずか2年服役しただけでした.
彼らがその後,医師や弁護士として活躍する一方で,レーベンスボルンで発見された子供たちの問題解決には,長い年月が必要でした.
フランスに限らず,ヨーロッパ各国に自分の生まれも,本当の名前すらわからない子供たちが大勢いたのです.
皆,見捨てられた子供たちでした.
ボリス・ティオレイ「アーウィンは私に電話をかけてきては,メッセージを残します.絆っていうほどじゃありませんが,つながりがあるんです.
アーウィンは言いました.『私を見付けてくれたのは君だ』と.なんて言うか,私が彼の出生の秘密を明らかにしたかのようでした.
アーウィンと私は,出会うべくして出会ったんです」
父親は親衛隊員で,ヒトラーの護衛だったと判明した.SS番号 35 133.
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