【出演】作家…辺見庸
【朗読】ミッツ・マングローブ
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「今日は,最新作の『月』について話してくれという事できたわけですけども」「書いて良かったのか,書くべきではなかったのか」「あの事件(相模原障害者施設殺傷事件)がきっかけになってるということは間違いない」「外側から見るのではなく,内側から見るということをするにはですね,小説という手段,詩という手段を使わなければできない」「全体として,この社会というものが,あの青年を突き動かしたんではないか」
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「あの事件(相模原障害者施設殺傷事件)がきっかけになってるということは間違いない」/ 「あの夏の日の未明に,ふき上がった血潮に,私たちが染まっていないわけがない」「打ち倒れた人々は,何かを感じてるか,そちら側から眺めようとする努力は,あってもいい」「在るも何も,在っちゃたんだ.はじめもへちまもない.今,在っちゃったんだと.しょうがないじゃないか」「在っちゃうものを,どのように,他者が受容できるかかどうか,ここの問題」
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「あの事件(相模原障害者施設殺傷事件)がきっかけになってるということは間違いない」/ 「あの小説においては,敵がいる.書かれていない敵が.それは,おためごかしのこと」「僕らの現実に持っている社会自体が,実は,優生思想的である」「存在っていうのは,悲しいもんだ.明日にはわからない.そこに,善だとか悪だとかを,持ち込む必要はないことではないか」「徐々に,極めてね,極めて徐々に,しかし,極めて確実にね,ディスアピアランスが来る」
存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて
(紀伊國屋ホール)
辺見庸「みなさん,今晩は」「今晩は」
「あの〜,オホン--- 風邪をひいてしまいまして,オホン.恐らく熱があると思うんですけど,ユンケル2本飲んでですね,出てきました.
少しうわごとのようになるかもしれませんけれども,ご勘弁頂ければ,というふうに思います.
私は,この『月』という小説の,恐らく,作用によってなんでしょうけれど,何かを待っている気分なんです.多分ですね,終わりを待ってるんだというふうに思うんです.
終わりっていうのは,例えば,ビッグバンみたいなことなわけです.
このビッグバンの時の,ものすごい宇宙的な爆発というのはですね,現在も,そのビッグバンのノイズが化石的な音響となって,現在でも,宇宙に散らばっている.というふうに書いたフランスの哲学者がいるわけですけれども,そこに耳を傾ける,そこに耳を澄ますということがですね,我々の仕事であるような気が,気がするどころか,私は確信しているわけです.
で,この宇宙に存在する存在物というのは,例えばですね,物質がある,光がある.それから,重力がある.それから,電磁気力,電磁気というものがある.それから,強い力がある.それから,弱い力がある.
で,私が,特にひかれるのは,弱い力--- であります.あるいは,弱い存在,極小の存在.存在にも値しないような,そういう力.そういう観点から,『月』のさとくんという人間像を立ち上げ,主たる語り手である,きーちゃんという人物を書いたわけです.
彼らは,みんな,弱い力に入るんじゃないかと思います.
皆さんは,『与死(よし)』という言葉を聞いたことがありますか?『与死』.吉幾三じゃなくて『与死』.『与える』という字に『死』というふうに書くわけです.
一定の判断基準,要件を満たしたものに,社会の規律,合意ですね--- をもって死を与える.つまり,殺してしまうということですけれども,まあ,終末医療の患者なんかが,その対象として想定されているわけですけれども,これは,比較的に新しい概念,言葉でありまして,多分,前世紀末か,今世紀の初めに学者が唱えた考え方だと思うんです.
でも,似たようなものは,ナチスドイツにも,日本の優生思想の中にも,埋め込まれていたというふうに,私は思います.
それから,もう一つ,与死.もう,みんな忘れかけているし,メディアもほとんど報じなくなっているけれども,戦後でも,まれに見るマスマーダーというか,ジェノサイドのような,13人を2回にわたって確定死刑囚に,刑を執行するという事が,あったわけです.
(2018年7月6日 オウム真理教事件 13人に死刑執行)
国家が人の死を決定していいもんだろうかというふうに,私は思うんです.
このことを,人間存在の問題として,なぜ,我々は異様に思えなかったのか.
こう言ったら,皆さん,激しく反発するかもしれない.
肯定しているんです.我々は.与死を,どこか,我々の無意識の中で,肯定してしまっている.あるいは,諦めてしまっているところが,あるんではないか,というふうに思うんです.
あれだけのことをしたんだから,死刑はやむをえないというふうに考えてしまう.
ある意味で,反対なき殺戮(さつりく)ではないか,というふうに,私は思います.
与死,これもまた,相模原の事件に重なるんじゃないでしょうか.
もっと言いましょう.具体的に皮肉っぽくね.
つまり,在るということには意味がない.意義もないんだと.しかたのないことなんだ.アベも,天皇も,私も,皆さんもそうなんです.というふうに私は思う.
これが実はですね,こういうふうに思うことの中に,我々の内面が自由である端緒,糸口のようなものがありはしないかというふうに私は思うんです.
在るからには,こうしなければならない,というのが国家の教えであり,あるいは,さとくんの考えたことではないか,というふうに思うんです.
存在物に,意味を強要してはいけないと同時に,その存在を剥奪するのもいけないというふうに,私は思うんです」
辺見庸『月』より
きた きている
もうはじまっているのだろうか
血のにおいだろうか とても濃い
しけった泥夜のにおいか これは
ああ さとくんだ
闇の底から低く呼んでいる
「きーちゃん きーちゃん」
胸が熱くなる.
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