【出演】作家…辺見庸
【朗読】ミッツ・マングローブ
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「今日は,最新作の『月』について話してくれという事できたわけですけども」「書いて良かったのか,書くべきではなかったのか」「あの事件(相模原障害者施設殺傷事件)がきっかけになってるということは間違いない」「外側から見るのではなく,内側から見るということをするにはですね,小説という手段,詩という手段を使わなければできない」「全体として,この社会というものが,あの青年を突き動かしたんではないか」
「中島敦(あつし)という人がいてですね,
中島敦(1909-1942)
小説家 代表作に『山月記』
近代日本の作家の中で,その同時代の流れに染まらなかった.極めて数少ない人ではないかっていうふうに思うんです.彼が執筆活動していた太平洋戦争期にですね,彼はそのうねりにほとんど染まらないものを書き続けてきた.
『牛人』という,うし(牛)のひと(人)と書く,『牛人』という小説なんですけれども,中島敦っていう人はですね,悪が書けるんですね.人間の悪さですね.陋劣(ろうれつ)さ,卑劣さ,裏切りみたいなことを,1行か2行でサラッと書いて,で,奈落のふちを開けてみせる,ということができる人である.
この『牛人』の中にですね,こういう表現が出てくる.
天井がですね,悪夢のように,こう,自分が住んでるところの天井が降りてくる.ずるずると下がってきて,自分を押しつぶすんじゃないかっていうふうな,幻想にとらわれるんですね.主人公が.
その文章がこういう文章なんです.
中島敦『牛人』より
極めて徐々に,しかし極めて確実に,それは少しずつ降りてくる.
これに僕はとらわれましてね.参りました.
何かがですね.今も私はそうだと思うんだけれども,非常に少しずつですね,しかしながら,確実にですね,何かがやって来るんだと.
これは,簡単なようでですね.書けないですね.こういう表現は.
で,あの風景っていうのはですね.皆さんそれぞれにですね.脳裏にお持ちだと思うんだけれど.一歩進んでですね.何を予告しているのか.
『極めて徐々に,しかし極めて確実に,それは少しずつ降りてくる』としたらですね.それは何なのか.
それから,類似,ないしは,それ以上のですね.風景っていうものが,今後展開するんではないか.
ものすごい重圧を,我々は前提にしなければいけない.一瞬一瞬のしかかって,おしかかってくる重圧っていうものを前提しないと,いけないような気がするわけです.
あの夏の日の未明にですね.まるで虹のようにふき上がった血潮に,私たちが染まっていないわけがない.
血だまりの中に立ち尽くすしかない風景っていうものは,あるっていうふうに私は思ってるんです.
あの血まみれの惨劇に無縁な人間はどこにもいない,というふうに私は思っています」
「どうしても僕は,物事を考えるときに,事件現場についても,色とか形とか,あるいは音楽とか音とか,においっていうことに,どうしても頭がいくんですね.
何を,どういうトーンでですね,基調となるですね.トーンはどういうものであったかというと,マリオ・ジャコメッリという写真家の写真があったんですね.
マリオ・ジャコメッリ(1925-2000)
イタリアの写真家
この人の作品っていうのは,現実を写すというよりは,こう,時空間の不確かさみたいなものを写しちゃうんですかね.でみるものに,しこから,不安を植え付けてしまうような,そういう作品があって,僕は大好きなんですけれど.
つまり,僕から言わせれば,この,マリオ・ジャコメッリが持っているような映像こそがですね,むしろ現実なんだというふうに思うところがあるんですね.
彼の作品の中で,ホスピスで撮ったですね.タイトルもいいんですけども,『死が訪れて君の目に取って代わるだろう』という,このシリーズがあるんですね.イタリアのホスピスの世界なんですけど.
Mario Giacomelli Verrà la morte e avrà i tuoi occhi - Google 検索
どう考えても,死にゆく側からこの写真は撮られているなあと.
つまり,死にゆく側が撮られているんじゃなくて,死にゆく側が見ている状況をですね,写真化したんだ,映像化したんだなあと,思わせるようなものがあるわけですね.
で,そのことを,ぼんやりと,イメージに,ずっと,僕はあってですね,『月』の最中もその思いが出てくるわけですね.
彼ら,彼女たちの状態に,俺とか皆さんが,いつなるかわからない.
それから,そうなった場合,彼らや彼女ら,あるいは我らがね,どんな内面を持つか,持ってるかなんて,誰も断定できないんじゃないか.
ほんとは豊かな内面,ものすごく美しい内面をさ,瞬間的にせよ,持つかもしれないわけでしょ.
あるいは,もっと,ほんとにほんとに地獄絵みたいな---,かもしれない.
それが,交互にやってくるものかもしれないし.
そんなもの,分かったもんじゃない.
ただ,我々にとって必要なのは,そういう打ち倒れた人々は,何かを感じてるか,ということを,向こう側から,そちら側から眺めようとする努力っていうのは,あってもいいような気がするんだよね」
辺見庸『月』より
ご存じのように,わたしは,鏡餅か何かのように,ベッドにべたっといるだけで,じぶんでは,これっぽっちも動けず,目がみえず,思うように話せない.
わたしはなんなのだろうか.
ひとなのだろうか.
モノか.
かたまりか.
以前,さとくんもベッドのはしにすわり,わたしをたぶんまっすぐにみおろして,目をそむけず,問うでもなくつぶやいたものだ.ため息まじりに.
「まったくね---.
あんたはなんなんだい?いったい,なにからうまれてきたんだ?
なんのために?」
さとくんいがいのだれが
わたしに,じかに,こんなことを問うだろう.
「こんなにもきほんてきなことを」
むきだしの,ぶしつけな,きほん.
「あの『月』で,僕は繰り返し,きーちゃんの口を借りたりしながら,書いていた---書いていた----書いたことはですね.
『在る』ていうこと.『在る』っていうことと『無い』っていうこととは,どういうことなんだっていうことですね.
今,自分があるっていうことは,どういうことなんだ.ないっていうことはどうなんだろう.
あるっていうことは,いいことなのか」
「この『セトナ皇子』(中島敦全集2)っていうのは,原稿用紙で4〜5枚のもんなんですよね.でも,大長編,読んだぐらいに,結構,衝撃を受けてですね.
太初(たいしょ)の,最初の神であるラーが,まだ生まれていない時には,じゃあどうだったのだろうな,というふうに,作中のセトナ皇子は問うわけなんだけど,
混とん,世の中,混とんとするヌーから生まれたんだと.
『それでは,ヌーは何から生まれたか』と.
『何からも生まれはせぬ』と.『初めから在ったのである』
何からも生まれたんじゃないんだと.初めから在ったんだと.在っちゃったんだと.
それで,彼は.
ここですね.僕が衝撃を受けたのは.これなんです.
初めにヌーがなぜあったのか?と自問してですね.驚くべき答えがこれなんです.
『無くても一向差し支えなかったのではないかと』
実はきーちゃんの考え方はこれに重ねたわけですね.
なぜ自分は在るのか.動きもしゃべりもできないのにですね.無くてもいいだろうになぜ在るのかと,私は.
無くてもいいだろうに,っていうことにアクセントがあるかというと,ぼくはそうじゃないと思うんだ.
在るも何も,在っちゃたんだ.はじめもへちまもない.今,在っちゃったんだと.しょうがないじゃないか.
在っちゃったんだというと,何だかわかっちゃうというのは,どういうことかというとですね.
自分もそうだからですよ.他者だけじゃなく.
つまり,体にいろんな不自由を持ちながらね.精神やら,思考に,いろんな不自由っていうのを持ちながら,生きている他者だけではなくてですね.
自分もですね,堂々と胸を張って積極的に在るんじゃなくて,在っちゃうだけなんだ.
だから,もし,さとくんが,
存在物っていうのは,自ら好んでね,希望して,ここに存在するんではなくて,在っちゃうんだと.
目が見えない人,耳が聞こえない,歩けない,いろんなことが不自由な,そのような存在も,
存在するというよりも,在っちゃうんだ.在られるんだと.
---ていう目を,もし,思いを,さとくんが持ちえたらね,
それは,もうしょうがないよねという形で,話しかけるなりするしかないだろう.
在っちゃうものを,どのように,他者が受容できるかかどうか,ここの問題ですよね.
その,受容,受容性という点においては,かつてよりも狭まっているんだという危機感と予感が,僕には在りますね」
続く
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