アナザーストーリーズ「“上を向いて歩こう”全米NO1の衝撃」3
リサイタルで好評だった「上を向いて歩こう」は,中村八大と永六輔の出演する番組で,初めてお茶の間に流れる.
放送後の視聴者からの問い合わせは,1万件を超えるほどだった.
テレビ放送直後に発売されたレコードは,3ヶ月で30万枚以上を売り上げるヒットを記録.
さらに,東京オリンピックを翌年に控えた1963年.海の向こうから,坂本のもとにある知らせが飛び込んでくる.
「坂木(さかき)九」という歌手が歌うニッポンの歌「SUKIYAKI」として.
その知らせは,歌った本人さえも驚くものだった.
草野浩二(元東芝音楽工業ディレクター)「『そんな,日本語の歌がね,アメリカで売れるわけないから,誰かがカバーしてるんだよ』って言ったら,そのうちに『いや,坂本九本人の歌唱だ』っていうことになって.だから,九坊にしても,自分がそのために苦労したわけでもないし,もう,ビックリですよ.ビックリしてたとしか,いいようがない」
曲のヒットを受けて,アメリカの地を訪れた坂本.
そこで待ち受けていたのは,3000人を超えるファン.少年は世界の坂本九となった.
画像・写真 | 50年ぶりによみがえる“坂本九inアメリカ” 発掘映像今夜放送 4枚目 | ORICON NEWS
「SUKIYAKI」と名前を変え,世界の人びとに愛されていった「上を向いて歩こう」.
半世紀以上たった今でも,全米で1位を獲得したのは,この一曲だけ.
実はヒットの裏には,海の向こうのアメリカで,この曲を聴き,心を震わせた日系人たちの存在がありました.
第2の視点は,当時ラジオで「上を向いて歩こう」を聴いていた日系人の少年デイビット・マス・マスモト
なぜ,日本語の歌が,当時のアメリカで受け入れられたのか?
この曲に,希望の光を見た人びとのアナザーストーリーです.
視点2 日系アメリカ人 デイビット・マス・マスモト/ 日系人の誇りになった歌
その思い出は,今も大切にしまわれている.
マスモト「シングル盤の『SUKIYAKI』だよ.1963年.僕はいつもこの曲を聴いていたんだ.
当時9歳だった日系3世の少年デイビット・マス・マスモト.
彼がその曲を聴いたのは,「上を向いて歩こう」が全米を制する少し前のこと.
マスモト「僕たちにとっての『SUKIYAKI』は,辛抱強く我慢することを歌う,形を変えたラブソングなんだ」
その曲は,彼らの誇りになった.
フレズノの地元ラジオ局.
今から,半世紀以上前,「上を向いて歩こう」の快進撃は,ここ,KYNOから始まった.
「ハーイ」
出迎えてくれたのは,KYNOオーナーのジョン・オストランド.
オストランド「ここは,1947年にできた伝説のラジオ局なんだ.(写真を取り出しながら)彼は,サム・シュアン.アメリカで最初に『SUKIYAKI』を流したDJさ」
地元で絶大な人気を誇っていたディスクジョッキーのサム・シュアン.
きっかけは,彼が「上を向いて歩こう」の日本語版を手に入れたことだった.
オストランド「彼は,この曲を聴いて,自分の番組で勝手に流しましたが,それは,本当はやってはいけないことでした.彼がやったことは,あの時代,とても危険なことだったんです」
当時のラジオでは,ミュージックディレクターが,流す曲を決めるのがルール.DJに選択権はなかった.
この曲は,絶対にフレズノのリスナーに受けるはずだ.
サム・シュアンは,上層部からの反発を承知で,まだ,アメリカで発売されていないその曲を,電波に乗せる.
オストランド「曲をかけると,電話回線のライトがいっせいに点灯したんです.彼はドアにカギをかけて,何回も同じ曲をかけ続けました」
彼が流した日本語の歌には,リスナーからのリクエストが次々と殺到.
中でも,その曲に大きな反応を示したのが,マスモトのような日系人たちだった.
フレズノにある日系人向けの老人ホーム(日系サービスセンター).
(映像 「上を向いて歩こう」を歌う高齢者たち)
ここでは,今もその曲が愛されている.
日系人女性A「日本語の歌が流れたとき,とても誇らしかったわ」
日系人女性B「ようやく文化の一部になれた気がしたの.だから,いつも私たちの心には,『SUKIYAKI』があるのよ」
大くに日本人が海を渡った19世紀末以降,農業が盛んだったフレズノにも,多数の移民が入植した.
マスモト「これは移住手続きの書類だね.1918年に,船で祖母がアメリカに到着した時のものだ.桝本ツワ.こっちは祖父桝本彦蔵.1897年に来たって書いてある」
日系一世だったマスモトの祖父母.当時の法律で,移民は土地を買うことができなかったため,彼らは小作人を続けながら,自らの農園を持つことを夢見て,必死に働いていた.
しかし,1941年.真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争が,彼らの運命を変える.
マスモト「日本軍が真珠湾を攻撃した次の日から,突然,日本人の顔だというだけで,“敵”とみなされることになった.板挟みに遭ったんだよ.お前らは誰だ.アメリカ人なのか?日本人なのか?ってね」
日本で生まれた1世も,アメリカで生まれた2世も関係なく,戦争が始まると,多くの日系人たちが,その住まいや財産を奪われた.
更に戦時色が濃くなると,日系人は,全米11カ所にあった収容所に強制的に収監される.
突然日常を奪われた彼らは,4年もの間,そこでの生活を余儀なくされた.
マスモト「彼らが感じていたのは,“怒り”よりも“恥”だった.戦争が起きたことを,日系人は恥じていたんだ.その日々はとても苦しいものだった」
過酷な時代,揺れ動いていた彼らのアイデンティティー.一体自分たちは何者なのか?
終戦を迎え,今まで築き上げものをうばわれた彼を待っていたのは,不当な扱いだった.
自分は,他のクスメートと違うのかもしれない.小学生のマスモトも疎外感を感じながら,両親の仕事を手伝う日々を送っていた.
そんな時,ラジオから聞き覚えない曲が流れてくる.
マスモト「納屋で働いているときに,その曲が流れてきたんだ.やさしい前奏に,木琴の音が聞こえて,突然,日本語が聞こえてきたんだ.思わず手が止まった.じいちゃん,ばあちゃんがしゃべってるやつだ.ラジオから聞こえてくるのは,エルヴィスでもシュープリームスでもない.日本語の歌がラジオから流れてる!って衝撃を受けたよ」
フレズノに響いた日本語の歌は,彼らを取り巻く環境に,小さな変化をもたらした.
マスモト「日本語も分からないので,クラスメイトが,口笛をふいて,一緒に曲を歌ってくれようとしたんだ.その時,僕は彼らと絆がつながった気がした.
僕はおばあちゃんがこの歌をどう聴くのかを見てみたんだ.顔を上げた彼女の表情は,にっこりと笑っていたよ」
厳しい生活の中で,愚痴一つこぼさず,黙々と働いていた日系1世の祖母.それはマスモトが見る,初めての表情だった.
カリフォルニアの片田舎で,日本語の歌が大ヒットしている.
その噂は,大手のレコード会社(CAPITAL RECORDS)のもとに届いた.
1. http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2020/02/08/003000
2. http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2020/02/09/003000
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