“レーベンスボルン”3 NHKBS「ヒトラーの子供たち」より(2)ー1 「役所の記録には1944年に生まれたアーウィン・グリンスキーの名前が書かれていました.その男性に電話をかけたんです」「「ボリスは『自分がどこで生まれたか知っていますか?』と聞きました.私は『ムニエのチョコレート御殿で生まれたとしか聞いていない』と答えました.母はその件について語ろうとしませんでした」ばらばらだった,アーウィンの記憶の断片がつながり,彼の忘れがたい過去がよみがえりました.

NHKBS13/06(木)放映「ヒトラーの子供たち」より(1)イングリット・デフォー

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2018/12/24/114002

終戦間近,ドイツ・シュタインへーリングの施設に入ったアメリカ兵は,300人近い見捨てられた子供たちを発見します.レーベンスボルン計画で初めて作られた拠点施設でした.しかし,終戦後長い間,レーベンスボルンの詳細は不明でした.

かなりの年月を経て.作家のクラリッサ・ヘンリーらが,シュタインへーリングにいたイングリット・デフォーとの接触に成功し,彼女宛ての手紙と彼女の記憶から,フランスでのレーベンスボルンを特定し,活動内容を解明します.

 

クラリッサ「それはトップシークレットでした.そこで若い娘たちがドイツ兵の相手をし,子供を産んでいたからです.ラモルレイに住人には理解しがたいことでしょう.ですから,レーベンスボルンの中と外は,完全に遮断されていたんです」 

子どもをつくれという命令に従い,親衛隊員がこぞってフランスで一休みするなど,にわかには信じられないことです.

そして,ナチスによる厳格な審査で,フランスやヨーロッパ各地から選ばれた娘たちが,自らの意思で子供を産んで,第三帝国に差し出すのも驚くべき事です.

クラリッサ「まず,親衛隊に会わせる若い女性たちを手配します.そして,純粋なアーリア人女性と純粋なアーリア人男性のためのパーティを催すんです.そこに集まる女性も男性も,人種という観点から,自分たちは価値があると認識していました.しかし,祝福されて妊娠する場合ばかりとは限りません.望まない妊娠から生まれる子供たちもいました.その子供たちはレーベンスボルンに預けられるんです」

ヨーロッパ各地で同じように誕生した子供たちが何千人もいました.

しかし,ラモルレイの秘密が明らかにされたにもかかわらず,この件について世間の関心は低いものでした.

この後も関係者の沈黙は40年続きました.

 

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NHKドキュメンタリー - BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子どもたち」

 

 NHKBS「ヒトラーの子供たち」より(2)アーウィン・グリンスキー 1

(昨日は独善的に組み替えて内容をまとめましたが,しばらく,番組にあった言葉をそのまま書き写していきます)

 

2010年,その沈黙を破り,ジャーナリストのボリス・ティオレイが,真相究明に乗り出します.

彼は,終戦後ドイツに駐留していた占領軍がフランス語に翻訳した書類をみつけます.

ボリス・ティオレイ「そこには,ラモルレイの保育施設に,21人の女性が滞在し,そこに23人の子供が生まれたと書かれていました.そして,その子供たちは,今もどこかにいるはずだと思ったんです.この取材を始めた当初,彼らの年齢は70代.当然まだ生きている可能性がありました」

 

子供たちの身元は,ナチスが徹底的に隠蔽したため,生まれた子供を特定するのは非常に困難なことでした.

 

ボリス・ティオレイ「私はその施設で生まれた子供の名前を,数名ではありますが,見付けることができました.

戦後,(フランスの)ラモルレイの役所に出生登録されたんだろうと思われます.つまりそういう子供たちの名前は,ドイツのレーベンスボルンに関する記録にはないんです.

実際,役所の記録には1944年に生まれたアーウィン・グリンスキーの名前が書かれていました.それをきっかけに,フランス国内でアーウィン・グリンスキーの名前を探しました.そして彼の電話番号を見付けたんです.

そして私はその男性に電話をかけたんですが,彼は私の話に敏感に反応して,強い関心を持ったようでした.アーウィンは私と会うことで,彼に人生の空白を埋めることができると感じたのかもしれません」

 

アーウィン・グリンスキー「ボリスは『自分がどこで生まれたか知っていますか?』と聞きました.私は『ムニエのチョコレート御殿で生まれたとしか聞いていない』と答えました.母はその件について語ろうとしませんでした.時折,断片的な情報をくれはしましたが」

 

アーウィンは,幼い頃,すでに,自分の生まれは秘密なのだと理解していました.しかも母親は,彼が“アーウィン”という名前を使うことを禁じていました.

アーウィン・グリンスキー「実は母が死んでからアーウィンと名乗るようになったのです.母はいつも私を『エルヴェ』と呼んでいましたから.学校でも私は,エルヴェ・グリンスキーで通っていました」

 

アーウィンは,それを曖昧に受け入れたまま成長していきました.しかし,ある事実を知ることになるのです.

 

16歳になったアーウィンは,身分証明書が必要になり,母親に尋ねると,彼女は戦争のせいで彼が四歳まで出生届けを出していなかったと説明したのです.

電話で問い合わせると,彼の出生届けは1948年になっていました.

アーウィン・グリンスキー「役所の女性職員は,私の記録を1944年の5月21日に訂正しておくと言いました.こうしておけば,あとあと面倒がなくてすむ.と」

そして,この出来事が,50年後,ボリス・ティオレイがアーウィンの出生の謎を解く糸口となったのです.

 

ボリス・ティオレイ「届け出の日付は1948年3月でした.ドイツ人らしいアーウィン・グリンスキーという名前を見て,レーベンスボルンで生まれた子供かもしれないと直感しました.

実際,その記録は,1944年5月21日生まれに訂正されていたんです.出生地はラモルレイのムニエ邸でした.疑いの余地はありません.それこそ,レーベンスボルンのあった場所です」

 

ばらばらだった,アーウィンの記憶の断片がつながり,彼の忘れがたい過去がよみがえりました.

 

アーウィン・グリンスキー遠い昔,私は自分の洗礼記録を見付けました.ドイツ語で『アーウィン・コンスタント・ジャン・シュミット』と書かれていました.グリンスキーじゃなくて,シュミット?

驚いて,母に尋ねると,『誰にも知られちゃいけない』と言って,その紙を取り上げ,火にくべてしまったんです」

 

時を経て,アーウィンは,その意味を知ったのです.

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At a christening for a Lebensborn baby. Bundesarchiv, Bild/Wikimedia Commons

Lebensborn, The Nazi Breeding Program To Create A Master Race Lebensborn - Wikipedia

 

 

“レーベンスボルン(生命の泉)”1  BS世界のドキュメンタリー「ヒトラーの子供たち」は, “レーベンスボルン”で生まれた二人の人物の生い立ちを通して,レーベンスボルンの全貌に近づいていく好番組. - yachikusakusaki's blog

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