霞を詠んだ短歌  今日の片瀬東浜では,夕方になつても多くの人がよく晴れた春の日を満喫していました.弁天橋から見る丹沢,富士は春霞の中にぼんやり浮かんでいました.  ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも 柿本人麿歌集  春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも 大伴家持  かすみたち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける 紀貫之  高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ 大江匡房

今日はよく晴れ,気候も申し分のない一日でした.

夕方,片瀬東浜海岸へ.

もう5時も回っていたのに,浜では膝まで海に入る人を含めて,まだ数多くの人が,春の海を楽しんでいました.

「写真撮って良いですか?」とお父さんに聞くと心よく「どうぞ」といってくれた親子連れの方.

夢中で穴を掘る子供たちのかわいらしかったこと.

今日は,多くの方が穴を掘ったり砂を積んだりしたくなる日だったようで---

この親子連れの方に続く浜辺には,穴や砂山が沢山ありました.

しばらく歩いて,

弁天橋の入口から丹沢富士を眺める角度でアイフォンを向けると,正面の太陽でよく分かりませんが,うっすら富士山も影も.

太陽が沈んでからもう一度撮ってみる事に.

----しかし,つい先ほどは見えなかった雲がじゃまをして,富士山はほとんど見えず.

大写しにすると,霞んだ丹沢の山々の向こうに,さらに霞んだ富士の裾野がうっすらと見えました.

典型的な春霞の風景と言っていいのでしょうか?

 

昨日の夕方は,夕焼けの富士山全体を見ることができたのですが---
秋冬のくっきり見えた富士と比べれば,霞のかかった富士ですね.

 

以前,「霞」とは,雲・霧に似た物の名称かと思っていました.「霞たなびく」「霞立つ」などといわれれば,そう思い込むのが,むしろ当たり前のようにも思われます.

しかし

「空や遠景がぼんやりする現象」を霞と呼ぶ(精選版日本国語大辞典

のであって,「物の名前」ではない.「現象をさしていう言葉」なんですね.

霧や靄(もや)は,実体があって気象用語にも用いられるのに対して,霞は気象用語にはありません.

 

かすみ【霞】

精選版日本国語大辞典

一(動詞「かすむ(霞)」の連用形の名詞化)

①空気中に広がった微細な水滴やちりが原因で,空や遠景がぼんやりする現象.また,霧や煙がある高さにただよって,薄い帯のように見える現象.

比喩的に,心の悩み,わだかまりなどをいうこともある.《季・春》

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⑤(「翳」とも書く) 視力が衰えてはっきり見えないこと.

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大和絵で時間的経過,場面の転換,空間の奥行きなどを示すために描かれる雲形の色面.多くは絵巻物に用いられた.

 

語誌

古く「かすみ」と「きり」が同様の現象を表わし,季節にも関係なく用いられたことは,「万葉−八八」の「秋の田の穂の上へに霧相きらふ朝霞」などの例で知られるが,

万葉集」でも,「かすみ」は春,「きり」は秋のものとする傾向が見えており,「古今集」以後は,はっきり使い分けるようになった.

現在の気象学では,視程が一キロ以上のときは「靄もや」,一キロ未満のときは「霧」とし,「かすみ」は術語としては用いない.

 

https://www.google.com/search?霞とは

 

霞を詠んだ短歌1

(古今短歌歳時記,万葉秀歌より)

古今短歌歳時記に「古歌集で霞を詠んだ歌はおびただしい数にのぼり」とあります.

例えば,楽しい万葉集の「霞」の項には78首が掲載されています.古今集では,霞が9首,春霞が21首とのこと.さらに”類題歌集”である古今六帖には30首,未木集には98首掲載されているそうです(古今短歌歳時記).

 

秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方(かた)にわが恋ひ止まむ 磐姫皇后 万葉集巻二 八八

 

ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも  柿本人麿歌集 万葉集 巻十 一八一二

 

子らが名に懸(か)けのよろしき朝妻(あさづま)の片山ぎしに霞たなびく 柿本人麿歌集 万葉集 巻十 一八一八
 
春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも  作者不詳 万葉集 巻十 一八二一
 
あしひきの八峰の雉なき響(とよ)む朝けの霞見ればかなしも  大伴家持 万葉集 巻十九 四一四九
 

春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも  大伴家持 万葉集巻十九 四二九〇

 

雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく  大伴家持 万葉集巻二十 四四三四

 
かすみたち木の芽もはるの雪降れば花なき里も花ぞ散りける  紀貫之 古今集
 
春霞たなびきにけり久方の月の桂も花やさくらむ  紀貫之 後撰集
 
高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ  大江匡房 後拾遺集小倉百人一首
(あの高い山の峰の桜が咲いたよ。手前の山の霞よ、どうか立たずにいておくれ。 全日本かるた協会)
 
 
 
上記の万葉集の短歌は,万葉秀歌(斎藤茂吉)で取り上げられている歌です.
長くなりますが,以下に斎藤茂吉の評を併せて載せておきます.
 

秋の田の穂のへに霧らふ朝霞いづへの方に我が恋やまむ 磐姫皇后 万葉集巻二 八八

 仁徳天皇の磐姫皇后が,天皇を慕うて作りませる歌というのが,万葉巻第二の巻頭に四首載っている.此歌はその四番目である.四首はどういう時の御作か,仁徳天皇の後妃八田皇女との三角関係が伝えられているから,感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう.

 一首は,秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう,それが叶わずに苦しんでおるのでございます,というのであろう.

「霧らふ朝霞」は,朝かかっている秋霧のことだが,当時は,霞といっている.キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない.第三句までは序詞だが,具体的に云っているので,象徴的として受取ることが出来る.「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので,万葉にも,「大船のたゆたふ海に碇おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八),「人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある.

 この歌は,磐姫皇后の御歌とすると,もっと古調なるべきであるが,恋歌としては,読人不知の民謡歌に近いところがある.併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう.そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである.他の三首も皆佳作で棄てがたい.

 

ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも  柿本人麿歌集 万葉集巻十 一八一二

 春雑歌,人麿歌集所出である.この歌は,香具山を遠望したような趣である.少くも歌調からいえば遠望であるが,香具山は低い山だし,実際は割合に近いところ,藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない.併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから,現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ.それから,「この夕べ」とことわっているから,はじめて霞がかかった,はじめて霞が注意せられた趣である.春立つというのは暦の上の立春というのよりも,春が来るというように解していいだろう.

 この歌は或は人麿自身の作かも知れない.人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが,極めて自然で,佶屈でなく,人心を引入れるところがあるので,有名にもなり,後世の歌の本歌ともなった.併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが,万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである.

 

 

子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく 柿本人麿歌集 万葉集 巻十 一八一八

 人麿歌集出.朝妻山は,大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で,金剛山の手前の低い山である.「片山ぎし」は,その朝妻山の麓で,一方は平地に接しているところである.「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが,朝妻という山の名は,いかにも好い,なつかしい名の山だというので,この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう.この歌も一気に詠んでいるようで,ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂っていいだろう.気持のよい,人をして苦を聯想せしめない種類のもので,やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである.

 この歌と一しょに,「巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある.これは,上半を序詞とした恋愛の歌だが,やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で,ただ口の先の技巧ではないようである.それが,「おほ」という,一方は霞がほんのりとかかっていること,一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので,此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから,此処に置いて味うことにした.

 

 

春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも  作者不詳 万葉集 巻十 一八二一

 春雑歌,作者不詳.春霞が棚引きわたるにつれて,鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので,春の霞と,萌えそめる青柳と,鶯の声とであるが,鶯が青柳をくわえるように感じて,そのままこうあらわしたものであろうが,まことに好い感じで,細かい詮議の立入る必要の無いほどな歌である.併し,少し詮議するなら,はやくも萌えそめた柳を鶯が保持している感じである.柳の萌えに親しんで所有する感じであるが,鶯だから啄んで持つといったので,「くひもつ」は鶯にかかるので,「鳴く」にかかるのではない.また,ただ鶯といわずに,青柳の枝を啄えている鶯というのだから,写象もその方が複雑で気持がよい.その鶯がうれしくて鳴くというのである.詮議すればそうだが,それを単純化してかく表わすのが万葉の歌の一つの特色でもあり,佳作の一つと謂うべきである.この歌と一しょに,「うち靡く春立ちぬらし吾が門の柳の末に鶯鳴きつ」(巻十・一八一九)があるが,平凡で取れない.また,「うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽うち触りて鶯鳴くも」(同・一八三〇)というのもあり,これも鶯の行為をこまかく云っている.鶯に親しむため,「尾羽うち触り」などというので,「枝くひもちて」というのと同じ心理に本づくのであろう.

 

 

あしひきの八峰の雉なき響(とよ)む朝けの霞見ればかなしも 大伴家持 万葉集 巻十九 四一四九

 大伴家持作,暁に鳴く雉を聞く歌,という題詞がある.山が幾重にも畳まっている,その山中の暁に雉が鳴きひびく,そして暁の霧がまだ一面に立ち籠めて居る.その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると,うら悲しく身に沁むというのである.この悲哀の情調も,恋愛などと相関した肉体に切なものでなく,もっと天然に投入した情調であるのも,人麿などになかった一つの歌境と謂うべきで,家持の作中でも注意すべきものである.「八岑越え鹿待つ君が」(巻七・一二六二),「八峰には霞たなびき,谿べには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く,畳まる山のことである.なお集中,「神さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇),「黄葉の過ぎにし子等と携はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六),「朝鴉はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが,家持のには家持の領域があっていい.

 この歌の近くに,「朝床に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唱ふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある.この歌はあっさりとしているようで唯のあっさりでは無い.そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない.

 

 

春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも 大伴家持 万葉集巻十九 四二九〇

 天平勝宝五年二月二十三日,大伴家持が興に依って作歌二首の第一である.一首は,もう春の野には霞がたなびいて,何となくうら悲しく感ぜられる.その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いている,というので,日の入った後の残光と,春野に「おぼほし」というほどにかかっている靄とに観入して,「うら悲し」と詠歎したのであるが,この悲哀の情を抒べたのは既に,人麿以前の作歌には無かったもので,この深く沁む,細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった.それには支那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが,家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看ることが出来る.「うらがなし」を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい.

朝顔は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」(巻十・二一〇四),「夕影に来鳴くひぐらし幾許も日毎に聞けど飽かぬ声かも」(同・二一五七)などの例がある.なお,「醜霍公鳥,暁のうらがなしきに」(巻八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものと看るべく,「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕しけめやも」(巻十五・三七五二)は狭野茅上娘子の歌だから,やはり同じ傾向の範囲と看ることが出来,「うらがなし春の過ぐれば,霍公鳥いや敷き鳴きぬ」(巻十九・四一七七)もまた家持の作である

 

 

雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく 大伴家持 万葉集巻二十 四四三四

 これは家持作だが,天平勝宝七歳三月三日,防人を----集える飲宴で,兵部少輔大伴家持の作ったものである.一首は,雲雀が天にのぼるような,春が明瞭に来たのだから,都も見えぬまでに霞も棚びいている,というので,調がのびのびとして,苦渋が無く,清朗とでもいうべき歌である.「さやに」は清に,明かに,明瞭に,はっきりと,などの意で,この句はやはり一首にあっては大切な句である.なぜ家持はこういう歌を作ったかというに,その時来た勅使(安倍沙美麿)が,「朝なさな揚る雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む」(巻二十・四四三三)という歌を作ったので其に和したものである.勅使の歌が形式的申訣的なので家持の歌も幾分そういうところがある.併し勅使の歌がまずいので,家持の歌が目立つのである.なお此時家持は,「含めりし花の初めに来しわれや散りなむ後に都へ行かむ」(同・四四三五)という歌をも作っているが,下の句はなかなか旨い.

 
 

チューリップを詠んだ短歌  鬱金香(チュウリップ)のにほいのもとにわづかなる眩暈(めまい)をおぼえ昼もおもひぬ 北原白秋  起きてみて,/また直ぐ寝たくなる時の/力なき眼に愛でしチュリップ! 石川啄木  チューリップを幾百種類咲かしめて朝(あした)明るき公園の径(みち) 細川謙三  身を爆ぜて咲かば咲きなむ乙女子のしろじろと群れて見るチューリップ 馬場あき子  チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月 俵万智

藤沢市長久保公園へ行って来ました.

 

どの様な公園か?というと---

公式の的確な紹介文がみつからないので,鎌倉藤沢茅ヶ崎の紹介をしているサイト「かまふち」の紹介文をお借りすると:

https://www.shonan-kamafuchi.com/nagakubo_park/#i

長久保公園は、正式には藤沢市長久保園都市緑化植物園といい、藤沢駅辻堂駅のほぼ中間付近に位置しています。訪れる人が気軽に自然と触れあえる公園として、また、みどりの普及啓発活動の拠点として、平成元年に開園しました。

「植物園」という名前がついていることもあり、園内にはさまざまな植物が季節ごとに花を咲かせ、来る人の目を楽しませてくれます。

 

春たけなわの今日,桜は満開.

芝生でくつろぐ方々で賑わっていました.

 

園の中央花壇は,かなり立派で,多種類の花々が,春の日を謳歌していました.

 

多種類の春の花の中で,ひときわ目立っていたのはチューリップ.桜と並んで,もう一つの代表的な春の花.

以下,園で見かけたチューリップの花を並べてみます.

 

チューリップを詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

鬱金チュウリップのにほいのもとにわづかなる眩暈(めまい)をおぼえ昼もおもひぬ  北原白秋 桐の花

 

起きてみて,/また直ぐ寝たくなる時の/力なき眼に愛でしチュリップ!  石川啄木 悲しき玩具

 

チューリップ花のいみじき一日の暮れて大きく月がのぼりぬ  松本滋代  晩紅花

 

(く)れぎはに見し前庭のチューリップあらしとなりてあざやかに顕(た)つ  君島夜詩 暗い川

 

久しぶりに来し花畠に実をつけしチューリップ醜く長けて居たりき  近藤芳美 早春歌

 

チューリップを幾百種類咲かしめて朝(あした)明るき公園の径(みち)  細川謙三 驢鞍集

 

身を爆ぜて咲かば咲きなむ乙女子のしろじろと群れて見るチューリップ  馬場あき子 雪木

 

チューリップの花咲くような明るさであなた私を拉致せよ二月  俵万智 かぜのてのひら

 

 

 

ネット上には,チューリップの開花状況の報告が---

今年のチューリップの開花は早い?

https://www.blumenooka.jp/post-13150/

https://okazaki-kanko.jp/okutono-jinya/news/11045

 

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2020/04/08/234815

甘納豆  マロングラッセやフリュイ・コンフィと同じ蜜漬けの和菓子で,豆を用いるところは日本独自.日本全国で作られていて,老舗店も知られていますが,その内の榮太樓の三代目細田安兵衛(榮太樓の屋号を初めて用いた)が江戸時代に考案したとされています.名称は,塩味の寺納豆として当時名が通っていた浜納豆/浜名納豆をもじって付けられたと伝わっています.

甘納豆は,豆を煮て糖蜜につけ砂糖をまぶした和菓子.

イタリアのマロングラッセ、フランスのフリュイ・コンフィ(果物の蜜漬け)も蜜漬けのお菓子ですが,豆を使うのは日本独自ですね.https://torokuya.com/amanatto

https://www.google.com/search?甘納豆

 

改訂新版世界大百科事典 

https://kotobank.jp/word/甘納豆

アズキ,ウズラマメ,青エンドウ,インゲン,ソラマメなどの豆を煮て最初は薄いみつ(糖蜜)に漬け,しだいに糖度を増して3回ほどみつ漬を行い,じゅうぶん甘味をしみこませてからみつを切り,砂糖をまぶして仕上げる.

それぞれの豆の持味を生かし,外皮とともに軟らかく食べられるようにする.(池田 暉)

 

 

手許にあればいつの間にか食べてしまう和菓子といえば,柿の種と並んで,この甘納豆があげられるのでは?

少なくとも私の場合は当てはまります.

甘納豆は日本全国で作られていて,ネット上に掲載されているランキングも多数.

例えば

https://ranking.rakuten.co.jp/daily/201173/

https://my-best.com/7804

 

老舗店も知られていて,例えば東では榮太樓總本鋪,花園万頭,西は京都岡女堂などの名前が挙げられています.https://my-best.com/7804

https://www.google.com/search?甘名納糖

 

この内,榮太樓總本鋪は,甘納豆を初めて作った店として,ほぼ全ての記事で名前が挙げられているお店.

例えば,

ニッポニカ https://kotobank.jp/word/甘納豆

事典和菓子の世界(中山圭子 岩波書店

デジタル大辞泉 https://kotobank.jp/word/甘名納糖-692971

 

現在でも,榮太樓總本鋪の甘納豆は江戸時代の名称「甘名納豆」の商品名で販売され,豆も小豆ではなくササゲを用いているとのこと.

考案したのは,榮太郎の屋号を初めて用いた三代目細田安兵衛.https://www.eitaro.com/ryohan/history/

「甘名納豆」という名称は,交友のあった文人墨客の田中平八郎氏が『遠州浜松(静岡県)名物「浜名納豆」をもじって「甘名納糖」と名付けたらどうか』と言われて決めたと伝えられています.https://www.eitaro.com/exclusive/

初めの名前は「淡雪」だったとか.この名前では,現在の隆盛は望めなかったかもしれませんね.https://hugkum.sho.jp/289454

 

甘納豆は,発酵食品ではありませんが,名前のもととなったとされる浜納豆/浜名納豆は,塩味の発酵食品です.

ただし,浜納豆/浜名納豆は納豆菌ではなく麹を用いていますから,大徳寺納豆と同じ寺納豆で味噌に近いと言えます.

浜納豆/浜名納豆

納豆の一種.煮た大豆に麹こうじ・小麦粉をまぶして発酵させ,塩汁に漬けたのち乾燥してサンショウ・ショウガなどの香料を加える.浜名湖北岸にある大福寺で作り始めた.(デジタル大辞泉

 

 

付録

アズキとササゲ

子実:https://www.mame.or.jp/syurui/photogallery/shijitsu.html

花:https://www.mame.or.jp/syurui/photogallery/hana.html

莢:https://www.mame.or.jp/syurui/photogallery/saya.html

豆類の植物分類



 

アセビ(アシビ 馬酔木)を詠んだ短歌  磯の上に生(を)ふる馬酔木を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに 大伯皇女  池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入(こき)れな 大伴家持  庭隈のあしびの花に夕雨のあかるうそそぐ見つつ語らふ 佐佐木信綱  のぼり来し比叡の山の雲にぬれて馬酔木の花は咲きさかりけり 斎藤茂吉  水の辺の馬酔木の若木小さけれどほのかに群れて花つけぬらし 北原白秋  来る道は 馬酔木花咲く日の曇り—。大倭(ヤマト)し遠き 海鳴りの音 釈迢空

鎌倉に所用で出かけました.

少し早く着いたので,鎌倉駅からすぐのおんめさま(大巧寺)へ.鶴岡八幡宮の二ノ鳥居近く,

大好きな,このブログでも一番多く取り上げてきた寺院.

いつ行っても花に出会えるお寺です.今日であった花々は:

 

ヤマザクラトキワマンサク

ヒメツルソバタンポポ

ヤマブキ.

ヒメウツギ.こちらはまだ蕾.もうすぐ花開きそうです.

ハナニラとオオツルボ(ワイルドヒヤシンス).

リキュウバイ(ウメザキウツギ).

ヒルムシロ.

ザクロの芽とマツの蕾.

そして

アセビ/アシビ(馬酔木).

 

アセビは,この時期,鎌倉のお寺・寺院では必ずと言っていいほど出会う花.個人のお宅の門の横や垣根の横にも花を咲かせています.

葉に,ツツジ科の植物の多くが持つ毒(グラヤノトキシン類)の一つ(グラヤノトキシンⅠ /アセボトキシン)を持っていて,奈良の鹿が食べ残すことで知られていますが,万葉集に十首ほど詠まれていて,万葉歌人に愛された花としても有名です.

 

 

アセビ(アシビ 馬酔木)を詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

磯の上に生(を)ふる馬酔木を手(た)折らめど見すべき君が在りと言はなくに  大伯皇女(おおくのひめみこ) 万葉集巻二 166

 

斎藤茂吉 万葉秀歌: 石のほとりに生えている,美しいこの馬酔木の花を手折りもしようが,その花をお見せ申す弟の君(大津皇子)はもはやこの世に生きておられない.)

 

池水に影さへ見えて咲きにほふ馬酔木の花を扱入(こき)れな  大伴家持 万葉集 巻二十 4512

 

庭隈のあしびの花に夕雨のあかるうそそぐ見つつ語らふ  佐佐木信綱 山と水と

 

花時の馬酔木に月のまさやけく白々にほふ木下くぐりつ  岡麓 宿僕詠草

 

のぼり来し比叡の山の雲にぬれて馬酔木の花は咲きさかりけり  斎藤茂吉 白桃

 

水の辺の馬酔木の若木小さけれどほのかに群れて花つけぬらし  北原白秋 風隠集

 

来る道は 馬酔木花咲く日の曇り—。大倭(ヤマト)し遠き 海鳴りの音  釈迢空 倭をぐな

 

馬酔木の花うつろふ傍(そば)に枯木なす合歓は五月に入らば芽ぶかむ  山口茂吉 赤土

 

数花の白き馬酔木は灯(ひ)映りにみどり含みて房に垂りつつ  宮柊二 群鶏

 

ひとり知るけやきの道の花あしび花終る日の雲凍る色  近藤芳美 黒豹

 

土曜午後ここの馬酔木に来て坐る何もかもわが失いしはて  田井安曇 経過一束 

 

昏れ残る障子明かりの花のいろ馬酔木のかたに春は来てゐる  稲葉京子 柊の門

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/アセビ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ブルーベリー

 

うらうら/うららかを用いた短歌  うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば 大伴家持(前半は,情景ですよね.後半で自分の気持ちが詠われるんですけど,その,コントラストが現代の感覚に通じるような気がしますね) 麗らかや此方(こなた)へ此方へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず 北原白秋  うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花 若山牧水  うららかに一天晴れて吹く風のとよみの音も耳にのどけし 尾山篤二郎

久しぶりによく晴れ,うららかな春の日を満喫できる一日.

青空の下,江ノ島付近の波は穏やか.弁天橋から見た富士は,春の富士.遠く霞んだ姿を見せていました.

晴れた日に,かえって物憂くなることもあるかとは思いますが---今日は,澄んだ青空を見ただけで心躍り,ウキウキした気分で片瀬東浜から,境川の川辺を歩いて江ノ電鵠沼駅あたりまで歩いてきました.

 

境川河口の桟橋につながれた舟には,休息の時を過ごす海鵜が二羽.

 

道路沿いのお宅や,公園,教会の花たち.

 

柿の木,早咲き桜,梅,カナメモチの新芽からは,元気をもらえます.

松の雌花.この写真では雄花は見えませんね.

 

片瀬教会の前を通る道の境川側の土手の桜.見事に咲き誇っていました.

 

 

うららか,うらら,うらうらを用いた短歌

(古今短歌歳時記より)

 

うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば  大伴家持 万葉集巻十九 4292

 

穂村弘

NHK「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」

麗らかに晴れた春の空に,雲雀が上がつていく.でも,ものを思つている私の心は,悲しい.

前半は,情景ですよね.自分が目で見た物が詠われていて,後半で自分の気持ちが詠われるんですけど,その,コントラストがすごいですよね.

でも,今の我々も,明るい物を見れば明るくなるとは限らなくて,気持ちが沈んでいる時,明るい物いを見てしまうと,より,何か暗くなるというようなこともあるので,このコントラストが現代の感覚に通じるような気がしますね.

 

 

ことといへばもてはなれたるけしきかなうららかなれや人の心の  西行 山家集 

 

うららかに蒼雲たなびく岡の辺を樹を植うる人豆の如く見ゆ  伊藤左千夫 左千夫歌集

 

麗らかや此方(こなた)へ此方へかがやき来る沖のさざなみかぎり知られず  北原白秋 雲母集

 

うらうらと照れる光にけぶりあひて咲きしづもれる山ざくら花  若山牧水 山桜の花

 

うららなる春日ねもすを 出で遊ぶこと七日にも なりやしつらむ  釈迢空 遠やまひこ

 

うららかに一天晴れて吹く風のとよみの音も耳にのどけし  尾山篤二郎 平明調

 

野に花を摘みにゆかなむ春うらら巷に虚飾の花をもとめず  宮崎智恵 花鏡

最中 「餅を薄くのばし,切って型で焼いた皮=もなか種(だね)をつくり,餡をはさんだもの」.最中の元の意は「事物または事柄の中心.まんなか.中央」.「陰暦十五夜,またはその月」の意味も持つようになり,江戸時代「最中の月」という菓子が作られ評判に.現在でも丸い形が一般的かと思いますが,有名店の最中は,それぞれ形にも工夫を凝らしていて,見た目も楽しませてくれています.

和菓子の最中は,「餅を薄くのばし,切って型で焼いた皮をつくり,餡(あん)をはさんだもの」(事典和菓子の世界 岩波書店).

 

https://www.google.com/search?最中

皮の原料は餅米なんですね.今まで気にしたことがなかったので,やや驚きですが,聞けばなるほどそうなのかという印象です.

型で焼いた皮は「もなか種(だね)」と呼ばれ,種屋などと呼ばれる専門の業者がつくる事が多いとか.

餅として食べる餅の製法と異なり,一般的には米粉としたあとに蒸して餅生地にするようですhttp://tanehirosyoten.main.jp/process.html

https://fukuyama-monaka.jp/process/).

 

最中の由来

「最中 もなか」という言葉は,現代では,この和菓子をさす言葉として用いられる場合がほとんどかと思いますが---

 

日本国語大辞典によれば,

最中( もなか)のもともとの意味は,

①「事物または事柄の中心.まんなか.中央.」

②「まっさかり,さいちゅう(最中は「さいちゅう」とも読めますね)

 

室町時代になると,

③「陰暦十五夜,またはその月」の意味も持つようになり---

 

江戸時代にできた和菓子の最中は,「形が円形で,最中の月(=陰暦十五夜の月)に似ているところからこの名前で呼ばれるようになった」とのこと.

 

満月のように丸いのが原形で,江戸時代に初めて最中を作ったと言われる吉原の菓子商竹村伊勢がつけた名前は「最中の月」.

当時とても有名になったようで,川柳や黄表紙に描かれています.

「吉原は竹の中から月が出る」(柳多留 事典和菓子の世界 岩波書店

「もなかの月八片をもって小判一両にかへ」黄表紙・文武二道万石通(1788)下 日本国語大辞典

 

「最中の月」の月が取れて最中になったのかと思われますが,江戸時代には「最中饅頭」という菓子が日本橋で作られていたとの記録(江戸買物独案内)もあるとのこと.事典和菓子の世界 岩波書店

最中の月/最中饅頭⇨最中 ということでしょうか?

 

現在でも最中と聞けば,私は丸い形を思い描きますが---

有名店の最中は,それぞれ形にも工夫を凝らしていて,見た目も楽しませてくれています.

美味しそう!

https://www.shiose.co.jp/products/sodegauramonaka-6

https://ja.wikipedia.org/wiki/空也最中

http://www.ueno-usagiya.jp/okashi2/okashi2.htm

https://www.o-sakaya.com/product/syuushikimonaka/

https://www.google.com/search?古印(こいん)最中

https://www.kankomie.or.jp/spot/23285

https://www.edenotsuki.com/item.php?item_num=1

 

今川焼き/大判焼き/回転焼き---- 多様な名称には,多くの方々が興味を持っていて,この名称の違いを解説した記事がネット上にも溢れていてます.同志社大の吉海先生の記事だけでざっと数えるて26の名前が挙げられていて,他の記事も合わせると,30を越える名前がありました.地方によって呼び名が異なること,その傾向も調べられていますが,最も古い名前は今川焼き(1770〜1780頃)であることは多くの記事に共通しています.

全国的に根強い人気を持っている今川焼き大判焼き回転焼き----

この和菓子の多様な名称には,多くの方々が興味を持っていて,この名称の違いを解説した記事がネット上にも溢れていてます.

https://www.google.com/search?今川焼き/大判焼き/回転焼き

その中には同志社大や奈良大の先生方が調べた記事もあります.

https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2017-08-10-13-07

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

 

この内,同志社大学の吉海先生は,沢山の名称を採取して,それぞれの名前の由来についても簡単な解説をつけています.

驚くのはその数の多さ.

吉海先生の記事だけでもざっと数えると26.

他の記事も合わせると,30を越える名前がありました.

由来がはっきりしない名前も多いようですが,例えば兵庫県の御座候は「他店の開店焼きと区別してお客様がそう呼ぶようになったから」とのこと.

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

それぞれの名前には一つ一つ物語があるのでしょうね.

 

このような多様な名称を持っているものの,地方によって優勢な名前があることよく知られていて,全国の傾向を網羅的に調べた記事も.

https://services.osakagas.co.jp/portalc/contents-2/pc/tantei/1281857_38851.html

https://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all

この内,Jタウンネットの記事の図をお借りして掲載しておきます.詳細はこのサイトをお読みください.

https://j-town.net/2014/08/15190292.html?p=all

 

このような多様な名称で呼ばれているものの,どの記事にも「最も古い呼び名は今川焼き」とあります.その理由をはっきり示しているのが,国立国会図書館のサイト.

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000143045&page=ref_view

この記事には,

「1770〜1780頃,今川焼きという名で売り出された」ことを示す資料が明記されています.

他の名前でこれより古い物はみつからないということですね.

 

国会図書館レファレンス協同データベース

https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000143045&page=ref_view

今川焼は、江戸中期の安永年間(1772~80)頃から、神田の今川橋辺りで売り出された.

▽1777(安永6)年に出た『富貴地座位』という資料の中に、「本所の今川焼き那須屋弥平」と店の名前が記されている.

この内容を書いている資料名:

・『たべもの起源事典』岡田 哲/編 東京堂出版 2003
  p.51 いまがわやき(今川焼き
・『事典和菓子の世界』中山 圭子/著 岩波書店 2006
  p.20 今川焼 いまがわやき

三浦の新キャベツ/春の日を詠んだ短歌  三浦の畑へ行って来ました.今の主力は春キャベツ.桜の開花と同じく,早いと思った収穫が遅れたそうです.畑では春の日を満喫してきました. けふのみと思へばながき春の日もほどなくくるる心地こそすれ 西行  つれづれと物おもひをれば春の日のめにたつものは霞なりけり 和泉式部  春の日は ただのどかにてあらましを—.人の家出でて目に沁む青空 釈迢空

今日は,友人の農家さんを訪ねて三浦まで行って来ました.

畑は,三浦半島の先端に近い高台.

途中,長者ケ崎でトイレ休憩.

夏は海水浴で賑わう場所.今はウィンドサーフィンと春の水辺を楽しむ親子連れの方々でチラホラ.

遠くに江ノ島が見える浜辺で,見晴らしのよい時には富士山も見えるのですが--

水平線にはヨットがかなりの数見えました.

駐車場脇の春の野の花たち.

 

今の季節,三浦の畑の主力は春キャベツ.

春先には,収穫が早まると思っていたところ,その後の寒さで,今一番美味しいとのこと.桜と一緒ですね.花と野菜の違いはありますが.

友人は,農家といっても普段は勤めに出ていて,高齢の父親を助けて,毎週土日のお手伝い.休みなく働いています.

畑に入ると,土がふわふわ.よく手入れされていることを足で感じることができました.

曇ってはいましたが,暖かな春の日を満喫できました.もちろん沢山の春キャベツが,帰りの車のお供に.

 

春の日を詠んだ短歌

(古今短歌歳時記より)

 

ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則 古今集小倉百人一首

 

けふのみと思へばながき春の日もほどなくくるる心地こそすれ  西行 山家集

 

つれづれと物おもひをれば春の日のめにたつものは霞なりけり  和泉式部 玉葉

 

鶯に蛙鳴きつぐ庭ありて我が春日は果なきごとし  北原白秋 黑檜

 

春の日は ただのどかにてあらましを—.人の家出でて目に沁む青空  釈迢空 遠やまひこ

 

こんなにも美しい春の日に生きてゐていいのかと子供の手をにぎりしめる  五島美代子 暖流

 

春の日の正午とおもふにほひして敏捷に薔薇は花びらひらく  生方たつゑ 鎮花祭

 

 

 

わらび餅 わらび餅は,本来は,ワラビの根から採った「わらび粉」を用いて作られてきたものですが--- 江戸時代から既にわらび粉以外の材料も用いられていました.わらびもち粉には 「①本わらび粉100%②本わらび粉を数パーセント配合(残りは芋系でん粉)③本わらび粉ゼロで芋系でん粉100%」があるとのこと.有名和菓子店でもわらび粉ゼロの商品もあります.わらび餅の歴史も踏まえれば,わらび粉100%にこだわる必要はないとはいえ,わらび粉100%,もしくはそれに近いものの味だけは確かめておきたいですね.

今日は,日が沈んでから買い物.少し足を伸ばして勝たせ片瀬東浜へ.

曇り空でしたが,夜の江ノ島は,灯台の光と,大橋〜ヨットハーバーの道路を照らす光,そして,引いたあとの砂浜がこれらの光を反射させていて,美しい光景を作り出していました.

帰りにセブンイレブンへ寄って,明日の朝食用のサンドイッチ(車で出かけるので)・飲み物を購入.

お菓子コーナーにわらび餅(商品名は「とろもちわらび」)を発見.今日のブログの題材にしようとしていたので,これも購入.

原材料は?とみると:

味付けは,「きな粉,加工黒糖,精製糖,黒蜜」

わらび餅部分の材料は,「デンプン,わらび粉,寒天/加工デンプン,糊料(加工デンプン,増粘多糖体)」.

一応,わらび粉も入ってはいるものの,コンビニ商品として並べるための工夫が多数詰まった材料が用いられていました.

 

わらび餅は,本来は,ワラビの根から採った「わらび粉」(ワラビでん粉が主成分)を用いて作られてきたものですが---

https://ja.wikipedia.org/wiki/ワラビ

https://www.google.com/search?ワラビの根

 

わらび餅は,江戸時代から盛んに食べられていて(料理物語1643年にレシピが載っている!),この時から既に,わらび粉以外の材料(例えばくず粉)も用いられていました.

儒者林羅山の丙辰紀行(1616)によれば,東海道の日坂の宿の名物のわらび餅はくず粉を混ぜたもので,きな粉に塩を加え,まぶしたものだという」(事典和菓子の世界 岩波書店

 

現代のわらび餅のレシピにも,わらび粉は高価で手に入りにくいこともあり,他の材料を用いたものが掲載されています.

「わらび餅」での検索トップのレシピ(白ごはん.com)は「わらびもち粉」(わらび粉ではない!)を用いていて,その解説は次の通り:

https://www.sirogohan.com/recipe/warabimoti/

わらび餅の材料  (3~5人分)

わらびもち粉(※)…60g  •砂糖 … 80~100g  •水 … 300ml  •きな粉 … 大さじ3~4

※わらびもち粉の市販品には

【①本わらび粉100%】【②本わらび粉を数パーセント配合(残りは芋系でん粉)】【③本わらび粉ゼロで芋系でん粉100%】があります.

①は粘りが強くて黒っぽい仕上がりに。

②は5~10%配合のものが多く、適度にわらび粉の香りも感じられて粘りもしっかりめ(我が家ではこのタイプを愛用しています)。

③がいちばん流通しているもので、もちもちした食感。「わらびもち粉」という商品名でも本わらび粉が入っていないものもたくさんあるので要注意です!

 

わらび餅は,奈良の名物として名が通ってきましたが,本場奈良の和菓子店でもわらび粉100%の商品はそれほど多くないようで,例えば,次の「千壽庵吉宗」では,2種類の商品を販売していて,一方のみ(純本生わらび餅)がわらび粉100%.人気トップの商品(生わらび餅)は,「天日干し甘藷でん粉(さつまいもでん粉)を主体とし,国産本わらび粉をブレンド」とあります..


わらび餅として,わらび粉以外のものを用いる時には,さつまいもでん粉が多いようですが,中にはコンニャク成分を活用しているものも見られました.

 

消費サイドとしては,美味しければ良いので(もちろん安全でなくてはいけませんが),わらび餅の歴史も踏まえれば,わらび粉100%にこだわる必要はないといえます.ただ,わらび粉100%,もしくはそれに近いものの味だけは確かめておきたいですね.

実は,はっきりとわらびこ100%と確認してわらび餅を食べたことはありません.近日中に試さなくては.

 

月餅家直正,文の助茶屋,叶匠寿庵のわらび餅.

https://www.google.com/search?月餅家直正

https://www.google.com/search?文の助茶屋 わらび餅

https://kanou.com/gnaviplus/item/souanwarabi/

 

付録

菓子材料の基礎知識

創業明治43年 御菓子処・宇治駿河屋[うじするがや] 

https://www.surugaya.co.jp/school/kisogaku/denpun.html

わらび澱粉 (蕨粉 わらびこ)

蕨は地下に直径1㎝位の太く長い根茎を有し、横に伸びて繁茂している。

わらび澱粉の製造は、秋の九月から十一月ごろにかけて、わらびの根を掘り出し、まず30センチくらいの長さに切断し、臼(木製もたは石製)の中でよく粉砕し、これに水を加えてでんぷんを洗い出し、何回も水洗いと沈殿を繰り返して精製し、製品にする。

精製法は、葛澱粉と同様に処理して行なう。

収量は、生原料に対して21%前後である。生産は比較的僅少であるが、わらび餅、その他に用いられる。

国産わらび澱粉は非常に高価なものなので、最近は国産わらび澱粉の代わりに、片栗粉、ジャガイモ、甘藷でんぷん、タピオカ澱粉などで調合・混合された物が殆どである。

国産わらび粉

純正国産わらび粉は灰汁も強いが、その分風味も優れている。精製段階でもこの風味を大切に残すためにも純白には仕上げていない。

国産のわらび粉かどうかは、熱を加えて練り上げると、茶褐色の独特の腰のある粘りが出てくる。冷えると強い粘りがありながら歯切れと口溶けの良さ、独特の野性的な風味はその他の澱粉質とは明確に異なる。

(仕上がり比較)

国産わらびの仕上色は黒っぽくて見た目も悪い。

代替えわらび粉(タピオカ澱粉や甘藷澱粉などでのミックス製品)は色も浅く、食味も進む色合いだが、食すると味はまるで無い。

どら焼き(別名三笠山) 好きな和菓子ランキングでも,大福(いちご大福を含む),団子(みたらし団子+餡の団子)に次ぐ人気和菓子.江戸時代には,どら焼きと金鍔は同じものを指していたとのことですが,明治になって卵を入れた生地を使う丸い形に.どら焼きの名前は銅鑼に似た形だからという説以外に銅鑼の上で焼いたからという説があります.三笠山は奈良の三笠山の稜線の形から,或いは三笠山にかかる満月から.

ご近所の和菓子店でどら焼きを購入.重曹の味が少し残っていましたが,それはそれ.美味しかったです

どら焼きは大好きな和菓子の一つです.ネット上の好きな和菓子ランキングでも,大福(いちご大福を含む),団子(みたらし団子+餡の団子)に次ぐ人気和菓子で,

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/03/27/235653

和菓子を置いてあるお店ならほぼ必ずあるような気がします.

セブンイレブンを含め.

東京では,

うさぎや、亀十、草月など様々などら焼き人気店があるとのことですが

長らく住んでいた鎌倉には,「鎌倉どらやき」があります.あまり知られていない?

https://www.google.com/search? 鎌倉 どら焼き

鎌倉では,「大くに」という和菓子店のバターどら焼きが大好きでした.私のイチオシです.

“時代の流れに合わせて和に洋を重ねる和菓子。大くに4代目の山内さんが「美味しいですよ」と勧めてくれたのが「バターどら焼き」です。 しっとりとした食感に、甘い皮に甘さ控えめの粒あん、そして濃厚なバターの塩気が合う” との評も.

https://oriori-web.jp/article/2204/

 

どら焼きの歴史・由来に関しては,ネット上にも多くの解説がありますが---

以下,ニッポニカ,https://kotobank.jp/word/どら焼き 並びに「事典和菓子の世界(中山圭子著 岩波書店)」をよりどころに,まとめてみます.

 

どら焼きの形状の変遷

現在のどら焼きは,卵や砂糖などを加えた小麦粉生地を丸く焼き,その二枚で餡を挟んだもの.

しかし,江戸時代の随筆「嬉遊笑覧 きょうゆうしょうらん」では,「どら焼きは,また金鍔ともいい」とあり,当時,どら焼きと金鍔(きんつば水でこねたうどん粉を薄くのばして餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、油をひいた鉄板の上で焼いたもの。日本国語大辞典)は,同じものをさしていて,どちらも卵を使わない小麦粉生地だったようです.

榮太郎金鍔 https://www.eitaro.com/kintsuba

ニッポニカの解説にも,

江戸・麹町の助惣(すけそう)を元祖とする当時のどら焼きは、小麦粉を薄く溶いて鉄板に丸く流し、餡を入れて皮を四角に畳んだもので、皮は薄く形状からいえば金鍔(きんつば)であった。
とあります.

 

現在のどら焼きは「日本橋大伝馬町の老舗・梅花亭が明治年間に創案」との記述が,ニッポニカにありましたが---
「事典和菓子の世界」にこの記述はありません.しかし,他のサイトでも,梅花亭はどら焼きを考案したお店として紹介されています.
そして,現在の梅花亭のどら焼きは,「2枚の皮に餡を挟むスタイルではなく、餡が生地(タネ)に包まれている状態」.

 

名前の由来

どら焼きの「どら」は,打楽器の「銅鑼」.

本来は法会ほうえに用いるものであったが、歌舞伎の囃子はやしや茶席、現在では船の出帆の際の合図など広く用いられる(精選版日本国語大辞典

https://www.facebook.com/100057324104751/posts/5208070195923743/

ニッポニカには「形が銅鑼に似ているのでこの名がある」とあり,名前の由来は「形が銅鑼に似ているから」で決まりと思っていましたが---

「形」以外にもう一つの説があって,「銅鑼の上で焼いたから」.

実際,京都笹屋伊織のサイトでは,

https://www.sasayaiori.com/dorayaki/

「江戸時代末期、五代目当主・笹屋伊兵衛が、京都・東寺のお坊さんから『副食となる菓子を作ってほしい』と依頼を受け 鉄板の代わりに、お寺の銅鑼(どら)の上で焼いたことから「どら焼」と名付けられました。」とし,

売られているどら焼きは,他のものとかなり異なる筒状!

(月に3日間だけの限定販売!)

https://www.sasayaiori.com/dorayaki/


どら焼きには,もう一つ別名があります.

三笠山」で,京都の三笠山の稜線の連想から命名されたようです(「三笠山にかかる満月」との説もあり:天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも から)

文明堂総本店文明堂東京はこの名前でどら焼きを販売していることはよく知られていますね.

 

文明堂総本店の紹介文:全国的に「どらやき」という呼称が主流ですが、文明堂総本店では発売当初から三笠山登録商標)と名付け販売を続けてまいりました。
長崎の長い歴史の中で親しまれてきた和菓子、「三笠山」を是非ご賞味ください。

https://www.castella.website/category/mikasayama/

https://www.bunmeido.co.jp/item/123

 

 

桜を詠んだ短歌4 鎌倉鶴岡八幡宮の段葛,源平池の桜は,まさに満開.妙本寺の桜も見応えがありましたが,本覚寺の八重桜は早くも散っていました. さくらさくら美(うま)しさくらの幻惑にのめり込めたる日本浪曼派 道浦母都子  わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ 河野裕子   日本的美意識なぞの埒の外咲きたくて桜うすべにを吐く 松平盟子  愛恋はさくらはなびら散りぬれば散りぬるあとの風のなごりよ 紀野恵

今日は,鎌倉鶴岡八幡宮の桜を見に行って来ました.

段葛の桜,源平池の桜,今がまさに見頃.ほぼ満開でした.


宝戒寺,妙本寺の桜も満開.特に妙本寺の桜はなかなか見応えがありました.

 

本覚寺の八重桜は,かなり散ってしまっていて、やや残念.今年の桜は見頃の時期が短いようです.


桜を詠んだ短歌4

(古今短歌歳時記より)

 

さびしからぬと思ふや桜花の領に入りひとり春たつ祝祭をなす  稲葉京子 桜花の領

 

たてがみをなびかせ駆け出す馬ありと思わるるまで桜花吹雪ける  松坂弘 石の鳥

 

さくら花散る夢なれば単独の鹿あらはれて花びらを食む  小中英之 翼鏡

 

さくらさくら美(うま)しさくらの幻惑にのめり込めたる日本浪曼派  道浦母都子 風の婚

 

夜ざくらを見つつ思ほゆ人の世に暗くただ一つある〈非常口〉  高野公彦 雨月

 

旺然と花みだれ降る桜木(こ)原に佇ちゐて行き処(ど)あらぬこの身か  成瀬有 遊べ桜の園

 

さくらばな散る墓石にこしかけている父のしろがねの脳天  伊藤一彦 瞑鳥記

 

わが胸をのぞかば胸のくらがりに桜森見ゆ吹雪ゐる見ゆ  河野裕子 桜森

 

日本的美意識なぞの埒の外咲きたくて桜うすべにを吐く  松平盟子 シュガー

 

愛恋はさくらはなびら散りぬれば散りぬるあとの風のなごりよ  紀野恵 フムフムランドの四季

 

桜を詠んだ短歌3 後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる(達観の見事さというのがあって,ちょっとね,武士の気概みたいな,大げさに言うと,そういう覚悟まで感じさせる歌).夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん(心の中の全部を占めて桜が流れていくような感じがして,ちょっと壮絶な歌だな〜と思うんですけどね)  精神の外の面の闇に桜咲きざくりと折られゆく腕がある 岡井隆  さくら散るさくらしぐれにほのじろき声満ちて空を母ひかるなり 川口美根子

おそらく,短歌に最も多く詠まれてきた桜.

手許の「古今短歌歳時記(鳥居正博編著)教育社」1289ページのうち,13ページは「桜の花」が直接詠われた歌で占められています(別稿「花」にも明らかに桜を詠んだ歌があります.全13ページに「桜の葉」は含めていません).

この書籍で選ばれた季節に関わる歌の内,1%以上が桜の花を詠んだ歌ということになります.

(一昨日から取り上げてきたのは,「桜・桜花」に分類してある歌ですが,全13ページには,「山桜・彼岸桜・染井吉野」「八重桜・遅桜」「桜狩・花見」が項目として立てられています.)

 

名歌と言われるものにも,桜を詠んだ短歌は数多くあります.

昨日書いたように,

https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2024/04/02/235733

NHK「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」の中の短歌50首の内,3首で桜が詠まれています.

 

紀貫之の歌

桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 

については,昨日,穂村弘氏の評を載せましたが,他の二首についても番組中の評を書き起こしておきます.

 

山川登美子・明治時代

(歌と恋の両面で,与謝野晶子のライバルだった)

後世(ごせ)は猶 今生(こんじょう)だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる

 

栗木京子評

生まれ変わったらこうなりたいっていうようなことは,自分は何も思わない,生きている今,この時でさえ,何の望みもない,でも,そんな自分のふところに桜は美しく散り落ちてくれる.という歌で,29才で結核で亡くなるんですね.

与謝野晶子のライバルで,晶子の夫となる一人の男性を争った仲,女性であるわけで,短歌もとても上手かったんですけれど,惜しくも亡くなってしまう.そういう亡くなる少し前に詠んだ歌で,ニヒリズムというよりは,達観の見事さというのがあって,ちょっとね,武士の気概みたいな,大げさに言うと,そういう覚悟まで感じさせる歌ですね.

風間俊介)これはもう自分の死期を感じているときに---?

もう十分.当時は,結核って治りにくい病気だったので,もうここまでと覚悟を決めてからの歌ですね.

穂村弘

光と影みたいなんですよね.与謝野晶子に対して登美子は.この歌なんか,誇り高さっていうんですかね,普通だと絶望的な状況だと思うんですけど,ほんの一筋の光,見えないくらいの光が,「わがふところにさくら来てちる」っていうところに感じられて,そこになんか我々は反応してしまうところがありますね.

 

 

馬場あき子・昭和戦後

(古典や能の教養をベースに独自の世界を築いた)

夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん

 

穂村弘

夜中にふと目が覚めて,ふと見ると,怖いように桜が散り続けている.眠っていた間もこんなふうに散っていたんだ.っていうことですね.私が眠っていても止まることなく桜は散り続けている.

もう一つは,これは,もしかしたら,桜を通して時間を詠っているんじゃないか,っていう感じが,時間は目に見えないんで,ふだん,時計はそれを目で見せてくれる道具なんだけれど,この歌では,桜がその代わりに.

それが,「とどまらざらん」という,ちょっと不思議な表現ですね,渡部先生に教えていただいたんですけれど,推量の表現だと,選考会の時に.目で見ているのに推量というのは,目に見えない時間が背後にあるから,一瞬も止まらないんだ,っていうこと.この歌って,最後の「とどまらざらん」がすごい感じがするんですけど---

渡部泰明評 

普通だったら,「とどまらざりけり」とかいうところを,推量の「ん」って流すところで,「本当に散っているんだろうか?見ているんだろうか?」と.心の中の全部を占めて桜が流れていくような感じがして,ちょっと壮絶な歌だな〜と思うんですけどね.

 

桜を詠んだ短歌3

(古今短歌歳時記より)

 

ものぐるふ心はもとな枝々のすべては醒めてさくら咲くなり  河野愛子 鳥眉

 

彼岸より呼びもどされてしうつそみはさくらふぶきをあそびつゝ歩む  阿久津善治 冬木の桜

 

雨のすぢ空より長くそそげるに桜あかるく咲きて乱れず  玉城徹 馬の首

 

みちのくの桜ふぶけり帰りきて我が病む夢になほぞふぶけり  岡野弘彦 異類界消息

 

さくらばな陽に泡立つを目(ま)(も)りゐるこの冥(くら)き遊星に人と生れて  山中智恵子 みずかありなむ

 

さくら咲くその花影の水に硏ぐ夢やはらかし朝(あした)の斧は  前登志夫 霊異記

 

雨の夜のガラスに音なくなだれくるさくらは巨(おほ)きひかりとなれり  春日真木子 花中蓮 

 

精神の外(と)の面(も)の闇に桜咲きざくりと折られゆく腕がある  岡井隆 天河庭園集

 

さくら散るさくらしぐれにほのじろき声満ちて空を母ひかるなり  川口美根子 桜しぐれ 

 

 

 

桜を詠んだ短歌2 桜は短歌の題材として多く取り上げられ,秀歌も数多くあります.NHK究極の短歌50選のうち三首が桜の歌! 桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 紀貫之  後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる 山川登美子  夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん 馬場あき子 

桜は,短歌に最も多く詠まれた花といえるのではないでしようか.

一昨年,NHKBSプレミアム/Eテレで,「完全保存版 絶対覚えておきたい!究極の短歌・俳句100選」という番組がありました.

https://www.nhk.jp/p/tankahaiku100/ts/L8R11WY878/

その冒頭のナレーションは

 

桜花 ちりぬる風の なごりには 水なき空に 浪ぞたちける 

 

昨日も取り上げた,古今集紀貫之の短歌でした.

穂村弘評 

さくらの花に風が吹いて,その風が去った後,水がないはずの空に,花吹雪の浪がたっているという歌だと思うんですけれど,花が本当に浪に見えているという感じとは違うと僕には思える.

あえて,水のない空に花が浪のようになったと見立てることで,言葉によって一つの別世界を作り出そうとしている気がする.

「水なき空に浪ぞたちける」と初めて見た時に,かっこいいと思ったんですけれど,これは何か美意識の幻想空間みたいなものじゃないかなというふうに思いました.)

 

この番組で取り上げられた50首の短歌の内,3首が桜を詠んだ短歌!

他の二首は,古歌ではなく,明治期,昭和期が一首ずつ.

 

山川登美子・明治時代

後世は猶 今生だにも 願はざる わがふところに さくら来てちる 

 

馬場あき子・昭和戦後

夜半さめて 見れば夜半さえ しらじらと 桜散りおり とどまらざらん

 

 

桜は,短歌に最も多く詠まれた花といえるのではないでしょうか?

 

万葉集では,ハギ(140首余り),ウメ(120種近い)と比較するとそれほど多いとはいえません.それでも40首は詠まれています.(ニッポニカ https://kotobank.jp/word/サクラ-1538660

 

今日の為と思ひて標(し)めしあしひきの峰(お)の上(え)の桜かく咲きにけり  大伴家持 万葉集 巻一九・四一五一

(楽しい万葉集  今日のこの日のためにと思って,しるしをつけておいた,峰の桜がこんなにも咲きました.)

 

同じ大伴家持は,庭の桜も歌にしていることから,当時から鑑賞用として桜が植えられていたことがわかります.

 

我が背子(せこ)が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来ね 大友家持 巻18,4077

(折口信夫 万葉集  あなたの以前の屋敷内の桜が,まだ莟んで(つぼんで)います.せめて一目,見にいらっしゃい.)

 

 

古今集になると

”サクラの用例は,「桜」「桜花」「山桜」「花桜」「かには(樺)桜」(物名(もののな))を含めて43首,題からサクラと知られる「花」10首もあり,「桜色」も1首加わり,ウメの「梅」「梅の花24首,題からウメと知られる「花」5首よりかなり多い.”(ニッポニカ)
とのこと
 
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし  在原業平
 
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける  素性法師
 
久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ  紀友則
 
 

その後の勅撰集,さらには,明治・昭和の歌人によっても,桜は多くの歌の歌題となっています

 

 

桜を詠んだ短歌2

(古今短歌歳時記より)

 

かぐわしき桜の花の空に散る春の夕べは暮れずもあらなむ  良寛 布留散束

 

八またのちまたの桜花咲きて都の空は夕曇りせり  正岡子規 竹の里歌

 

交番の上にさしおほふ桜咲けり子供らは遊ぶおまはりさんと  佐佐木信綱 椎の木

 

ブルガリアのソフィアに桜が咲くといふその桜ばな一日(ひとひ)おもへり  斎藤茂吉 霜

 

咲きのかぎり咲きたるさくらおのづからとどまりかねてゆらげるごとし  三ヶ島葭子 三ヶ島葭子全歌集

 

桜の花ちりぢりにしも/わかれ行く 遠きひとりと 君もなりなむ  釈迢空 春のことぶれ

 

わが宿の夕光(ゆうかげ)桜散るを惜(をし)み麦酒飲みぬ暮れはつるまで  吉野秀雄 苔径集

 

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在処(ありか)おもほゆ  葛原妙子 薔薇窓

 

よきものは一つにて足る高々と老木の桜咲き照れる庭  窪田章一郎 素心臘梅  

 

ひといろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に  近藤芳美 埃ふく街

 

 

 

 

 

唱歌「さくらさくら」/桜を詠んだ短歌1  四月は別名卯月ですが,これは陰暦四月の別名.私の頭の中では,「桜が咲くのは弥生」と唱歌「さくらさくら」によってすり込まれています.この唱歌が「さくらさくら」が教育現場に登場するのは1941年.歌詞は音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年)編纂時につけられたもの.「歌詞のテーマを桜にしぼったことも,誰もが知る歌となった要因かもしれない」 ただ一度生れ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき  島田修二 

四月に入りました.

今日の片瀬東浜は,曇り空でしたが,吹く風は温かく,浜の人々も春の雰囲気を楽しんでいるように見えました.



昨日訪れた鎌倉では,遅れていた関東地方の桜も開花し,「春,たけなわ」といっていいでしょう.

 

四月は別名卯月ですが,これは陰暦四月の別名.

今日四月一日は,旧暦では二月二三日とのことですから,まだ陰暦三月=弥生にもなっていませんが----

私の頭の中では,「桜が咲くのは弥生」と唱歌「さくらさくら」によってすり込まれています.

 

https://www.worldfolksong.com/songbook/japan/sakura.htm

さくら さくら

やよいの空は 見わたす限り

かすみか雲か 匂いぞ出ずる

いざやいざや 見にゆかん

 

 

この唱歌は日本を代表する楽曲となっていて,外国人に「日本」をイメージさせる時,また,特に外国人が日本に親しみを表明する時にはほぼ必ず演奏されるように思います.(一時期は「SUKIYAKI」だったかもしれませんが)

 

なにせ,かのプッチーニ蝶々夫人に中に取り入れているのですから.


www.youtube.com

 

「作者不詳の日本古謡」とされていますが,その歴史に関しては,音楽之友社のウェブ読み物ONTOMOが興味深い記事(宮城道雄記念館資料室長千葉優子氏への聞き取り)を掲載しています.

https://ontomo-mag.com/article/column/sakurasakura/

是非お読みになることをお薦めします.

大まかにまとめると:

 

・音楽教科書の定番と思われがちだが,「さくらさくら」が教育現場に登場するのは、1941年(昭和16)に文部省が出版した『うたのほん 下』が最初.

 

・楽曲として最初に掲載されたのは,音楽取調掛撰『箏曲集』(1888年).題名は「桜」.この箏曲集に「旧 咲た桜」とあることから,江戸時代以来の箏の手ほどき曲と考えられる.

ただし曲についての江戸時代の資料はない.

(音楽取調掛:世界に通用する新しい日本の音楽の創造と音楽教育の調査研究を目的として、1879年に文部省内に設立された機関)

 

・“やよいの空は”とする現在の歌詞(1941年「うたのほん下」では“野山も里も”とする別バージョン)は音楽取調掛撰『箏曲集』編纂時につけられた.したがって「日本古謡」という言い方はややそぐわない.

江戸時代の「咲た桜」の歌詞は桜に限ったものではなく,植物の名所を連ねたものだった.

「咲た桜」歌詞(年代不詳): 咲いた桜 花見て戻る 吉野は桜 竜田は紅葉 唐崎の松 常盤常盤 深緑

 この箏曲集編纂時に,歌詞のテーマを桜にしぼったことも,誰もが知る歌となった要因かもしれない.なぜなら,日本人はとにかく桜が好きだから.

 


www.youtube.com

 

桜を詠んだ短歌1 

(古今短歌歳時記より

島田修二の歌以外は以前取り上げたものです: https://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2022/04/02/234220

 

今日の為と思ひて標(し)めしあしひきの峰(お)の上(え)の桜かく咲きにけり  大伴家持 万葉集 巻一九・四一五一

 

さくら花ちりぬる風のなごりには水なきそらに波ぞ立ちける  紀貫之 古今集 春下・八九

 

春深み嵐の山の桜ばな咲くと見し間に散りにけるかな  源実朝 金槐集 春・八二  

 

さくほどの光りとなりてうすうすと霞あひたるこずゑの桜  太田水穂 冬菜  

 

ひとひろに青みを帯びて咲く桜夕べとなりて見通す街に  近藤芳美 埃吹く街  

 

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり  馬場あき子 桜花伝承  

 

桜花ちれちるちりてゆく下の笑いが濡れているゆうまぐれ  佐佐木幸綱 群黎

 

ただ一度生れ来しなり「さくらさくら」歌ふベラフォンテも我も悲しき  島田修二 花火の星

 

https://www.youtube.com/watch?v=vxiaghdUxl4

 

https://ameblo.jp/sakuramitih31/entry-12665237069.html

鎌倉では山桜,染井吉野,そして枝垂れ桜が一斉に花開きました.安国論寺-妙法寺地区と本覚寺界隈をぶらぶら歩きました.サクラ以外に出会った春の花は,タンポポ,カタバミ,ヘビイチゴ,ムラサキハナナ,フリージア,リキュウバイ等17種類.染井吉野は額田病院脇,山桜は安国論寺で.そして枝垂れ桜は安国論寺と本覚寺.やはり本覚寺の枝垂れ桜が鎌倉では一番でしょうか.

今日は,東京では夏日.3月では観測史上最高気温を更新したとか.おそらく藤沢・鎌倉も---

午後.春の草花,特に桜を求めて,鎌倉へ.八幡宮は避け,安国論寺-妙法寺地区と本覚寺界隈をぶらぶら歩きました.

 

桜の前に:

今日であった様々な春の花の画像を集めてみました.

 

タンポポカタバミ(オオキバナカタバミ?),ムラサキハナナ,ヘビイチゴ

ペラルゴニウム,トキワマンサクヒイラギナンテン

フリージア,ムラサキアイリス?

アセビ

サツキ,ムラサキツツジ(カラムラサキツツジ?)

セイヨウシャクナゲ

カエデ.

サンシュユ,ヒュウガミズキ.

リキュウバイ.

 

 

今日初めに出会ったサクラは,個人のお宅の塀越しに咲いていたヤマザクラ

目的地の一つは,額田病院脇の桜並木でした.

十分楽しめるだけのソメイヨシノが花開いていました.

 

そして,安国論寺の枝垂れ桜.

山門脇.

そして更に立派な木が境内に.

境内にならぶ2本の枝垂れ桜の隣には山桜も.

 

最後に,本覚寺境内の枝垂れ桜.

鎌倉でおそらく一番立派な枝垂れ桜です.安国論寺の枝垂れ桜より植えられている場所が広々としていて多くの人の目を惹きつけてやみません.