今日はよく晴れ,気候も申し分のない一日でした.
夕方,片瀬東浜海岸へ.
もう5時も回っていたのに,浜では膝まで海に入る人を含めて,まだ数多くの人が,春の海を楽しんでいました.
「写真撮って良いですか?」とお父さんに聞くと心よく「どうぞ」といってくれた親子連れの方.
夢中で穴を掘る子供たちのかわいらしかったこと.
今日は,多くの方が穴を掘ったり砂を積んだりしたくなる日だったようで---
この親子連れの方に続く浜辺には,穴や砂山が沢山ありました.
しばらく歩いて,
弁天橋の入口から丹沢富士を眺める角度でアイフォンを向けると,正面の太陽でよく分かりませんが,うっすら富士山も影も.
太陽が沈んでからもう一度撮ってみる事に.
----しかし,つい先ほどは見えなかった雲がじゃまをして,富士山はほとんど見えず.
大写しにすると,霞んだ丹沢の山々の向こうに,さらに霞んだ富士の裾野がうっすらと見えました.
典型的な春霞の風景と言っていいのでしょうか?
昨日の夕方は,夕焼けの富士山全体を見ることができたのですが---
秋冬のくっきり見えた富士と比べれば,霞のかかった富士ですね.
以前,「霞」とは,雲・霧に似た物の名称かと思っていました.「霞たなびく」「霞立つ」などといわれれば,そう思い込むのが,むしろ当たり前のようにも思われます.
しかし
「空や遠景がぼんやりする現象」を霞と呼ぶ(精選版日本国語大辞典)
のであって,「物の名前」ではない.「現象をさしていう言葉」なんですね.
霧や靄(もや)は,実体があって気象用語にも用いられるのに対して,霞は気象用語にはありません.
かすみ【霞】
精選版日本国語大辞典
一(動詞「かすむ(霞)」の連用形の名詞化)
①空気中に広がった微細な水滴やちりが原因で,空や遠景がぼんやりする現象.また,霧や煙がある高さにただよって,薄い帯のように見える現象.
比喩的に,心の悩み,わだかまりなどをいうこともある.《季・春》
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⑤(「翳」とも書く) 視力が衰えてはっきり見えないこと.
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⑦大和絵で時間的経過,場面の転換,空間の奥行きなどを示すために描かれる雲形の色面.多くは絵巻物に用いられた.
語誌
古く「かすみ」と「きり」が同様の現象を表わし,季節にも関係なく用いられたことは,「万葉−八八」の「秋の田の穂の上へに霧相きらふ朝霞」などの例で知られるが,
「万葉集」でも,「かすみ」は春,「きり」は秋のものとする傾向が見えており,「古今集」以後は,はっきり使い分けるようになった.
現在の気象学では,視程が一キロ以上のときは「靄もや」,一キロ未満のときは「霧」とし,「かすみ」は術語としては用いない.
https://www.google.com/search?霞とは
霞を詠んだ短歌1
(古今短歌歳時記,万葉秀歌より)
古今短歌歳時記に「古歌集で霞を詠んだ歌はおびただしい数にのぼり」とあります.
例えば,楽しい万葉集の「霞」の項には78首が掲載されています.古今集では,霞が9首,春霞が21首とのこと.さらに”類題歌集”である古今六帖には30首,未木集には98首掲載されているそうです(古今短歌歳時記).
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方(かた)にわが恋ひ止まむ 磐姫皇后 万葉集巻二 八八
ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも 柿本人麿歌集 万葉集 巻十 一八一二
秋の田の穂のへに霧らふ朝霞いづへの方に我が恋やまむ 磐姫皇后 万葉集巻二 八八
仁徳天皇の磐姫皇后が,天皇を慕うて作りませる歌というのが,万葉巻第二の巻頭に四首載っている.此歌はその四番目である.四首はどういう時の御作か,仁徳天皇の後妃八田皇女との三角関係が伝えられているから,感情の強く豊かな御方であらせられたのであろう.
一首は,秋の田の稲穂の上にかかっている朝霧がいずこともなく消え去るごとく(以上序詞)私の切ない恋がどちらの方に消え去ることが出来るでしょう,それが叶わずに苦しんでおるのでございます,というのであろう.
「霧らふ朝霞」は,朝かかっている秋霧のことだが,当時は,霞といっている.キラフ・アサガスミという語はやはり重厚で平凡ではない.第三句までは序詞だが,具体的に云っているので,象徴的として受取ることが出来る.「わが恋やまむ」といういいあらわしは切実なので,万葉にも,「大船のたゆたふ海に碇おろしいかにせばかもわが恋やまむ」(巻十一・二七三八),「人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ」(巻十二・二九五八)の如き例がある.
この歌は,磐姫皇后の御歌とすると,もっと古調なるべきであるが,恋歌としては,読人不知の民謡歌に近いところがある.併し万葉編輯当時は皇后の御歌という言伝えを素直に受納れて疑わなかったのであろう.そこで自分は恋愛歌の古い一種としてこれを選んで吟誦するのである.他の三首も皆佳作で棄てがたい.
ひさかたの天の香具山このゆふべ霞たなびく春立つらしも 柿本人麿歌集 万葉集巻十 一八一二
春雑歌,人麿歌集所出である.この歌は,香具山を遠望したような趣である.少くも歌調からいえば遠望であるが,香具山は低い山だし,実際は割合に近いところ,藤原京あたりから眺めたのであったかも知れない.併し一首全体は伸々としてもっと遠い感じだから,現代の人はそういう具合にして味ってかまわぬ.それから,「この夕べ」とことわっているから,はじめて霞がかかった,はじめて霞が注意せられた趣である.春立つというのは暦の上の立春というのよりも,春が来るというように解していいだろう.
この歌は或は人麿自身の作かも知れない.人麿の作とすれば少し楽に作っているようだが,極めて自然で,佶屈でなく,人心を引入れるところがあるので,有名にもなり,後世の歌の本歌ともなった.併しこの歌は未だ実質的で写生の歌だが,万葉集で既にこの歌を模倣したらしい形跡の歌も見つかるのである.
子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山ぎしに霞たなびく 柿本人麿歌集 万葉集 巻十 一八一八
人麿歌集出.朝妻山は,大和南葛城郡葛城村大字朝妻にある山で,金剛山の手前の低い山である.「片山ぎし」は,その朝妻山の麓で,一方は平地に接しているところである.「子等が名に懸けのよろしき」までは序詞の形式だが,朝妻という山の名は,いかにも好い,なつかしい名の山だというので,この序詞は単に口調の上ばかりのものではないだろう.この歌も一気に詠んでいるようで,ゆらぎのあるのは或は人麿的だと謂っていいだろう.気持のよい,人をして苦を聯想せしめない種類のもので,やはり万葉集の歌の一特質をなしているものである.
この歌と一しょに,「巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」(巻十・一八一三)というのがある.これは,上半を序詞とした恋愛の歌だが,やはり巻向の檜原を常に見ている人の趣向で,ただ口の先の技巧ではないようである.それが,「おほ」という,一方は霞がほんのりとかかっていること,一方はおろそかに思うということの両方に掛けたので,此歌も歌調がいかにも好く棄てがたいのであるから,此処に置いて味うことにした.
春霞ながるるなべに青柳の枝くひもちて鶯鳴くも 作者不詳 万葉集 巻十 一八二一
春雑歌,作者不詳.春霞が棚引きわたるにつれて,鶯が青柳の枝をくわえながら鳴いているというので,春の霞と,萌えそめる青柳と,鶯の声とであるが,鶯が青柳をくわえるように感じて,そのままこうあらわしたものであろうが,まことに好い感じで,細かい詮議の立入る必要の無いほどな歌である.併し,少し詮議するなら,はやくも萌えそめた柳を鶯が保持している感じである.柳の萌えに親しんで所有する感じであるが,鶯だから啄んで持つといったので,「くひもつ」は鶯にかかるので,「鳴く」にかかるのではない.また,ただ鶯といわずに,青柳の枝を啄えている鶯というのだから,写象もその方が複雑で気持がよい.その鶯がうれしくて鳴くというのである.詮議すればそうだが,それを単純化してかく表わすのが万葉の歌の一つの特色でもあり,佳作の一つと謂うべきである.この歌と一しょに,「うち靡く春立ちぬらし吾が門の柳の末に鶯鳴きつ」(巻十・一八一九)があるが,平凡で取れない.また,「うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽うち触りて鶯鳴くも」(同・一八三〇)というのもあり,これも鶯の行為をこまかく云っている.鶯に親しむため,「尾羽うち触り」などというので,「枝くひもちて」というのと同じ心理に本づくのであろう.
あしひきの八峰の雉なき響(とよ)む朝けの霞見ればかなしも 大伴家持 万葉集 巻十九 四一四九
大伴家持作,暁に鳴く雉を聞く歌,という題詞がある.山が幾重にも畳まっている,その山中の暁に雉が鳴きひびく,そして暁の霧がまだ一面に立ち籠めて居る.その雉の鳴く山を一面にこめた暁の白い霧を見ると,うら悲しく身に沁むというのである.この悲哀の情調も,恋愛などと相関した肉体に切なものでなく,もっと天然に投入した情調であるのも,人麿などになかった一つの歌境と謂うべきで,家持の作中でも注意すべきものである.「八岑越え鹿待つ君が」(巻七・一二六二),「八峰には霞たなびき,谿べには椿花さき」(巻十九・四一七七)等の如く,畳まる山のことである.なお集中,「神さぶる磐根こごしきみ芳野の水分山を見ればかなしも」(巻七・一一三〇),「黄葉の過ぎにし子等と携はり遊びし磯を見れば悲しも」(巻九・一七九六),「朝鴉はやくな鳴きそ吾背子が朝けの容儀見れば悲しも」(巻十二・三〇九五)等の例があるが,家持のには家持の領域があっていい.
この歌の近くに,「朝床に聞けば遙けし射水河朝漕ぎしつつ唱ふ船人」(巻十九・四一五〇)という歌がある.この歌はあっさりとしているようで唯のあっさりでは無い.そして軽浮の気の無いのは独り沈吟の結果に相違ない.
春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐひす鳴くも 大伴家持 万葉集巻十九 四二九〇
天平勝宝五年二月二十三日,大伴家持が興に依って作歌二首の第一である.一首は,もう春の野には霞がたなびいて,何となくうら悲しく感ぜられる.その夕がたの日のほのかな光に鶯が鳴いている,というので,日の入った後の残光と,春野に「おぼほし」というほどにかかっている靄とに観入して,「うら悲し」と詠歎したのであるが,この悲哀の情を抒べたのは既に,人麿以前の作歌には無かったもので,この深く沁む,細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった.それには支那文学や仏教の影響のあったことも確かであろうが,家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看ることが出来る.「うらがなし」を第三句に置き休止せしめたのも不思議にいい.
「朝顔は朝露おひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ」(巻十・二一〇四),「夕影に来鳴くひぐらし幾許も日毎に聞けど飽かぬ声かも」(同・二一五七)などの例がある.なお,「醜霍公鳥,暁のうらがなしきに」(巻八・一五〇七)は同じく家持の作だから同じ傾向のものと看るべく,「春の日のうらがなしきにおくれゐて君に恋ひつつ顕しけめやも」(巻十五・三七五二)は狭野茅上娘子の歌だから,やはり同じ傾向の範囲と看ることが出来,「うらがなし春の過ぐれば,霍公鳥いや敷き鳴きぬ」(巻十九・四一七七)もまた家持の作である.
雲雀あがる春べとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく 大伴家持 万葉集巻二十 四四三四
これは家持作だが,天平勝宝七歳三月三日,防人を----集える飲宴で,兵部少輔大伴家持の作ったものである.一首は,雲雀が天にのぼるような,春が明瞭に来たのだから,都も見えぬまでに霞も棚びいている,というので,調がのびのびとして,苦渋が無く,清朗とでもいうべき歌である.「さやに」は清に,明かに,明瞭に,はっきりと,などの意で,この句はやはり一首にあっては大切な句である.なぜ家持はこういう歌を作ったかというに,その時来た勅使(安倍沙美麿)が,「朝なさな揚る雲雀になりてしか都に行きてはや帰り来む」(巻二十・四四三三)という歌を作ったので其に和したものである.勅使の歌が形式的申訣的なので家持の歌も幾分そういうところがある.併し勅使の歌がまずいので,家持の歌が目立つのである.なお此時家持は,「含めりし花の初めに来しわれや散りなむ後に都へ行かむ」(同・四四三五)という歌をも作っているが,下の句はなかなか旨い.