妙本寺まで,今日は宵闇散歩.除夜の鐘の告知が惣門に.参拝者に鐘をつかせてくれるようです.除夜の鐘が全国的なものになったのは,それほど古いことではないようです. その前は,朝晩に撞く「百八の鐘」という習慣があったとのことで,全国的になったのは,NHKの「除夜の鐘」というラジオ番組のおかげという記事がありました.かなり信憑性が高そうです. 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 千万年も、古びた夜よるの空気を顫(ふる)わし、 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。---中原中也(1938)  

晦日の今日もまた,夕方散歩は妙本寺まで.かなり時間が遅くなってしまったので,宵闇散歩です.

惣門に立てかけてあるのは,除夜の鐘の告知.妙本寺は,参拝者に鐘をつかせてくれるようです.ずいぶん前になりますが,他のお寺で撞いたことを懐かしく思い出しました.

 

現在でこそ大晦日の恒例行事になっている除夜の鐘.

この風習が全国的なものになったのは,それほど古いことではないようです.

その前は,朝晩に撞く「百八の鐘」という習慣があったとのこと.これも全国どのお寺でも行われていた習慣かどうかは不明ですが.

 

精選版 日本国語大辞典「百八の鐘」の解説

ひゃくはち【百八】 の 鐘(かね)

① 寺院で朝夕、一〇八回鐘をつくこと。百八煩悩をさます意とも、一年の、一二か月・二十四気・七十二候を合わせた数ともいう。実際は略して、一八回鐘をつくという。百八。

俳諧・新続犬筑波集(1660)三「月にぼんなうつくる山住 百八のかねののぞみはながき夜に〈ていとく〉」

② 特に、後世、寺院で除夜に一〇八回鐘をつくこと。除夜の鐘。百八。《季・冬》

俳諧・猿蓑(1691)四「百八のかねて迷ひや闇のむめ〈其角〉」

 

上記日本国語大辞典の記載では,1660年ていとくの句は朝夕の鐘,1691年の其角の句は,「除夜の鐘」の例として引用しています.

其角の句の頃には「除夜の鐘」を撞いているお寺があったのは確かなようですが,全国的なものかどうかは不明ですね.

 

PRESIDENT Onlineの島田裕巳氏の記事によれば,

https://president.jp/articles/-/30959?page=2

「この(108の鐘を撞く)習慣そのものは中国から伝わってきたが、鎌倉時代のころまでは、禅寺で毎日鳴らされていたという。それがやがて大晦日から元旦にかけて欠かせない行事となった」(産経新聞取材班 角川oneテーマ21

そして,「やがて大晦日から元旦にかけての欠かせない行事となった」のは,1927年に始まったNHKのラジオ番組「除夜の鐘」が全国放送されたためとしています.

かなり説得力のある記事で,おそらく正しいのでは?

この島田氏の記事には,「除夜の鐘が俳句の季語として定着するのは昭和の時代に入ってからである。1933年に刊行された山本三生編『俳諧歳時記』と翌年の高浜虚子編『新歳時記』から」ともあります.

 

中原中也の「除夜の鐘」も1938年刊「在りし日の歌」に掲載されました.

http://zenshi.chu.jp/mobile/?p=710

除夜の鐘

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千万年も、古びた夜よるの空気を顫(ふる)わし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

それは寺院の森の霧(きら)った空……

そのあたりで鳴って、そしてそこから響いて来る。

それは寺院の森の霧った空……

 

その時子供は父母の膝下(ひざもと)で蕎麦(そば)を食うべ、

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出、

その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

 

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

その時囚人は、どんな心持(こころもち)だろう、どんな心持だろう、

その時銀座はいっぱいの人出、浅草もいっぱいの人出。

 

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

千万年も、古びた夜の空気を顫はし、

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

 

「除夜の鐘」を詠んだ短歌として,古今短歌歳時記(鳥居正博 教育社)に収録されているものは,全て1933年以降の歌です.

 

除夜の鐘ききける我は九十をば一つ越えたる翁となりける  窪田空穂 清明の節

 

 

ひとまづは諸事終わりぬと除夜の鐘つくならはしのあはれなりけり  筏井嘉一 籬雨荘雑歌

 

 

除夜の鐘われにも人にも渡りつつ広き行方のいづくにか無し  初井しづ枝 冬至

 

 

病み床にひとりし聞けば除夜の鐘わが悲しみをゆりつつぞ鳴る  大悟法静子 大悟法静子集―短歌日記

 

 

年の夜の鐘殷々(いんいん)と霜空にきこえをり楽しさ果てぬ  宮柊二 多く夜の歌

 

 

 

今日もまた,クロネコさんのお出迎えがありました.