小学校にシイの木がありました.拾って煎ってよく食べたものです.香ばしくて美味しかった思い出.「シイの実は食べられる,ドングリは食べられない」というのが当時の認識でした.
今,図鑑で調べると----.シイ属には二種類ある,とのこと.知りませんでした.
そして,いずれもドングリの仲間とされています.この書き方はシックリしません シイがドングリなんて---.私だけ?今でも多くの方々がドングリとシイの実は区別してるのでは?などと言いがかりをつけたくなったりしますが---
いろいろ調べると,私の知識のなさをまたしても思い知らされます.
シイの実の種類
私が食べていたのはスダジイです.マテバシイは多分拾ったことがある.大きな実として大事にしていたけれど,そのまま食べられるなんて知りませんでした.
なお,他のドングリだって,あく抜きすれば十分食べられるんですね.ドングリ&あく抜き,で検索してみて下さい.その中には学術論文まであります!
論文題目は:ドングリのアク抜き方法に関する一考察(縄文時代のドングリ食復元への試み1)(http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/01masuda-kurotubo.pdf)
そして,兵庫県六甲山系ではシイの木は「原生林のなごり」とのこと.神社の大木として残されてきたようです.これは全国共通?シイの木は尊ばれていた?
「シイの大木が残る林は、原生のなごりです。人の活動が活発になるにともない、山を切り開いていく過程で、畏敬の念を込め社寺を建立し、本来の自然を社叢林として残しました。そのため、六甲山の樹木の過度の利用により林がなくなり、はげ山となったときでもその林は残されていました。シイの大木が残る林は、六甲山の原風景として、また、過去の植生を知るうえでの学術価値の高い場所でもあります。」
山田卓三先生の「万葉植物つれづれ(大悠社)」によると「シイの木が大木になるまでは普通数十年かかる」「スダジイはツブラジイの変種で,共に実の成熟には二年かかります」とのこと.
スダジイの木はツブラジイと区別できないのは「変種」であるせいなんですね.二年越しで成熟した実を食べていた!また食べたくなりました.
椎/万葉集1
いへに あれば,けにもる いひを,くさまくら,たびにしあれば,しひの はに もる
家(いへ)にあれば,笥(け)に盛(も)る飯(いひ)を,草枕 旅にしあれば,椎(しひ)の葉に盛る 有間皇子(第二巻-142)
家にあれば,笥に盛る飯を,草枕,旅にしあれば,椎の葉に盛る
◎家にいる時には,容れ物に盛って食べるのを常としているが,今は旅であるから,椎の葉に飯を盛って食べることである. (折口信夫 口語万葉集)
◎有間皇子の第二の歌である.
[第一の歌:いはしろの,はままつがえを,ひきむすび,まさきくあらば,またかへりみむ 磐白の,浜松が枝を,引き結び,ま幸くあらば,また 帰り見む(巻2-141) ]
「笥(け)」というのは和名鈔(しょう 写し)に盛食器也とあって飯笥(いいけ)のことである.そしてその頃高貴の方の食器は銀器であったろうと考証している(山田博士).
一首は
家(御殿)におれば,笥(銀器)に盛る飯をば,こうして旅に来ると椎の葉に盛る.
というのである.笥(け)をば銀の飯笥(いいけ)とすると,椎の小枝とは非常な差別である.
前の御歌は「真幸(まさき)くあらば またかへりみむ」と強い感慨を漏らされたが,痛切複雑なご心境を,かく単純にあらわされたのに驚いたのであるが,此の歌になると殆ど感慨的な語がないのみではなく,詠嘆的な助詞も助動詞も無いのである.併し(しかし)底を流るる哀韻を見のがし得ないのはどうしてか.吾等の常識では「草枕旅にしあれば」などと,普通覉旅(きりょ 旅;和歌俳句の部立てで旅情を示す語として用いる)の不自由を歌っているような内容でありながら,そういうものと違って感ぜねばならぬものを此歌は持っているのはどうしてか.これは史実を顧慮するからというのみではなく,史実を念頭から去っても同じことである.これは皇子が,生死の問題に直面しつつ経験せられた現実を直ちにあらわしているのが,やがて普通の覉旅(きりょ 旅;和歌俳句の部立てで旅情を示す語として用いる)とは違ったこととなったのである.写生の妙諦(みょうてい すぐれた心理)はそこにあるので,この結論は大体間違いの無いつもりである.然るに有間皇子は御年僅か十九歳にして,斯かる客観的荘厳を成就せられた.
皇子の以上の二首,特にはじめの方(*)は時の人々を感動せしめたと見え,「磐代の,岸の松が枝,結びけむ,人は帰りて,また見けむかも(巻2-143)」,「磐代の,野中に立てる,結び松,心も解けず,いにしへ思ほゆ 長意吉麻呂(巻2-144)」 「鳥翔成(つばさなるor あまがけり),あり通ひつつ,見らめども,人こそ知らね,松は知るらむ 山上憶良(巻2-145)」「後見むと,君が結べる,磐代の,小松がうれを,またも見むかも 人麿歌集(巻2-146)」等がある.併し(しかし)歌は皆皇子の御歌には及ばないのは,心が間接になるからだろう.また,穂積朝臣老(ほづみのあそみおゆ)が近江行幸(養老元年か)に供奉(ぐぶ お供の行列に加わること))したときの「我が命の,ま幸く(まさきく)あらば,またも見む,志賀の大津に,寄する白波」もあるが,皇子の歌ほど切実にひびかない.後略
(斎藤茂吉 万葉秀歌)
椎/万葉集2
おそはやも,なをこそまため,むかつをの,しひのこやでの,あひはたがはじ
遅速(おそはや)も、汝(な)をこそ待(ま)ため、向(むか)つ峰(を)の、椎(しひ)の小枝(こやで)の、逢(あ)ひは違(たが)はじ 作者不詳 (巻14-3493)
遅速も、汝をこそ待ため、向つ峰の、椎の小枝の、逢ひは違はじ
◎譬ひ早かろうが遅かろうが,何時までもお前を待って居よう.向かひの山に生えて居る椎の小枝ではないが,逢ふと約束した時を,間違へはすまいよ.(折口信夫 口語万葉集)
◎遅くても速くても、あなただけを待ちましょう。向こうの峰の椎(しひ)の小枝(こえだ)が茂って葉が重なり合っているように、あなたにはきっと逢えるのですから。(楽しい万葉集)たのしい万葉集(3493): 遅速も汝をこそ待ため向つ峰の