アナザーストーリーズ NHKBSプレミアム11月9日(水) 午後9時00分
「1980's CM黄金時代 3人の天才がいた」再録(2)
ナビゲーター沢尻エリカ
「1980年代 様々なキャッチコピーがあふれCMは黄金時代を迎えます」
「亭主元気で留守がいい」アホなことを考える筆頭が堀井博次! - yachikusakusaki's blog
-----
「目線を下げた視線で共感を呼ぶ.そしてそれは東京のクリエーターたちをも刺激し1980年代のCMブームを更に大きくしていった.その渦の中心にいたのがこの天才だった」
「大阪の堀井さんたちに刺激を受け,燃えたその人が一世を風靡したのは,世界中の人があこがれる洗浄式便座のCMでした.キャッチコピーは『おしりだって洗って欲し』.それを書いた人が第二の視点」
視点2 叩き上げのコピーライター(仲畑貴志)
「CM界の巨人と言われるその人は,百科事典のような本(「広畑広告大仕事」講談社1993)にまとめられるほど,多くの傑作を生み出してきました.彼はこの子犬が登場するCMに自らの思いを託していました.そのCMで世界の頂点にたった男のアナザストーリー.この男けんか上等です」
-----
音声「いろんなイノチが 生きているんだなあ」
字幕「トリスの味は人間の味」「トリス」
音声「元気で とりあえず元気で みんな元気で」
そのメッセージは世界にも伝わった.「1981年カンヌ国際広告映画祭金賞を受賞」 納得と共感を軸に据えた中畑の広告は,以後CMのもう一つの大きな潮流となる.
仲畑「今は,インターネットが出てきたりいろいろ言っているけど,人間って同じところで泣いてるんじゃないか,同じところで笑っているよ.そこは変わらない.受け手の方の気持ち,気分,情緒.そういうものに寄り添って表現していくって言うことかな」
80年代CM黄金期、3人の天才は何を見通したか (2ページ目):日経ビジネスオンライン
しかしあのCMブームにはもう一人立役者が必要だった.その男のコピーはこれ.
「おいしい生活」.不思議なその言葉は,仲畑をいらだたせた.
「『おいしい生活』って全然いいと思わないけどね,おれ.いつでも言ってんの.どこでも.糸井の前でも言ってるし」「本当にそう思ってるの」「ああいう表現は,広告と違うね」
日本のコピーベスト500.星の数ほどあるコピーの中で,第一位に選ばれたのは,これでした.「おいしい 生活」
おいしいと生活の組み合わせは,当時,日本人にとって新鮮でちょっとへんてこなものでしたが,そのコピーを生み出した男が「第3の視点 『おいしい生活』を生み出した男」 この男,いろんなことをしてますけど,いったい何者なんでしょう.
そのコピーを書いた男の名は,糸井重里.
まずはそのCMを見てみよう.
たたみいわし ひざまくら うーん ごちそうさま,
なんと,「おいしい生活」 西武
デパートのロゴが入らなければ,一見何のコマーシャルかわからない,謎めいたCM.だが広告効果があったのか,そのデパートは初めて東京で一番と認められた.
そんな糸井はスタジオジブリの映画にもキャッチコピーを書き続けている.
''トンネルのむこうは,不思議の町でした''
鈴木敏夫「絶対結びつかないだろう二つの言葉を一緒にしちゃうことによって生む,衝撃って言うのか,それですよね,基本的には.例えば千と千尋なんかでもね,『トンネルの向こうは,不思議の町でした』っていうときにね,『不思議な』っていうのが普通でしょ.それを立ち止まらせるんですよね,『不思議の』って.やっぱり一種天才だと思ったですね」
視点3 未来を見通した男(糸井重里)
80年代CM黄金期、3人の天才は何を見通したか (3ページ目):日経ビジネスオンライン
80年代に天才の名をほしいままにした男は,今も様々な顔を持ち,人を引きつけて止まない.
糸井「人来てますか?もう」「あっ,結構すごい人みたい」「えっ」
糸井重里,67歳.今読者数,1日150万人を誇るウェブサイトを主催している.
「来年のカレンダーこちらですよ」この日は動物愛護のためのまじめなイベントを開催した.集まった聴衆は2000人.壇上にはこんな顔ぶれば駆けつけた.小泉今日子.浅田美代子.
80年代糸井の才能は異彩を放っていた.
「くうねるあそぶ(セフィーロ)」
「狩人か旅人か(PARCO)」「インテリげんちゃんの夏やすみ.想像力と数百円(新潮文庫の100冊)」
当時糸井が手がけたコピーを見てみると,ものを売ると言うよりは,一見意味不明な言葉のつながりに見える.
しかしそのコピーには凄まじい値がついた.
「よく人に皮肉言われます.一文字いくらですかって.一文字150万円です」
そもそもこの男,どこからやって来たのか.糸井には仲畑に負けず劣らずユニークな経歴がある.群馬県前橋市出身.70年安保闘争の時,大学生だった糸井は,最前列でゲバ棒を振り回し,5回も逮捕されたあげく,法政大を中退している.その後転がり込んだ原宿のちいさな広告会社で,コピー作りをはじめとする,様々な仕事を手がけるようになる.
矢沢永吉をスーパースターに押し上げた(100万部以上を売り上げた矢沢永吉激論集)「成りあがり」.実は作ったのは糸井.そして程なく糸井は言葉を操るものとして,覚醒の時を迎える.
1980年1月1日に発売された沢田研二の大ヒット曲「TOKIO」.その作詞を担当したのが,糸井だった.
それは,今振り返れば,極東の島国の首都に過ぎなかった東京を,世界のスーパーシティーに一変させるコピーだったのかも知れない.
「空を飛ぶ 街が飛ぶ 雲を突抜け 星になる 火を噴いて 闇を裂き スーパーシティーが 舞い上がる TOKIO」
「TOKIOっていうのは,ちょっと自分に思いがあって,地方都市から見た東京というのは,歌でも語られてたっていうんだけれど,やっぱり,もしかしたら東京ってちゃんと誇りを持って前に出したら,すごくなるんじゃないのみたいな,だからTOKIOっていうのはすごく受け入れてもらって良かったですよね」
そんな糸井に1979年,ある企業からCM依頼の声がかかる.それが当時池袋を拠点にし,渋谷に進出して大きな改革を進めていた,あの百貨店(西武百貨店).経営者はそれまでの日本にはいなかった異端児だった.
「会社の業績を良くするにはね,ちょっとこれはどうかなと思うようなことをやったほうが,業績良くなるんですよ」
堤清二.一大流通グループ総帥(西部流通グループ会長)であるとともに,辻井喬の名で詩や小説を書く芸術家肌の男だった.そんな彼の渾身の願いは「駅前ラーメンデパートなどと呼ばれていた会社を一流にしたい」
駅に隣接する堤の百貨店は,かって駅前のラーメンのようだと揶揄されるほど,二流のイメージが定着していた.だが,堤の願いは果てしない.店を一流にし,世界のどこにも無いデパートにしたい,抜擢した糸井に求めたのは,その象徴となるコピーだった.初顔合わせの日,ラフな格好の31 才の糸井に,堤は驚くべき対応を見せた.
「ざーっと,思えば,重役陣が並んでいて,重役陣と話をしなくて,宣伝部長も重役陣も端っこにいて,堤さんが『どんなのですかー』ってもみ手のようにして見てくれるわけですよね.やはり,堤さんになめられないような提案をしようっていうのが,どっかからちょっとした楽しみだったり,目的だったりするようになって」
その様子を間近で見ていた堤の部下がいる.「若くて新しい才能のあるクリエーターを育てる,若い人じゃなきゃ,多分自分の考えをね,表現することが出来ないんじゃないかっていうふうに思ってたと思うんですね」
堤はまだ見ぬデパートのあり方を目指し,毎年一行のコピーを糸井に求める.
第一弾は「じぶん,新発見.」
翌81年ピラミッドを背景に「不思議,大好き.」
文字通り不思議なコピー.もはやモノはあふれている.その中で,次の時代の豊かさを,どう提案するのか.当時の流行は,外国製の高級品.老いも若きもブランド品を追い求めた.しかし,堤と糸井はその先を見つめていた.
それは海外ロケの帰り.へとへとになって乗り込んだ飛行機の中で見つけた喜びから生まれた.
「機内食って,そんなおいしいもんじゃないと思ったのに,おいしいんですよ.おいしいなぁって思った時に『望んでたのはこれだ』って.『人は,いいとか悪いとかいろんな価値観,大きいとか小さいとかあるけど,高いだの安いだの全部乗り越えて,おいしいって思うものに囲まれるのが,いっちばんうれしいんだ』と思って,こういう生活がしたいんだと思って,「おいしい生活」ってナプキンに書いた」
おいしいという言葉のそれまでに無い使い方に,まわりはとまどうしかなかった.糸井を堤に引き合わせた,アートディレクターの浅羽(克己)も,その一人.「全くなかったんじゃないですかね.『おいしい』と『生活』をかけてねー.ひとつの言葉にしちゃうってねー.子どもも笑ってましたよ,ウチの子どもが.『おいしい生活』だってケラケラ笑ってましたけどね」
だが作家でもある堤は,にっこり笑って一言「いいですね」
すぐにテレビコマーシャル作りを命じた.問題は出演者を誰にするか.糸井は普通なら出てこない人物を口にした.ウッディ・アレン.ハリウッドに背を向けて,ニューヨークでおしゃれな映画を撮り続けるちょっと変わった存在だった.おまけに気むずかしいことでも知られていた.そして1981年,糸井たちはどう口説いたのか,知られざるエピソードがある.
当時アメリカでは,文化人がコマーシャルに出演すること自体,恥ずかしいことだと考えられていた.しかし,ウッディ・アレンというアイデアを気に入っていた堤は,一人の男をスタッフに引き入れていた.現在大学で国際ビジネスを教える御影雅良,当時32歳.CMの世界とは,縁もゆかりもない男だった.アメリカ留学中にウッディ・アレンのエッセイを知り,日本に紹介したことがある.それだけの理由で,どこの誰ともわからない若造を堤は部屋に呼んだ.「堤さんの社長室で,『御影さん,どれくらいチャンスあります?ウッディ・アレンにウチのコマーシャルに出てもらうの,どうですか』って言うから,ぼくは『フィフティーフィフティーですよ』って言ったんですよ.そしたら間髪入れず,お願いしますって言うんですよ.直ぐ交渉始めてください.費用全部出します.って言ってくれて,ぼくはびっくりしました」
ニューヨークで行われた代理人との交渉では,答えは「ノー」.しかし御影が再びアレンの事務所を訪れるとなんとそこには偶然本人が.趣旨を懸命に説明した.「よくあるアメリカのね.プッシュ(売らんかなの)ね.そういうコマーシャルは一切我々は考えてないんです.むしろ静かにメッセージを伝えられたらな,というような口説き方をしました.そしたら彼らは『ふぅん』とか」御影は更に語りかけた.すると「ぼつぼつ話しているウチに,えーと,思い出した,『日本へ行かなくていいよね』って言い出した.ニューヨークから出たくないんだけど,ニューヨークで撮影してくれる?って言い出した」ウッディ・アレンは出演を承諾.撮影はニューヨークのスタジオで,終始にこやかに行われた.これが完成したCM.日本のテレビコマーシャルにアレンが出演したことは,大きな事件として現地の新聞に取りあげられた.
ニューヨークタイムズ1981.12.19「ウッディ・アレンはこれを公共広告と捉え,『おいしい生活』というメッセージをとても気に入った」
次の時代の豊かさを世の中に発信する,CMにそんな潮流が花開いた瞬間だった.
「俺,一生これ以上良いコピー書けないんじゃないかって思ったもん.俺,もういいやって言うぐらい満足だった」
しかしそのコピーは時代の先を行きすぎていたのか,当時の広告業界で殆ど評価されなかった.日本のナンバーワンコピーに選ばれたのは,それから30年以上たった2011年のことだった.