''考えてみるといいのだろう「自分の友人を,同僚を,両親を.恋人を,夫や妻を『土人』と呼ぶかどうか」について'' 中島京子, ''(私自身)自分より重い障害の人を見れば「私はあの人より軽くて良かった」と思い----なんとあさましいことでしょう.'' 横塚晃一

差別とは何か=作家・中島京子

差別とは何か 

「私たち」の視点が必要 作家・中島京子 

 時代の風  毎日新聞2016年11月20日 東京朝刊

ニュースサイトで読む: http://mainichi.jp/articles/20161120/ddm/002/070/052000c#csidxeb0b2378d6a7e68b564397a58188c7d  Copyright 毎日新聞

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 差別、という言葉は、今日、一般的に知られているようであまり理解されていないのかもしれない。

----中略

 鶴保氏は「判断」や「断定」が「個人的に」できないらしい。おそらく「差別」という言葉の意味がわかっていないのだろう。「いま現在差別用語とされるもの」が「過去には流布していた事例がある」ことは、鶴保氏も理解しているようだ。しかし、過去にはみんなで無邪気に使っていた言葉がなぜ現在「差別用語」とされ、使ってはいけないとされているのかは、わからないのである。

 国会答弁の場で、大臣たるもの、まさか「土人? だって昔はみんな使ってた言葉でしょ。僕に聞かないでよ。僕、わかんないんだもん。知らないよ、差別かどうかなんて。てか、サベツって何?」と聞くわけにもいかなかったのだろう。

 深くではないが、同情はする。私も知らない言葉(たとえば流行(はや)りの若者言葉など)で質問されると、作家という肩書によるプライドが邪魔して知らないとは言えず、「まあ、ちょっと判断というか、断定できませんね、もごもご」と、ごまかしたいような気になることがないとは言えない。

 一般に流布している言説で、「当人に差別しようというつもりがなくても、差別された人が傷ついたなら、それは差別である」というのがあるが、これも厳密には誤りである。

「当人に差別しているという自覚がなくても、そこに差別があればとうぜん差別された人は傷つく」と考えるのが正しい。

 差別や偏見は、誰の中にもある。そしてそれはしばしば無自覚なままにある。

 

 先日、ユーチューブでミシェル・オバマ大統領夫人の演説を目にした。米国大統領選の最中のことで、しばしば差別的な発言をすることで知られるトランプ氏を批判するものだったが、それは「差別」の本質を非常にわかりやすく教えてくれる内容だった。私が汲み取った範囲内で解説するとこういうことになる。

 自分と違う立場や環境にいる人と触れ合う機会の少ない人は往々にして、人々を「我々(us)」と「やつら(them)」に分けてしまう。「やつら」を知らず、「やつら」が見えなければ、「やつら」を人間扱いしないことが容易になる。軽蔑するようにもなる。でも本当は、「彼ら(they)は私たち(us)」なのだ。

 差別とは、本来対等で同じ価値を持つ(equalである)私たちが、私たち自身を「usとthem」に分けてしまうことなのだ。

 鶴保氏ならずとも、差別という言葉の意味に悩んだら考えてみるといいのだろう。自分の友人を、同僚を、両親を、恋人を、夫や妻を、「土人」と呼ぶかどうかについて。

 沖縄基地問題自体も、本土に住む日本人がそれを「(日本に住む)私たち」の問題と考えるか「(沖縄に暮らす)彼ら」の問題と捉えるかで、ぜんぜん意味合いが違ってくる。

 

 

T婦人への返信 横塚晃一

T婦人との往復書簡より (「母よ殺すな」 生活書房)

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前略,お手紙拝見いたしました.三人のお嬢さん方も元気なご様子,何よりと存じます.あなたのおっしゃる通り,我が子の無事を祈り,五体満足であることを願わぬ親はいないでしょう.しかし(言葉尻をつかむわけではありませんが)「いつわざる親の心情ではないでしょうか」というように一般化することによって,あなた自身の責任(罪悪性)を回避していることに気がつかなければなりますまい.つまり「妊娠とわかった日から五体満足をと祈り,何万分の一かも知れない確率をおそれ,もしそうなったら---」と考えた時点においては,それはあなた自身がそう思ったのであり,他の人がどう思ったかということとはまた,別問題といわなければなりません.

----(中略)

私はここであなたを責めるつもりは毛頭ありません.これは私自身を責めているといった方が適切かもしれません.自分より重い障害の人を見れば「私はあの人より軽くて良かった」と思い,また知能をおかされた人を見れば「自分は体はわるいが幸いあたまは----」

----(中略)

なんとあさましいことでしょう.そのように人間とはエゴイスティックなもの,罪深いものだと思います.この自分自身のエゴを罪と認めることによって,次に「自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です.お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか.まして我々障害者とそうでない人たちとの交わりとは?障害者福祉とは?ひいては人間社会のあり方とは?先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います.

------(後略)