美少年ナルキッススとエコ
田中英央・前田敬作訳/オウィディウス・転身物語(人文書院)より
一作日/昨日の続きです
前回までのあらすじ
美少年ナルキッススとエコ(1)&(2)
エコー2 美少年ナルキッススとエコ(1): yachikusakusaki's blog
エコー3 美少年ナルキッススとエコ(2): yachikusakusaki's blog
「もし,おのれの姿を知らねば,長生きするであろう」と予言されていたナルキッスス(ナルキッソス).
Narcissus (mythology) - Wikipedia
美しい容姿の中にはひややかな高慢がやどっていて,どんな若者や乙女にもこころをうごかされませんでした.
ユノ(ヘーラー)によって,他人のいった話の最後のひびきをくりかえし,相手の言葉を反復することしかできなくさせられていた山のニュムペ,エコ(エコー,エーコー).
エコは,ナルキッススが森の中を歩いているのを見ると,たちまち恋心にとらえられ,ひそかにあとをつけていきました.かの女は,自分から話しかけることはできません.許されているのは,相手に答えることだけ. エコはひたすら相手の言葉を待ちかまえた
「おおい!だれかいるかい!」「いるよう!」
「こっちへ来て,一緒になろうよ!」「一緒になろうよ!」
エコは,いとしい若者の首に腕を巻きつけようとしますが,ナルキッススは,おどろいて逃げ出します.
「手をのけてくれ.抱きついたらいやだ.死んだ方がましだよ,きみの思いどおりになるくらいなら!」「思いどおりになる-----」
恋をしりぞけられたエコは,それからはさみしい洞穴にひとりで住んでいました.
悲しい思いは深く刻みこまれ,やせおとろえ,からだの水気もすっかりなくなり,残るは声と骨だけ.そして骨は岩と化し,声だけになって生きつづけていました.
ナルキッススは,このようにエコの愛をしりぞけましたが,それ以外にも同じような目にあわされた水や山の妖精たちや若者が多くいました.あるとき,そうして恥をかかせれた若者のひとりが,天にこう叫んびます.
「どうかかれも恋をしますように!しかし,けっしてその恋の相手をとらえることができませんように!」
ラムヌスの女神(復讐の女神ネメシス)は,このもっともな願いを聞き入れました.
美少年ナルキッススとエコ(3)
田中英央・前田敬作訳/オウィディウス・転身物語(人文書院)より
さて,ここひとつの清冽な泉があった.その水は,銀いろにかがやき,まだかつて牧人も山に草を喰(は)む牝山羊も,その他のどんな家畜もここを通ったことがなく,鳥や野獣も樹から落ちた小枝でさえ,その水をみだしたことがなかった.泉のまわりには,その水で命をささえている草地と,太陽も射しこまない深い森がひろがっていた.
はげしい猟と暑さにつかれはてたナルキッススは,ここの美しい景色と泉にひかれて,水のそばに身を横たえた.そして,きよらかな水で喉の渇きをうるおそうとすると,それとは別な渇きを胸におぼえた.
というのは,水をのみながら,そこにうつった自分の姿に魅惑されてしまったのである.
Narcissus (mythology) - Wikipedia
実体のないまぼろしに惚れこみ,影ににすぎないものを人体だとおもったのだ.かれは,わが身の美しさにはっと息をのみ,パロス島の大理石にきざまれた塑像にように身じろぎもしないでわが身に見とれていた.地べたに腹ばいになったまま,ふたつの明星のような自分の瞳,バックスやアポロにもふさわしいその髪の毛,若々しい頬,象牙のような首,やさしくも美しい口,雪のような白さにくれないをまぜた顔をいつまでもみつめ,自分自身を美しくしているすべてのものに驚嘆した.
かれは,そうとは気づかずに,自分自身に恋をしてしまったのだ.
かれはあかず眺めたが,それは自分自身を眺めているのである.はげしく恋いこがれながら,自分がその対象になっている.自分がもやそうとしている胸の炎に,自分が焦(こ)がされている.
ああ,かれはいくどむなしく口吻(くちづけ)をこのいつわりの泉にあたえたことか!いくど水にうつる自分の首を抱こうとして,むなしく腕を水につっこんだことか!かれは,自分がなにを見ているのか知らないが,その見ているものは,かれを焼きつくす.
-----(中略)
「ああ,森たちよ,恋をしてこれほどむごい苦しみを味わった者があるだろうか.おまえたちは,多くの恋人たちの格好の隠れ場所になった.よく知っているはずだ.おまえたちはすでに幾世紀となく生きながらえてきたが,その長い歳月のあいだに,ぼくのように悩みやつれていった人間はあっただろうか.
ぼくは,恋する相手を見つけ,しかもその相手を目のまえに見ている.しかし,目のまえにいるその好きな相手を,どうしてもとらえることができない.恋するぼくを苦しめているのは,このような奇態(きたい)な迷いなのだ.さらに悲しいことには,僕たちのあいだには広い海もなければ,遠い道のりもなく,山もなければ,門をかたくとざした城壁もない.ぼくたちをへだてるものとては,ただわずかな水があるばかりなのだ.相手もまた,ぼくの抱擁をもとめている.
-----(中略)
—ああ,そうだ!これは,ぼく自身なのだ.やっとわかった!これ以上自分の影にだまされないぞ!ぼくは自分自身に恋をしていたのだ.ぼくは恋の火をもやしつけて,自分でそれに苦しんでいるのだ.だが,どうしたらよいというのだ.愛を求められるのを待っていようか.それとも,こちらから求めようか.
-----(中略)
この苦しみは,もうぼくの力を喰いつくしてしまった.ぼくは,もう長くは生きられまい.ぼくは,蕾がほころびはじめたときに死んでいくのだ.
死はちっとも怖ろしくない.それは,この苦しみからぼくを解放してくれるだろう.ただ,ぼくの願いは,愛する相手がもっと長く生きていてくれたらというだけだ.しかし,いまやふたりは,おなじひとつの息を仲よくひきとらなくてはならないのだ」
こういって,かれはもう正気もうしなって,同身の恋人のところにもどり,涙で水をみだした.水のうごきは,うつった影を曖昧にした.恋人が消えたのを見ると,かれはさけんだ.
「ああ,どこに逃げていくのだ.どうかここにいてくれ.むごい若者よ.きみを愛している者を見すてないでおくれ.きみにふれることができないのなら,せめてきみを見つめることを許しておくれ.そして,ぼくの不幸な狂気に糧(かて)をあたえておくれ」
このようにさけびながら,かれは上半身から着ているものをぬぎすて,大理石のように白い手でむきだしの胸を打った.打たれた胸は,ほんのりとばら色にそまった.
------(中略)
かれはもう耐えていることができなくなった.ろうそくの黄いろい鑞がよわい焔にとけるように,あるいは,朝の霜が太陽のあたたかい光に消えさるように,かれは恋にやつれてしだいに弱っていき,ひと知れぬ胸の火にいつか焼きほろぼされていった.あの白い肌を染めていた朱色(あけいろ)は,すでに消えてしまった.あの健康そうな若々しさも,力も,かれがついさっきまで見とれていたすべてのものも,失われてしまった.
かってエコが恋を感じた肉体は,もはや見る影もない.
しかし,エコは,こうしたかれの様子を見ると,まだ怒りと恨みを感じていたものの,かれをかわいそうにおもった.
そして,不幸な若者が「ああ!」ともらすたびに,かの女の声もおなじように「ああ!」とくり返した.かれが手で胸を打ったときも,その音をこだましたのだった.
あいかわらず水の面を見つめながらかれが口にした最後の言葉は,「ああ,つれない少年よ!」というのであった.あたりの景色は,おなじ言葉をひびきかえした.
つづいて,「さようなら!」という叫びに,エコも「さようなら!」と答えた.
こうして,ナルキッススは,みどりの草の上にがっくりと頭をおとした.死は,その主人の美しさをたたえつづけていた眼をとじてやった.すでに地下の世界にいってからも,かれはスクュクスの流れにうつる自分の姿を見ていた.
かれの姉妹のナイス(⇒*)たちは,かれを悼(いた)み,自分たちの髪の毛をきってかれに供えた.
ドリュアス(⇒*)たちも,かれの死を悲しんだ.エコは彼女たちの嘆きをくりかえした.
すでに人びとは,火葬の用意をし,炬火(きょか たいまつのこと)をかざし,棺がはこばれてきた.しかし,かれの屍体(したい)は,どこにもなかった.屍体のかわりに,白い花弁にかこまれた一輪のサフラン色の花(⇒水仙/ナルシス のこと)があるばかりであった.
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ナイス
(田中・前田脚注):ナイアスともいい,泉や河川に住む水の妖精ニュムペ(複数形ナイデス,またはナイアデス).それぞれの泉や河にひとりのこともあれば,多数いることもある.オケアヌスの一族とも,その住む河の神の娘とも考えられる.
ドリュアス
(田中・前田脚注):森や樹の妖精のこと(複数形ドリュアデス),ハマドリュアスと同じ.