「美少年ナルキッススとエコ」
田中英央・前田敬作訳/オウィディウス・転身物語(人文書院)より
昨日の続きです
yachikusakusaki.hatenablog.com
前回のあらすじ
美少年ナルキッススとエコ(1)
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2019/11/20/235546
「もし,おのれの姿を知らねば,長生きするであろう」と予言されていたナルキッスス.
美しい容姿の中にはひややかな高慢がやどっていて,どんな若者や乙女にもこころをうごかされませんでした.
ユノ(ヘーラー)によって,他人のいった話の最後のひびきをくりかえし,相手の言葉を反復することしかできなくさせられていた山のニュムペ,エコ.
ナルキッススが人里はなれた森の中を歩いているのを見ると,たちまち恋心にとらえられ,ひそかにあとをつけていきました.かの女は,自分から話しかけることはできません.許されているのは,相手に答えることだけ. エコはひたすら相手の言葉を待ちかまえた
「おおい!だれかいるかい!」「いるよう!」
「こっちへ来て,一緒になろうよ!」「一緒になろうよ!」
エコは,いとしい若者の首に腕を巻きつけようとしますが,ナルキッススは,おどろいて逃げ出します.
「手をのけてくれ.抱きついたらいやだ.死んだ方がましだよ,きみの思いどおりになるくらいなら!」「思いどおりになる-----」
美少年ナルキッススとエコ(2)
田中英央・前田敬作訳/オウィディウス・転身物語(人文書院)より
こうして恋をしりぞけられた妖精(ニュムペ)は,森の中に逃げ込み,恥ずかしさのあまり木の葉で顔をかくし,それからはさみしい洞穴にひとりで住んでいた.
けれども,悲しい思いは,その胸の底に深く刻みこまれて,こばまれたという悲しみのためにいっそうつのるばかりであった.夜も眠れないほどの心痛は,あわれな肉体をしだいに衰弱させ,皮膚はやせおとろえ,からだの水気もすっかりなくなってしまった.いまや残るものとては,声と骨ばかりであった.そして,声だけはそのままで,骨はついに岩と化したといわれる.
それからというものは,かの女は森の奥にかくれて,山の上にはけっして姿を見せなくなった.しかし,その声はだれの耳にもきこえる.声だけになって生きつづけているのである.
ナルキッススは,このようにエコの愛をしりぞけたが,それ以外にも同じような目にあわされた水や山の妖精たちも多くいたし,また以前には,たくさんの若者たちもおなじ目にあった.あるとき,そうして恥をかかせれた若者のひとりが,手を天にむかってあげ,こう叫んだ.
「どうかかれも恋をしますように!しかし,けっしてその恋の相手をとらえることができませんように!」
ラムヌスの女神(⇒*)は,このもっともな願いを聞き入れた.
(田中英央・前田敬作訳/オウィディウス・転身物語)
この後,ナルキッススは,森の中の,誰も通ったことのない清冽な泉で,喉の渇きをうるおそうとして,そこにうつった自分の姿に魅惑されてしまいます.
やがて,彼は,そのとらえることができない相手が自分であることに気づき,自分の影に騙されまいとするのですが----
オウィディウスは,自分に恋してしまうナルキッススの心の動きを,ナルシスト(⇒**)の独りよがりとしてではなく,美しい悲恋として描きます.
そして,ナルキッソスの最期の場面では,声だけになったエコがナルキッソスの言葉,そして,ナルキッソスの姉妹の嘆きの言葉をくり返し答え,水仙が残される---この場面の描写も見事.
ナルキッソスとエコの物語は,オウィディウスがとてもすぐれた文学者であることを垣間見させてくれる一章.
明日,原文を引用しつつ,改めて,続きのあらすじを掲載する予定.
⇒*
田中・前田訳/アウィディウス「転身物語」脚注
アッティカ北部の一地方,復讐の女神ネメシスの有力な神殿があった.ネメシスは,人間の増長と非礼にたいする神々の報復を擬人化した女神で,ニュクス(「夜」を擬人化した女神)の娘とされる.
ネメシスとテュケー
https://www.theoi.com/Daimon/Nemesis.html
⇒**
ナルシスト,ナルシシズムは,よく知られているように,美少年ナルキッソス(ナルキッスス)(⇒***)の物語から生まれた言葉です.
ランダムハウス英語辞典
nar・cis・sism
■n.
【1】自己愛,自愛(self-love); 自己中心主義(egocentrism).
【2】〘精神分析〙ナルシシズム,自己陶酔症:リビドー(libido)が他者ではなく自己に向けられて性的満足を得ること;幼児期には正常な現象.
(また nar·cism[nɑ́ːrsizm])
[1822.<ドイツ語 Narzissismus.→NARCISSUS]
■n.
nar・cist
[nɑ́ːrsist]
⇒***
そのため,水仙はナルキッソスと呼ばれるようになった-----と思う方がいるかもしれませんが,エコーが山彦echoの名前をもったニンフであるように,ナルキッソスも水仙narcissus(ギリシャ語 nárkissos由来)の名をつけられた少年です.名前からすると水仙の精といってもよいのでしょうが,男性ですから精にはなれない?
ランダムハウス英語辞典
nar・cis・sus
[nɑːrsísǝs]
[音声]
■n.
(pl. 1,2でnar·cis·sus,nar·cis·sus·es, -cis·si[-sísiː,-sísai])
【1】スイセン(水仙):アマリリス科スイセン属 Narcissus の球根植物の総称;黄または白色の花をつける.
▶花言葉 egotism(自己中心).
【2】1の花.
【3】⦅N-⦆〘ギリシア神話〙ナルキッソス:泉に映った自分の姿に恋し,満たされない望みにやつれ果ててスイセンに化した若者.
【4】⦅N-⦆美しくてうぬぼれの強い青年.
[1548.<ラテン語<ギリシャ語 nárkissos(麻酔作用があるため nárkē「麻痺(まひ)」と結びついた植物名).→NARCOTIC]
なお,水仙の英語は?と聞かれると,多くの方がdaffodilとお答えになるかもしれません.私も,実はそのひとりでした.
しかし,daffodilは,正確にはラッパズイセンを指す英語.もとはスイセン属全体を指していたようなので,水仙の英語といって間違いともいえないようですが---
ランダムハウス英語辞典
daf・fo・dil
[dǽfǝdìl]
■n.
【1】ラッパズイセン:ヒガンバナ科の球根植物;春に垂れ下がった黄色い花が咲く;ウェールズの国花・国章.
▶花言葉 regard(敬意), unrequited love(報われない愛).