アポローンの孫娘ビュブリスは,双子の兄カウノス(カウヌス)に激しく恋をしてしまいます.
アントーニーヌス・リーベラーリス メタモルフォーシス(安村典子訳 講談社文芸文庫)では,次のように描かれています.
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“日毎に強くなる愛の魔力にとらえられ,ついにある夜,岩から身を投じて死んでしまおうと思うに至った.
ビュブリスは近くの山へ登り,身を投げようとしたその時,妖精たちが憐れんで彼女を押し止めた.そして,ビュブリスに深い眠りを注ぎ込み,彼女を人間から精霊に変えてやった.
そして,彼女を樹木の妖精ビュブリスと名付け,自分たちと生活を共にする仲間にしてやったのだった.
かの岩山から流れ出す川は今日に至るまで,その地の人々からビュブリスの涙と呼ばれている”
オウィディウス「転身物語」では,ビュブリスのゆるされぬ恋が,かの女の内面描写を交えて詳細に描かれ,リーベラーリス版と異なり,最後には泉に変身します.
ビュブリスは,森や樹の妖精ドリュアスではなく,川や泉の妖精ナーイアスとされることがあるのはこのためです.
以下,初めにあらすじを,そして次に冒頭の内面描写の一部を,田中秀央 前田敬作訳 人文書院版から.
オウィディウスの文学的力が存分に発揮されています.
「ビュブリスの不倫の恋」あらすじ
日に日に兄への思いを募らせたビュブリスは,自分の恋心を手紙にしたためカウヌス(カウノス)に渡しますが,カウヌスは強く拒絶します.同じ試みをくりかえすビュブリス.
諦めさせることはできないと見て取ったカウヌスは,祖国を逃げ出し,異境の地へ.
これを知ったビュブリスは,悲嘆の余り正気を失い,不倫の思いをはばかることなく公言し,逃げていった兄の後を追っていきます.
異国の地をさまよい歩き,ついに兄を追うことに疲れはて,行き倒れますが,その地の妖精たちが介抱します.ビュブリスは涙を流すばかり.
そして,涙にかきくれてついに一つの泉になってしまいました.この泉は彼女の名前をとどめ,樫の木の木陰から湧きでています.
「ビュブリスの不倫の恋」
オウィディウス 転身物語 田中秀央 前田敬作訳 人文書院より
-----(前略)
ビュブリスは,ゆるされた恋のみをなすべきであることを,世の乙女たちに身をもって教えている.
彼女は,アポロの孫である兄に激しい愛着をおぼえ,世間の妹が兄を愛する限度をはるかに越えて,また,必要以上に愛していた.
はじめのうちは,別に情欲も感じなければ,しばしば兄に接吻したり,腕を首にまきつけたりしても,それが罪であるとはおもっていなかった.こうして長いあいだ兄妹愛という,偽りの形にだまされていたのだった.
しかし,その愛は,道ならぬものになっていった.兄に会いにいくときは,美しい装いをこらし,兄に美しいと思われたいと,おかしほど,気をつかった.そして,自分より美しい女性がそばにいると,その女に嫉妬をおぼえた.
といっても,かの女は,自分で自分の気持ちがはっきりとはわかっていなかったし,何の欲望もいだいていなかった.しかし,胸の底はすでにたぎりたっていたのである.そして,兄をすでに主人とよび,血をわけた兄妹という名をきらい,かれから妹とよばれるよりも,ビュブリスとだけよばれることをよろこんだ.
それでも,さすがにめざめているあいだは.そのこころに不純な欲望をけっしてしのびこませなかった.ただ,やすらかな眠りにつつまれていときは,しばしば愛する者に抱かれている夢をみた.そして,自分のからだが兄のからだとぴったり一つになったような気がして,眠りの中にあっても,顔をあからめるのであった.
やがて,眠りからさめると,ながいこと押しだまったまま,夢にみたまぼろしを思いおこし,さまざまな思いにまどいながらも,こういうのであった.
「ああ,わたしは,なんという不幸な女かしら.夜の静けさのなかにあらわれるあの幻影はなにかしら.あんなことは,ほんとうにあってはならない.だのに,どうしてあんな夢をみたのかしら.
カウヌスは敵意の目で見てさえも美しい.ほんとうに好きだわ.もし兄でなかったら,きっと恋におちてしまうところだわ.かれなら,わたしにぴったりの恋人になれる.妹だなんて,なんて因果なことだろう.
目がさめているかぎりは,決してあんなおそろしいことをしようとはおもわないから,せめて眠っているときは,あのような夢がいくどでもおとずれてくれるといい.夢なら,だれにもわかりはしないし,快楽(よろこび)に変わりはない.
おお,ウェヌスさま,やさしい母とともにいるクビトよ.なんというよろこびをわたしは味わったことでしょう.
-----(中略)
わたしは,どこまで夢中になるつもりかしら.おお,不純の炎よ,私の胸から出ていくがよい!わたしは,もう兄に対して妹としてゆるされないやさしい愛情だけを持つつもりだから.けれども,かれの方が先にわたしに対して欲情におそわれたら,わたしは安心してかれの要求に身をまかせてしまうだろう.
だから,どうせかれの要求をこばむことができないのなら,いっそのこと,こちらから思いをうちあけようかしら.
だが,おまえは,それを口にすることができるかしら.かれに告白できるかしら.愛がわたしの後押ししてくれるにちがいない.やってできないことではあるまい.
恥ずかしさのために口では言えなくても,秘めた恋文が胸の思いをかれにつたえてくれるにちがいない」
ビュブリスは,ついにこのように決心に達した.そう決心してしますと,胸のためらいも消えさった.かの女は,半身をおこすと,左の肘に身をささえて,
「そうだわ.このくるおしい思いをうちあけよう.ああ,わたしは,どこまで運ばれていくのだろう.この胸を焦がすのは,どんな日なのかしら」
そういうと,ふるえる手でこころにうかぶ言葉をかきつづった.
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以下略