オウィディウス 転身物語
田中秀央・前田敬作訳 人文書院
ダイジェスト3
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Peter_Paul_Rubens_-_Venus_and_Adonis.jpg
『むかし,脚のはやい男たちと競争して,みごとにかれらをうち負かした乙女がいたことは,たぶんあなたも聞いているでしょう.この話は,けっして作りごとではありません.彼女は,ほんとに男たちを負かしたのです.けれども,彼女の脚の速さと容姿の美しさのどちらがまさっていたかは,きめかねたほどでした.
File:Atalanta Lepautre Louvre MR1804.jpg - Wikimedia Commons
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ヒッポメネスは,----若者たちの無分別な恋をあざけっていたの.ところが,アタランタの顔やむきだしの肌を見ると,----たちまちこころをうばわれて,---.
スコエネウスの娘(アタランタ)は,やさしい眼ざしをじっとかれにそそぎかけて,この相手に勝利を敗北のどちらをあたえようかと思案していた.
「----ああ.その子供らしいお顔の表情は,なんといういとしいことでしょう.お気の毒なヒッポメネス.わたしなんかにお会いにならなければよかったのに.---
わたしがもっと幸福な女で,意地悪な運命に結婚を禁じられているのでなかったら,あなたこそは,わたしが夫婦の契りを結びたいとおもうたった一人の男性であったでしょうに」
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はじめて恋におちた乙女は,自分のしていることもわからないもの—彼女は,恋におちながら,その恋に気がつかなかったのです.
とかくしているうちに,人びとも,かの女の父親も,例の競争をはじめることを要求しました.
ネプトゥヌスの血をひいたヒッポメネスは,このとき,なにか落ち着かぬ声でわたしの名を呼んで,こういったのです.
「キュテラ(キュプルス島の古い町)の女神がわたしの計画をたすけ,わたしの胸におつけになった炎をまもってくださるよう,せつにお願い申しあげます」
折りよくそよ風が,このいじらしいことばをわたしのところまではこんできました.正直なところ,わたしは,それにこころをうごかされました.そして,さっそく助け船をだしてやりました.
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わたしは,ここから黄金の林檎を三個もぎとって,それをもっていきました.
そして,ヒッポメネスよりほかのだれにも姿がみえないようにして近づくと,かれにその林檎の使い方をおしえてやりました.
やがて合図のラッパがたからかに鳴りひびくと,二人の走者は,のめるように身をつきだして棚からとびだし,速い足で砂地をかすめるように走っていきました.
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しかし,さすがに疲れたのか,ヒッポメネスのあえぐ口は,からからにかわいてしまいました.しかも,決勝点は,まだはるか遠くです.そこで,ネプトゥヌスの血をひいた若者は,ついにわたしの木からとれた三つの林檎のうち一個をとりだして,それを投げました.
乙女はびっくりしましたが,きらきらした林檎がほしくてたまらず,競争中なのに道草を食って,地上に転がる黄金の果実を拾い上げました.
その隙に,ヒッポメネスは彼女を追い越しました.
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いよいよ最後の走路にさしかかりました.
そこで,ヒッポメネスは,「おお,この賜物をくださった女神さま,いまこそ力をおかしください」とさけぶと,戻ってくる時間ができるだけおそくなるようにと,野原の横の方にむかって渾身の力をこめて輝く林檎を投げつけました.
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乙女はずっとひきはなされてしまい,勝ったヒッポメネスは,その褒賞である妻を故郷につれて帰ったというわけです.
ねえ,アドニス.これだけのことしてやったわたしは,かれから感謝され,香をささげてもらって当然ではなかったかしら.
だのに恩知らずのかれは,お礼参りどころか,わたしに香もささげなかったのです.そこでわたしの善意は,たちまち怒りに変わりました.
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ヒッポメネスは,わたしがひそかにふきこんだ時ならぬみだらな欲情にとらえられました.
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ヒッポメネスは,この神聖な場所に入りこんで,けしからぬ振る舞いでけがしてしまったのです.神々の像も,おもわず面をそむけました.塔の冠をいただいた神々の母は,この罪ぶかいふたりをステュクスの流れになげこんだものかどうか思案されました.しかしそれだけではまだ罪が軽すぎるようにおもえました.
すると,ついいままではあれほどきれいであったかれらの首に,褐色のたてがみがはえ,指はするどい鉤爪(かぎづめ)にかわり,肩から前趾(まえあし)の腿(もも)が生じ,全身の重みは胸部にかかり,砂地を掃く尻尾がはえました.
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こうしてふたりは獅子となって,ほかの者にはおそろしく見えるけれども,口に轡(くつわ)をかまされて,おとなしくキュベレ(*)の車を牽(ひ)いています』
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