「没薬(もつやく)になったミュラ」ダイジェスト(中)(オウィディウス「転身物語」) 「どうぞ,わたしがなぜ死んだのかをわかってください』 「乳母はいそいでとび起き,扉をあけ,自殺の道具がそろっているのを見ると,大声をあげた」『あの人を良人にしていらっしゃるとは,お母さまはなんと幸福なかたでしょう!』といったが,それ以上は涙でかき消されてしまった. 乳母は,全てが呑みこめたが,戦慄がかの女の冷たくなった手足や骨のなかまでしみわたった.

3回にわたってお届けするダイジェスト版「没薬(もつやく)になったミュラ」(オウィディウス「転身物語」)

今日は中編です.

 

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Commiphora myrrha - Wikipedia

 

アプロディーテーウェヌス/ヴィーナス)の神木としてのマートルから始めた今回の一連の話題ですが,オウィディウス「転身物語」中の「没薬(もつやく)になったミュラ」には,アプロディーテーが出てくることがありません.

アプロディーテーが登場するのは,この物語に続く,よく知られたアドニスの誕生と転身の物語になります.

 

偽アポロドーロス「ギリシャ神話(ビブリオテーケー)」が書き記した物語では,ミルラ(転身物語訳中ではミュラ)が道ならぬ恋心を抱くのは,アプロディーテーによる罰とされています.ミルラの母親が,娘の方がアプトディーテーより美しいといったため.

しかし,ミルラが産むことになるアドニスアプロディーテーは惹かれていきます.

母親のせいで娘を罰し,その結果生まれた子どもに恋する.理不尽に罰することもしばしばあるギリシャ神話の神々ですが,「娘に邪悪な思いを抱かせ,その結果生まれたアドニスに恋する」アプロディーテーはやや興ざめ.

その点は,復讐の女神フリアエがその思いを吹き込んだとするオウィディウス版の方が,話がスッと入ってくる気がします.

 

転身物語

田中秀央・前田敬作訳  人文書院

巻一〇 七 没薬(もつやく)になったミュラ (ミルラ)

ダイジェスト(中)

 

死よりほかには,もう胸のうちをやすめる方法はないようにおもわれた.彼女はついに死を選んだ.

そして,われとわが首をくくろうと決心すると,寝床から起きあがって,帯を柱の上に結びつけてこういった.『さようなら,いとしいキニュラス!どうぞ,わたしがなぜ死んだのかをわかってください』

そういいながら,帯をとって,血の気の失せた首に巻きつけた.

しかし伝えるところによると,彼女のひとりごとは,育て子の部屋の前で夜番をしていた乳母の忠実な耳に聞こえたということである.

乳母はいそいでとび起き,扉をあけ,自殺の道具がそろっているのを見ると,大声をあげると同時に

----中略

 

どんな悲しいことも苦しいことも自分にだけはうち明けてほしいと頼んだ.しかし,いくらたずねても,ミュラは背をむけて,ただすすり泣くばかりであった. 

----中略

 

『わかりました.どなたかに思いをかけておいでなのですね.それならば,ご心配なさいますな.この婆やがかならずお力になります.けっしてお父さまなどにわからないようにしてさしあげます』

ミュラは,狂ったように相手のからだからとびのくと,顔を枕におしあてて,『お願いだから,あっちへ行って!この恥ずかしい胸のうちをこれ以上いじるのはやめて』

-----中略

 

もうどおしてもうち明けてくれないのなら,首をくくって自殺をはかったことを,みんなに喋ってしまいますよ,といっておどし,そのかわり,もしその恋をうち明けてくださったら,きっとお力添えをいたしましょうと約束した.

ミュラは,頭をあげて,あふれる涙で乳母の胸をぬらした.思いきってなにもかも話してしまおうかと,何度も考えるのだが,そのたびに言葉がつまった.それでも,ついに恥ずかしさに顔を着物にかくして,

『あの人を良人にしていらっしゃるとは,お母さまはなんと幸福なかたでしょう!』といったが,それ以上は涙でかき消されてしまった.

乳母は,全てが呑みこめたが,戦慄がかの女の冷たくなった手足や骨のなかまでしみわたった.真っ白な髪の毛は,こわばって頭から逆だった.かの女は,できることならこんないまわしい恋をあきらめさせようと,口をすっぱくして言いきかせた.

乙女も,乳母の忠告がもっともであることはよくわかっていたが,それでも愛する者と添えない以上は死んでしまいたいという気持ちを変えなかった.

そこで,乳母は,『それならば,いたしかたありません.あの方をあなたのものにしてあげましょう』といった(かの女は,あえて「お父さまを」とはいわなかった).そして,神々の名をあげて,約束の証人とした.

 

 さて,この町の母親たちは,ケレス女神(豊穣の女神.ギリシャ神話デーメーテールと同一視された)にささげる年に一度の祭を敬虔にとりおこなっていた.

彼女たちは,雪のように白い衣をまとい,麦穂であんだ花輪をその年の初穂としてささげたが,第九夜が終わるまでウェヌスの快楽を禁じられ,良人に肌をゆるさぬ習わしであった.

----中略

 

乳母は,妃が王の寝床をあけているのをよいことにして,あやまった忠誠心から,王が酔っぱらっていたときにでまかせの名前をいって,その女が王を心から愛していると告げ,美しい女だとほめたたえた.

----中略

 

 

イカルスよ,まず最初におまえが姿をかくした.すると孝行のゆえに星となったおまえの娘エリゴネも,姿を消した.

ミュラは三度つまずいた.この不吉な前兆は,思いとどまれという警告であったし,不吉な梟(ふくろう)も,三度死を告げる啼き声によって警告を与えた.しかし,かの女は,歩みを止めなかった.

 

続く