センダン(栴檀) 日朝様(鎌倉本覚寺)に,センダン(栴檀)のかなり大きな木があります.葉が美しいと眺めていますが,今の季節は青い実をつけています.栴檀の花は清少納言も「いとをかし」とし,楝(あふち/おうち:センダンの古名)色という色前としても残っています.中国語(漢字本来の意味)では,楝がセンダンを表し,栴檀はビャクシンの意味.  妹(いも)が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくにも  山上憶良

いつもの散歩コースでよく通る日朝様(鎌倉本覚寺)に,センダン(栴檀)のかなり大きな木があります.

 

葉がとても美しいと思って眺めていますが,今の季節は青い実をつけています.

 

この栴檀

花が,奈良・平安の時代から「楝」あふち /  おうち(古名)の花として愛され,楝色(おうちいろ)という色の名前としても残っています.

https://matsue-hana.com/hana/sendan.html

楝色(おうちいろ)とは?:伝統色のいろは

 

「楝」(あふち/おうち)は万葉集には四首詠まれ,また,清少納言は,「木の花は」で次のように表しています.

 

清少納言枕草子』四四段

 木の花は、濃きも薄きも紅梅。 桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。 藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし

[ 木の花といえば、色が濃くても薄くても紅梅(がよい)。 桜は、花びらが大きくて葉の色が濃いところが、また枝が細くて咲いている(のがよい)。 藤の花は、しなやかで長く色が濃く咲いているのが、とても見事だ。]

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 木のさまにくげなれど、楝(あふち)の花いとをかし。かれがれに様異(さまこと)に咲きて、必ず五月五日にあふもをかし。

[ 木の形は不格好だけれど、楝あうちの花はとてもおもしろい。乾いた感じでいっぷう変わって咲いて、必ず五月五日に咲き合わせるというのもおもしろい。]

『枕草子』 木の花は | 二階の窓から

 

センダンは

ムクロジ目 Sapindales,センダン科 Meliaceae,センダン属 Melia,

センダン M. azedarach

 

栴檀を辞書やウェブ上で調べると必ず記載があるのが,“「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」”の栴檀はビャクシン科のビャクシンのことでセンダン科の本種とは異なる”

というただし書き.

漢字,栴檀は,本来(=中国語で),日本語のビャクシンを意味する言葉なんですね.

そして,古名の「あふち」にあてた漢字「楝」は,中国でセンダンを意味する漢字です.

 

字源は次のように記載しています.「国」とあるのは国訓(日本だけでおこなわれている訓)を示しています.

字源(角川)

栴檀せんだん」
㋐ 香木の名。インド・インドネシア原産のビャクダン科の常緑樹。同旃檀せんだん
㋑国 センダン科の落葉高木。楝おうちの別称。樹皮や根を薬用とする。

 

「楝レン」

意味 おうち(あふち)。せんだん。とうせんだん。センダン科の落葉高木。春、うすむらさきの花をつけ、実は薬用となる。建築材などに用いられる。

 

ビャクシンをうたった万葉集山上憶良の歌はとても有名で,このブログでも以前取りあげました.

yachikusakusaki.hatenablog.com

その時の文章をそのまま以下に掲載します.長くなりますが---

山田卓三・斎藤茂吉の評を写したものです.

 

楝(あふち)/ 栴檀せんだん

妹(いも)が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくにも 

山上憶良 万葉集 巻五・798(802)

 

妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくにも

▽山田卓三「万葉植物つれづれ(大悠社)」

 あふちは,センダンの古名ですが,香木の栴檀(せんだん)ではなく,「栴檀は双葉より芳し」の栴檀はびゃくだん科の白檀です.

センダンの花は小型の薄紫,派手さはありませんが,落ち着いた上品な感じの花です.

ここでは旅人の妻,大友郎女(いらつめ)の象徴として,また旅人の心中の思いにこれを重ねています.

樹皮は駆除剤,果実はひび・あかぎれなど薬用として利用されていました.

ところが江戸時代になって刑場の周りに植えるなどしたため,万葉時代とは違ったイメージとなってしまいました.

 

 

斎藤茂吉 「万葉秀歌」

 前の歌

: 悔(くや)しかも かく知らませば あをによし 国内(くぬち)ことごと 見せましものを  巻五(七九七)

の続で,憶良が旅人の心に同化して旅人の妻を悼んだものである.

楝(あふち)は即ち栴檀で,初夏のころ薄紫の花が咲く.

 一首の意は,

妻の死を悲しんで,わが涙の未だ乾かぬうちに,妻が生前喜んで見た庭前の楝の花も散ることであろう,

というので,逝く歳月の迅きを歎じ,亡妻をおもう情の切なことを懐うのである.

 この楝の花は,太宰府の家にある楝であろう.そして,作者の憶良も太宰府にいて,旅人の心になって詠んだからこういう表現となるのである.

この歌は,意味もとおり言葉も素直に運ばれて,調べも感動相応の重みを持っているが,飛鳥・藤原あたりの歌調に比して,切実の響を伝え得ないのはなぜであるか.

恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか.

後に発達した第三句切が既にここに実行せられているのを見ても分かるし,

「朝日照る 佐太の岡辺に 群れゐつつ 吾が哭く涙 止む時もなし」(巻二・一七七),

「御立(みたて)せし 島を見るとき 行潦(にはたづみ)ながるる涙 止めぞかねつる」(巻二・一七八)

ぐらいに行くのが寧ろ歌調としての本格であるのに,此歌は其処までも行っていない.

この歌は,従来万葉集中の秀歌として評価せられたが,それは,分かり易い,無理のない,感情の自然を保つ,挽歌らしいというような点があるためで,実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである.

 天平十一年夏六月,大伴家持は亡妾を悲しんで,

「妹が見し屋前に花咲き時は経ぬわが泣く涙いまだ干なくに」(巻三・四六九)

という歌を作っている.これは明かに憶良の模倣であるから,家持もまた憶良の此一首を尊敬していたということが分かるのである.

恐らく家持は此歌のいいところを味い得たのであっただろう.(もっとも家持は此時人麿の歌をも多く模倣して居る.)