梅を求めて東慶寺へ  昨日は,鎌倉東慶寺に行ってきました.過去は「縁切り寺」としても知られた格式のある寺院ですが,現在は花の寺としても人気で,梅も境内に沢山植栽されています.山門を入ったところの紅梅,白梅.そして鐘楼のまわりの梅が咲き始めていました.境内は,禅寺らしい雰囲気が保たれています.案内板は最小限で注意書きがほとんどないことも,雰囲気を保つのに役立っていると思います. この寝ぬる朝明の風にかをるなり軒端の梅の春の初花 源実朝

今日,関東地方は雪〜みぞれ.「南岸低気圧」の通過に伴うものとのこと.

咲き始めた梅もちぢこまっているでしょう.

 

昨日は,鎌倉東慶寺に行ってきました.

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過去は「縁切り寺」としても知られた格式のある寺院.例えば豊臣秀頼息女天秀尼の代には栄華を極めたとのこと.

現在は花の寺としても人気で,梅も境内に沢山植栽されています.

 

 

東慶寺の歴史

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開山 覚山志道尼(北条時宗公夫人)

開基 北条貞時

東慶寺鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です.女性から離婚できなかった封建時代に,当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間,縁切りの寺法を引き継いできました.

後醍醐天皇皇女が護良親王の菩提を弔うため五世住職となり,御所寺,松ヶ岡御所とも呼ばれ,鎌倉尼五山の第二位に列せられる格式の高い尼寺になりました.江戸時代初期には豊臣秀頼の息女が千姫の養女として命を助けられ,東慶寺に入寺.のちに二十世天秀尼となり,創建以来の栄華を極めました.

明治4年(1871),廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となり,明治35年(1902)に尼寺の歴史も幕を閉じました.

明治38年(1905),建長寺円覚寺両派管長 釈宗演禅師が入寺し,荒廃した当寺を復興し,中興開山となりました.師の高徳ゆえ,門下には政財界人,哲学者,文化人が多く,禅を世界に広めた鈴木大拙もその一人です.大拙はのちに当寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立し,禅文化発展の世界的拠点となりました.

かつては男子禁制の寺として,寺への出入りが厳しく取りしまわれていましたが,戦後は花の寺として境内を整備し,現在では多くの参拝客を迎え入れるようになりました.

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山門を入ったところの紅梅,白梅.

まだチラホラですが,開花していました.

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鐘楼のまわりの梅も同様.

しかし,咲き始めの梅.私は大好きです.

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山門からの道.

両側の梅はまだほとんど咲いていませんでした.

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境内は,禅寺らしい雰囲気が保たれています.案内板は最小限で注意書きがほとんどないことも,雰囲気を保つのに役立っていると思います.

 

本堂もシンプルで美しい作りです.

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重要文化財
寄木造り、彩色土紋置玉眼入り
像高134.5
鎌倉時代

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沢山の有名文化人の墓があることで知られる墓地.墓石や仏像も洗練されているように思います.

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再び入り口に戻って.

梅の古木.

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そして,山門の外の梅越しに,円覚寺を撮ってみました.

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この寝ぬる朝明(あさけ)の風にかをるなり軒端(のきば)の梅の春の初花 (金槐集・春・十六) 源実朝