日本最古の果物の一つともいえるナシ(梨,ニホンナシ).
縄文,弥生の遺跡からも出土し(データベースれきはく),日本書紀,正倉院文書にもその記載があります.
ただし,当時は,現在私たちイメージする「果物」ではなかったでしょう.
日本書紀の記述では,持統天皇が詔を発して,梨を植えるよう勧めたとありますが,梨は五穀を助ける救荒作物の一つとみなされていました.
当時のナシは,現在の栽培種とは全く異なる「果物」だったはずですから,当然といえば当然.
ただ,「植えるように勧めた」ということは,ナシが既に栽培の対象として,一定の地位をと得ていたことになります.
https://nihonsinwa.com/page/2455.html
持統天皇(四十五)
----3月17日.詔(ミコトノリ)をして,天下に桑・紵(カラムシ=繊維が取れる植物)・梨・栗・蕪菁(アオナ=今でいうカブ)などの草木を植えるよう勧めました.これらは五穀を助けるものになる.
ナシは万葉集にも詠まれています.
万葉集の和歌では,紅葉が詠まれたり,また,「ナシ」という音を掛詞に使っていたりしています.
一方,食べる果実としてのナシは登場しません.また,中国では美しさが称賛されていた花(⇒*)を詠んでいるわけでもありません.
枕草子でも「梨(なし)の花世にすさまじきものにして近うもてなさず」とされ,梨の花は日本人にはさほど好まれなかったのかもしれません(⇒*). https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B7-770183
万葉集第十巻
https://art-tags.net/manyo/ten/m2189.html
露霜(つゆしも)の,寒き夕の,秋風に,もみちにけらし,妻梨(つまなし)の木は
;露霜(つゆしも)が降りる寒い夕方の秋風に,紅葉してしまったのですね,梨(なし)の木は.
万葉集第十六巻
梨(なし),棗(なつめ),黍(きみ)に粟(あは)つぎ,延(は)ふ葛(くず)の,後(のち)も逢はむと,葵(あふひ)花咲く
;梨(なし),棗(なつめ)と続くように,あなたに会いたい.葛(くず)のつるが別れてまたつながるように,またあなたに会いたい.あなたに逢う日は花咲くようにうれしい.
ナシが果樹園で栽培されるようになったのは江戸時代中期とのこと.
以下,現代に続くナシの文化史を小林幹夫氏の記述に沿って概観してみます.
https://core.ac.uk/download/pdf/236345436.pdf
戸時代中期になると,ニホンナシは果樹園として栽培され始めます.
新潟県,群馬県などの産地も形成され,『梨営造育秘鑑』(阿部源太夫 1782)は,棚仕立ての方法,接木,剪定,害虫,品種等につい記載.
19世紀前半ごろには日本全国で,150以上の品種が存在したとされています.
明治維新前後には優良品種が発見されて全国に広まります.
中でも,明治時代中期以降,偶発実生として‘長十郎’(明治28年頃)‘二十世紀’(明治21年?)が発見され,その後長期間にわたり,わが国の2大品種としてナシ産業を支えます.
また,品種改良事業も進み,特に菊池秋雄(神奈川県農事試験所)はナシ産業の礎を築いたことで知られ,現在でも栽培されている‘菊水’‘新高’を育成・命名しました(昭和2年).
そして,昭和14年には園芸試験場(現果樹研究所)で組織的にナシの交雑育種が開始されて多くの優良品種が育成されるようになり,幸水,豊水など現在の主力品種が開発されました.
http://www.naro.affrc.go.jp/laboratory/nifts/kih/hinshu/pear_nut/index.html https://www.kudamononavi.com/zukan/jpnpear/niitaka https://www.ibaraki-shokusai.net/brand/asian-pears/
品種別栽培面積 平成28年産
果樹茶業研究部門:ナシ(日本ナシ)品種別栽培面積 | 農研機構
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▽梨の花が歌われた長恨歌の一節がよく知られています.
歌われているのは,絶世の美女・楊貴妃.彼女が涙ぐんでいる様子が,春の雨にうたれた梨の花に例えられました.
https://manapedia.jp/text/3868
玉容寂寞(ぎょくようせきばく)涙闌干(らんかん)
梨花一枝(りかいっし)春雨(はるさめ)を帯(おぶ)ぶ
(彼女の)玉のように美しい顔はどこか寂しげて,涙がこぼれ落ちています.
(その様子は)一枝の梨の花が春の雨にうたれているかのようです.
▽梨園
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B7-770183
『唐書(とうじょ)』の「礼楽」によると,唐の玄宗皇帝は音律や戯曲を好み,長安の禁苑(きんえん)の梨が植えられていた園に養成所をつくり,俳優の子弟300人を自ら教えた.
これから梨園(りえん)の呼称が生じた.日本でも俳優や歌舞伎(かぶき)役者の社会をいう.(日本大百科全書)
▽梨壺(なしつぼ)
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B7-770183
清少納言は梨の花を余り評価していませんが,これは彼女の独特の感性によるものかもしれません.
平安時代,梨の花の美しさは一般的に認められるようになっていた可能性は残ります.例えば,内裏にも梨が植えられ,これは花を愛でてのことでしょうから.
内裏(だいり)の昭陽舎は,その前に梨を植えたので,梨壺(なしつぼ)とよばれた.
梨壺の五歌仙は赤染衛門(あかぞめえもん),和泉式部(いずみしきぶ),紫式部,馬内侍(うまのないし),伊勢大輔(いせのたゆう)の5人をいう.
また,梨壺の五人とは,『後撰集(ごせんしゅう)』の撰者の大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ),清原元輔(きよはらのもとすけ),源順(みなもとのしたごう),紀時文(きのときぶみ),坂上望城(さかのうえのもちき)をさす.(日本大百科全書)
https://kotobank.jp/word/%E3%83%8A%E3%82%B7-770183