障害者殺傷事件,きょうで二年 / 被害者と家族の二年
NHK総合1首都圏ネットワーク
7月30日月曜 午後6時10分~ 午後6時52分
【キャスター】田所拓也,合原明子,
障害者殺傷事件,きょうで二年
相模原市の知的障害者施設で46人が殺傷された事件から,今日で2年になります.現場の施設の前に設けられた献花台には,施設の関係者や近所の人たちが花を手向け,祈りを捧げていました.
事件現場から中継でお伝えします.(竹内記者)
事件が起きた相模原市の知的障害者施設,津久井やまゆり園の前です.二年前の今日,ここで,19人の命が奪われました.
あの日私は朝から,こちらに駆けつけ取材を続けましたが,消防・警察の車両が何台も並ぶ光景や,園の近くで涙を流す人たちの姿が,今も焼き付いています.二年となった今日は,多くの人たちが献花台を訪れ,犠牲となった人たちを悼みました.
事件が起きたのは,一昨年7月26日の未明.相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で,入所していた障害のある人たちが次々と刃物で刺されて,19人が殺害され,27人が重軽傷をおいました.
事件直後に,元職員の植松聖(さとし)被告(28)が警察署に出頭し,逮捕され,殺人などの罪で起訴されました.
植松被告は「意思疎通できない障害者は殺そうと思った」などと供述.
現在は,弁護側が請求した精神鑑定が続いていますが,裁判が始まる見通しは,まだ立っていません.
今日,現場の施設の前に設けられた献花台では,多くの人が祈りを捧げました.
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180726/0015427.html
別の福祉施設で働く女性は,
「同じ福祉の仕事を担うものとして,何ができるかなっというところが---」
こちらの男性(車いすに乗ったまま,献花),東京中野区の自宅からバスなどを乗り継いで訪れたと言います.
「安らかにということを伝えて---.怖い気持ちは確かにまだあるんですけど,(事件が)風化して欲しくないっていうのが思いです」
津久井やまゆり園入倉かおる院長「時間がたてば立つほど,関係者の気持ちにですね,しっかり耳を傾けて,やまゆり園として精一杯取り組んでいかなきゃいけないなって,改めてこういう所に来ると,感じます」
「黙とう」
近くの公民館では,地域の住民たちが集まり,犠牲者を追悼しました.
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180726/0015427.html
施設元職員/住民グループ・太田顕共同代表「この事件・このことを,忘れない,風化させない,後世に伝える.この目的をですね,願いを実現するために,力を尽くしていきたいと思います」
被害者と家族の二年
二年たっても遺族は変わらぬ悲しみを抱えています.
犠牲となった26歳の女性の母親が,娘への思いを記した手紙を,NHKに寄せました.
「二年も経ったのに,私の心の中は,娘のことでいっぱい.それなのに私の娘は奪われてしまい,もうここにはいない.
まだ,いなくなった実感がわかない.毎日,思い出がよみがえるけれど,一瞬で泡のように消えてなくなり,涙がこみ上げてきてしまいます」
妹が津久井やまゆり園に入所していた男性.
重傷を負った妹と同じ部屋に暮らしていた70歳の女性は,事件で犠牲となりました.男性はこの女性とその兄の姿を思い出すと言います.
「お兄ちゃん,お兄ちゃんと慕っている感じで,20歳ぐらい年上なんで,私たち兄妹も,こんな感じになるんだろうな〜とかいうふうに思ってみてたんで---」
そして,植松被告が,意思疎通できないから生きる価値がない,と語ったことについて,
「理解できないです.だからって,そんなことやることないじゃないですか.
意思疎通---言葉はないですけど,なんか意思表示してくれるんですよね」
今もお伝えしましたように,事件を起こした植松聖(さとし)被告は,意思疎通できない人間は生きる価値がない,という理不尽な理由で,多くの命を奪いました.
被告の言葉に,深く傷ついた被害者家族にとって,この二年間は,事件を乗り越えようと向き合い続ける日々でした.
事件の3週間後,重傷を負った息子を見舞う家族がいました.
尾野剛志(たかし)さんと,妻のチキ子さんです.
喉や腹など5カ所を刺されて,一時意識不明となった一矢さん(43).被害を受けたショックから,落ち着きを取り戻せずにいました.
(映像 何か文句があるように言葉を発する一矢さん.涙ぐむチキ子さん)
剛志さん「完全に情緒不安点になっている.---おまえが泣いてどうするの.一矢が泣かないのに」
尾野さんは,息子の存在を否定した植松被告の言葉に,強い憤りを感じていました.
剛志さん「おまえの言っている“障害者はいらない”というのは違うよ.障害もって生まれてこようが,命は同じなんですよ」
重い知的障害がある一矢さん.自傷行為などの行動を抑えられず,家族だけでは見られなくなったため,12歳からおよそ30年,施設で暮らしてきました.
クリーニング店を営んできた尾野さん夫婦は,仕事が忙しく,一矢さんに会いに施設を訪れるのは,月に1回程度でした.
事件のあと,尾野さん夫婦への息子への向き合い方は,変わって行きました.
別の施設に移った一矢さんを心配して,毎週欠かさず,お弁当をもって通うようになったのです.
植松被告の言葉を否定する一方で,自分達がどれだけ息子に向き合ってきたのか,自問することもあったからです.
「忙しいとき,施設に預かってもらったし,仕事もできたわけじゃないですか.『預かってもらってるんだ』って,なんか心でほっとしている部分があったしね.一矢に向き合っていなかった自分もいたから」
こうした日々を重ねること1年余り.
一矢さんは,これまでにない姿を見せ始めていました.以前に比べて,自分の意志を表すようになったのです.
剛志さん「もうちょっとくれる?ダメ?」
(映像 食べようとしていた唐揚げ?をフォークにさして剛志さんの口へ運ぶ一矢さん)
「ありがとう.おいしい」
「表情的にはいいですよね.すごく落ち着いたから」
先月,尾野さん夫婦は,地域の中で暮らす,障害のある男性のもとを訪ねました.
「こんにちは.はじめまして」
一矢さんの意志をより尊重した暮らしができないか,探りはじめたのです.
桑田宙夢(ひろむ)さん(22).重い知的障害がありますが,介助をうけながら,施設や親元を離れて,アパートで暮らしています.
施設にいた頃は,精神的に不安定で,自傷行為もあった宙夢さん.
「いただきます」(うどんを口にする宙夢さん)
三年前に,今の暮らしを始めてから,自分で意思表示をするなど,大きく変わったといいます.
介助者「これは食べる?サラダ.いる?」「いらない」
宙夢さんの母・貴江子さん「最近は落ち着いて,言葉も増えましたし,できることも増えてきたので---」
宙夢さんのような生活を,初めて目の当たりにした尾野剛志さん.地域の中での暮らしを後押しされたように感じました.
尾野さん「こうやって,じっと座っていられるのはすごいね」
母貴江子さん「変わりました.本当にこういう生活をさせていただいて,社会に出て,いろんなヘルパーさんと付き合っていただいて,経験を積んでいったのかな〜って,その成果なのかなって思います」
(映像 尾野さんにせんべいを差し出す宙夢さん)
尾野さん「ありがとう.ありがとね〜」貴江子さん「ふふふふふ」
宙夢さん「ありがと」チキ子さん「ありがと.はははは」
(お弁当を広げて食べる尾野さん一家)
二年間,尾野さんたちが毎週重ねてきた家族の時間.この日,一矢さんがある変化を見せました.
取材者「お父さん,お母さんが来てどうですか.楽しい?」
一矢さん「楽しい」
取材者「ごはんはおいしかったですか?」
一矢さん「おにぎりおいしかった」
チキ子さん「初めてだよ」
剛志さん「そうそう,初めてだよ.聞いてちゃんと答えてくれたのは!」
取材者「ほんとですか?」
チキ子さん「初めてです.びっくりしたよ.私」剛志さん「俺もだよ」
チキ子さん「このうれしそうな顔」
家族以外の問いかけに,初めて答えてくれたのです.
事件から二年経った今,尾野さんは,“障害はあってもなくても,その命を誰かが否定することはできない” と改めて強く感じています.
「はい,ありがとう.(一矢さんの頭をなでながら)」
「障害を持ってる人たちも,みんなね.意志があるし,そういう疎通は,やっぱり,こっちがちゃんと向かえあえば,ちゃんと伝わると思うんですよ.ほんとに,みんな,いきいきと生きてるんだよ,と」
障害者殺傷事件,きょうで二年
「再び横浜放送局の竹内啓貴(ひろたか)記者とお伝えします.今,事件があった施設,どのような状況にあるんでしょうか」
「今,私の後ろにある建物が,津久井やまゆり園です.建て替えが決まり,今年5月から,解体工事がすすめられています.
事件当時,ここで暮らしていた人たちは,今,横浜市内の別の施設などに,一時的に移っています.
最近は,地域の人たちと,新たなつながりをもとうと,地元の清掃活動に取り組むなど,入所者たちも一歩を踏み出そうとしています」
「19人の命が奪われた事件から二年になります.竹内さんが取材を続けてきて,今,感じること,どんなことでしょうか」
「事件は,被害にあった方やその家族,地域の人たち,そして,社会に深い傷を残したままだと感じています.
二年経った今も,犠牲者の名前は,公表されていません.これまで,取材した方々からも,『そっとしておいて欲しい』『話したくない』という言葉を,多く聞きました.私自身も含め,社会に差別や偏見が根強く残っていることが,その背景にあるのではないか,と,この二年間で感じました.
『障害のある人が暮らしやすい世の中は,全ての人が暮らしやすい』.福祉の現場で働く人から教わった言葉を,今一度,胸に刻んで取材していきたいと思います」