日本伝統の色の名前は,とても心地よい響きを持っています.
今日は茜色.
よく考えてみると,名前は知っていても,どんな色か実際はよく知らない----.
アカネ色の空.アキアカネ.--- 赤系の色ということは確かですね.
グーグルで画像を検索してみると----
パソコン/モニター経由で見た色は全くあてにならないとしても,各サイトで微妙に違っているようです.
吉岡幸雄「日本の色辞典」(紫紅社)に記載された色もこの検索した結果とはやや異なった色でした.
そして,茜色の解説は以下の通り.(見出しは私がつけたもの)
茜色とは「ニホンアカネで染めた色」
茜という色に関しては,『万葉集』に詠まれた額田王(ぬかたのおおきみ)の歌「あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る」(巻一)によってまず親しみを憶える.もう一つ,柿本人麻呂の「あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも」(巻二)もよく知られるところである.
「あかねさす」は「日」「昼」「照る」「紫」などにかかる枕詞(まくらことば)であるから,空の澄んだ日に,太陽が光り輝いて見えるような,赤にわずかに黄がさしこんだような色といえるだろう.そのような色をあらわせる色素を含んだ植物が茜である.その根は,赤く,まさにアカネである.『正倉院文書』にも「赤根』と記されており,それで染めた色が「茜色」である.
ところが世界を見渡すと,「茜」と称して染料に用いられてきた染料植物には,おおよそ4種類がある.日本ではRubia akane NAKAIという種類が使われてきた.中国においても同じで----
(中略)
ニホンアカネは,世界を席巻したインド系のアカネ(セイヨウアカネ)とは異なる.
日本や中国のものにはプソイドプルプリン(パープリン:加筆 なお,原本はプリイドプルプリンとあるが,これは印刷ミス)だけが含まれていて,インド系の赤(アリザニンが含まれている:加筆)に比べると,染め色はわずかに黄がかる.これで染めた色は「緋」「絳」とも記されているが,太陽の光輝くさまをあらわしているといわれたり,「茜さす」と詠まれた歌~すればもっとも濃い色といえるだろう.ただその名称が「濃緋」とほぼ同じであると示すと飛鳥から奈良時代にかけては,それもよしとうなずけるが,平安時代のはじめの『延喜式』 に見える「深緋」には,茜で染めたうえに紫根が加えられていて,やや紫系の茜色のようになっている.
(中略)
茜染めの技法は桃山時代以降すたれて今に至っている.
茜染の技法は手間がかかるうえに色が濁ってむずかしいところから,わが国では中世の終わり頃からしばらくの間すたれていたようで,桃山時代から江戸時代の小袖,能装束など,今日まで遺された染織品を見ても,赤系の色はいずれも紅花か蘇芳で染められたものばかりである.
古い時代の,確実に茜染といえる遺品は,東京は青梅市ある武蔵御嶽(みたけ)神社に伝えられる赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)であろう.
OMEnavi 青梅資料館 日本の色辞典(むらがあるが,左右の薄い部分は明治時代に鉱物染料を使って修復された糸が色あせたもの.古来の色はしっかり残っている NHKBS「茜の物語」解説)
(中略)
茜は最も古来からある赤い染料
古代中国では地中から掘り出した朱,そして植物染料では茜の根によって緋の色があらわされてきた.「絳(あか)き練(ねりぎぬ)なり(『玉篇』)とか「帛(きれ)の赤色なるもの」(『説文新附』)とある.それは「くん(糸偏に薰)」とも絳ともあらわされていて,その歴史は漢代をさかのぼるという.五行思想の「青,あか,黄,白,黒」の赤も,茜もしくは朱であらわしたものであるから,「赤」は「緋」に通じる.
日本においては『魏志倭人伝』に卑弥呼が魏の王に献上したもののなかに「絳青縑(けん)」(赤や青の絹布)と記されているが,絳は先に書いたように茜染の布であるから,すでにその技術が完成していたといえよう.
飛鳥時代の孝徳天皇の冠位に見られる「真緋」,持統天皇の「緋」,そのあとの「浅緋」なども,いずれも茜の根を染料として染められたものである.
吉岡幸雄氏は,古来からある染色法の復元に取り組んでいることでよく知られてり,NHKBSでも,何回か取りあげられています.
hh.pid.nhk.or.jpしかし,藍,紅,紫の復元には成功しているものの,茜は先代が研究を始めてから40年経った今も----
「日本茜は材料が大変」
「全部使い切ってるから,もう後3年かかるな」
手に入った1キロ全てを使っても絹一反染め上げるには至りません.
続きの染めは3年後.
目指すは平安の大鎧.あの鮮烈な赤.
「良い素材をたっぷり使って,たっぷりと時間をかけるということも,僕らが確立したことやな.
それと,まあ何と言うか,王道を行くというのかね.何か,簡単にやりたいやりたいと人間って思うじゃないですか.こう短く,距離を短くしたりとか,ねえ,何と言うか,こう短いところ,近道通りたいと.それやったら駄目なんです.これは.
何回も,何回も,挑戦するような気持ちで,やってないとあかんのやな」
アカネ - Wikipedia 『日本の絞り 安藤宏子の世界』 銀座もとじ
アカネ科 - Wikipedia アカネ - Wikipedia Rubiaceae - Wikipedia http://www.bergianska.se/polopoly_fs/1.68512.1325516669!/menu/standard/file/Bremer_2009.pdf
あかね /万葉集
あかねさす,日は照らせれど,ぬばたまの,夜(よ)渡る月(つき)の,隠(かく)らく惜しも 柿本人麻呂 (巻二 169)
あかねさす,日は照らせれど,ぬばたまの,夜渡る月の,隠らく惜しも
▽斎藤茂吉 万葉秀歌
日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや:埋葬までの借りの御殿)の時,柿本人麻呂の作った長歌の反歌である.皇子尊と書くのは皇太子だからである.日並皇子尊(草壁皇子)は持統三年に,薨(こう)ぜられた.
「ぬばたまの夜渡る月の隠らく」というのは,日並皇子尊の薨去(こうきょ)なされたことを申し上げたので,そのうえの,「あかねさす日は照らせれど」という句は,言葉のいきおいでそういったものと解釈してかまわない.つまり,「月の隠らく惜しも」が主である.全体を一種象徴的に歌いあげている.そしてその歌詞の混沌として深いのにわれわれは注意を払わねばならない.
この歌の第二の句は,「日は照らせれど」であるから,以上のような解釈では物足りないものを感じ,そこで,「あかねさす日」を持統天皇をたとえたてまつったものと解釈する説が多い.しかるに皇太子薨去のときには天皇が未だ即位し給わない等の史実があって,常識からいうと,実に変な辻褄の合わぬ歌なのである.しかしここは馬淵が万葉考で,「日は照らせれどてふは月の隠れるるうぃなげくを強むる言のみなり」といったのに従っていいと思う.或いはこの歌は年代の明らかな人麻呂の作として最初のもので,初期(想像年齢二十七歳位)の作とみなしていいから,幾分常識的散文的にいうと腑に落ちないものがあるかもしれない.特に人麻呂のものは句と句との連続に,省略があるから,それを顧慮しないと解釈に無理が生ずる場合がある.