晴れた日!「夕陽を見に行こう」と稲村ヶ崎まで.しかし--- 夕陽の沈む方角は,雲が多く,入日は見えそうになく,岩場から海浜公園へ移動.久しぶりに稲村ヶ崎の石碑,逗子開成中学のボート遭難碑を見てきました.日が暮れて,江ノ島灯台に光がともりました. 結局,入日を見ることはできませんでしたが,気持ちのよい夕暮れの海でした.帰路,夜の妙本寺へ.「出ていってやるか」といった感じで,クロネコが現れました.

今日も寒い1日でしたが,久しぶりに晴れた空が広がっていました.「夕陽を見に行こう」と稲村ヶ崎まで.この浜も久しぶりです.


しかし---

夕陽の沈む方角は,雲が多く,お日様が見えたのは,下の写真が最後.

 

結局,入日を見ることはできませんでした.


岩場には,カラスが来ていました.海の水を飲みに来たのでしょうか?

 

岩場から,海浜公園へ移動.

鎌倉一の絶景(晴れていればですね)と賞賛されているとともに,いくつかの石碑が置かれています.

 

 

稲村ヶ崎で最も知られているのは,新田義貞による鎌倉攻めにおける伝説ではないでしょうか.その内容を記した石碑が建てられています.

https://kamakura.press/cal/inamuragasakihi/

稲村ヶ崎

今ヲ距ル五百八十四年ノ昔 元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ

金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ 此ノ處ナリ

大正6年3月  鎌倉町青年団

 

鈴木利典氏(https://kamakura.press/)訳

今から584年年前(大正6年・1917年時点での換算)の元弘3年5月21 日(1333年7月3日)、新田義貞が(元弘の乱で)稲村ヶ崎の岬を回って鎌倉に入ろうとし、金の刀を海に投げ入れて潮が引いてもらおうと海神に祈ったとされるのがこの場所です。

大正6年3月  鎌倉町青年団

(1917年)

 

これも広く知られている痛ましい事故の犠牲者の像も置かれています.

逗子開成中学のボート遭難碑です.

建立の趣旨は横側に記されています.

 

逗子開成中学のボート遭難碑

https://www.zushi-kaisei.ac.jp/news/2014/01/post-167.html

みぞれまじりの氷雨が降りしきる この七里ヶ浜の沖合いで ボート箱根号に乗った逗子開成中学校の生徒ら12人が遭難 転覆したのは 1910年(明治43年)1月23日のひるさがりのことでした

前途有望な少年達のこの悲劇的な最期は 当時世間をさわがせました……が、その遺体が発見されるにおよんで さらに世の人々を感動させたのは 彼らの死にのぞんだ時の人間愛でした……

友は友をかばい合い 兄は弟をその小脇にしっかりと抱きかかえたままの姿で収容されたからなのです

死にのぞんでも なお友を愛し はらからをいつくしむ その友愛と犠牲の精神は 生きとし生けるものの理想の姿ではないでしょうか

この像は「真白き富士の嶺」の歌詩とともに 永久にその美しく尊い人間愛の精神を賞賛するために建立したものです

1964年5月17日 逗子開成交友会・鎌倉開成会

 

正面は,円覚寺管長により揮毫された「真白き富士の嶺」の歌詩.

 

真白き富士の嶺 緑の江の島

仰ぎ見るも 今は涙

歸らぬ十二の雄々しきみたまに

捧げまつる 胸と心

 

ボートは沈みぬ 千尋ちひろ)の海原(うなばら)

風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に

力も尽き果て 呼ぶ名は父母

恨みは深し 七里ヶ浜

七里ヶ浜の哀歌/真白き富士の嶺  詞 三角錫子  曲者 ジェレマイア・インガルス)

youtube

 https://www.youtube.com/watch?v=7aGOdZXwKng

https://www.youtube.com/watch?v=T4d6rk2jDQk

 

 

日が暮れて,江ノ島灯台に光がともりました.

入日を見ることはできませんでしたが,気持ちのよい夕暮れの海でした.

 

江ノ電に乗って鎌倉へ.

夜の妙本寺に寄ってみました.

クロネコさんは?

 

「出ていってやるか」といった感じで,現れました.

 

夜の居場所は,決めていないようです.

今晩は凌霄花ノウゼンカズラ)の根元でお休みでしょうか?