3回にわたってお届けするダイジェスト版「没薬(もつやく)になったミュラ」(オウィディウス「転身物語」)
今日は最終回.
転身物語
田中秀央・前田敬作訳 人文書院
巻一〇 七 没薬(もつやく)になったミュラ (ミルラ)
ダイジェスト(下)
ミュラは三度つまずいた.この不吉な前兆は,思いとどまれという警告であったし,不吉な梟(ふくろう)も,三度死を告げる啼き声によって警告を与えた.しかし,かの女は,歩みを止めなかった.
暗い宵闇のために,羞恥心が鈍くなったのである.左手で乳母の手にすがり,右手で暗い夜道をさぐっていった.
ついに,かの女は,部屋の入口にふれた.扉があけられ,室内につれこまれた.と急に脚がひきつり,膝がふるえ,血の気もうせて,前にすすむ勇気がなくなってしまった.罪業に近づけば近づくほど,おそろしい気持ちでいっぱいになり,自分の向こうみずを悔い,できればこのままこっそりとひきかえしたいとも願った.
しかし,乳母は,ためらうかの女の手を引いて寝台に近づけ,かの女をその父にひきわたすと,『さあ,キニュラスさま,お受取りくださいませ.この娘は,あなた様の者でございます』といって,ふたりの呪われた肉体を結び合わせた.
----中略
ミュラは,父の胤(たね)をうけて部屋から出ていき,その呪われた胎内におそろしい胤をやどし,恥ずべき罪の子をはらんだのであった.
二人の罪業は,翌晩もまたおこなわれた.しかも,それが最後ではなかった.
キニュラスは,いくどかその腕に娘を抱いた後,自分の相手がどんな女か知りたいとおもうあまり,ついに炬火(きょか/こか たいまつのこと)をもってきて,おのれの罪とおのれの娘とを見てしまった.彼は痛恨のあまり口もきけず,そばにかけてあった剣をきらりと引き抜いた.
ミュラは,逃げだしたが,あやめも分かぬ夜陰のおかげであやうく死をまぬがれた.そして,広い山野をあちこち歩いたあげく,ついに棕櫚のしげるアラビアとパンカイアの地とを去った.
こうしてあてどなき流浪の旅のあいだ,に九度目の盈虚(えいきょ 月の満ち欠け)を見たが,ついに疲れはててサバ(今のイエメン地方. 没薬の原産地とされる)の地に足をとめたとき,胎内にやどした子をこれ以上持ちこたえることもならないありさまであった.
かの女は死をおそれながらも,生きることにも倦みはてて,なんと祈るべきかもわからないままに,つぎのように祈った.
『神々さま,もしどなたか罪を悔いる者の祈りに耳をかたむけてくださる神さまがございましたら,わたしの願いをお聞きくださいませ.
私は運命に甘んじております.どんな悲しい罪もいといませぬ.けれども,生きながらえてこの世の人びとを怒らせ,死んではあの世の人たちの怨みをまねいたりすることがないように,どうぞわたしをどちらの国からも追いはらってください.
どうかわたしを別の姿に変えて,生きるとも死ぬともつかぬ状態にしてくださいませ』
さいわいにして,悔いる者の祈りにも耳をかたむけてくれる神があった.すくなくもかの女が祈っているあいだからすでに,足は土におおわれ,足指のさけた爪からは,すらりと高い幹をささえる根がななめに伸びだしたからである.
----中略
こうしてミュラは,その肉体とともにこれまで持っていたすべての感覚を失ったが,それでも涙をながしつづけていて,樹皮のあいだからそのあたたかい滴流(しずく)がしたたりおちる.
この涙こそ,貴重なのである.この木からにじみでる没薬(ミルラ)は,いまもかの女の名前を持っていて,人びとは世々かの女のことを語り伝えていく.
了
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