阪神・淡路大震災から26年目の今日.
震災の記憶が風化し,関連した報道が少なくなる中にあって,NHKが二つの好番組を放映していました.
一つは10年前のドラマの再放送.
阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ その街のこども - NHK 阪神・淡路大震災15年 特集ドラマ その街のこども | NHK放送史(動画・記事)
番組の紹介文:2010年1月16日、新神戸駅で偶然知り合った勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)。ふたりには、誰にも言えず、抱え続けてきた震災の記憶があった…。震災15年目の朝を迎えるまでの一晩の神戸を舞台に“語れずにいた想(おも)い”が不器用にあふれだす。脚本は映画「ジョゼと虎と魚たち」の渡辺あや。神戸で学生時代を過ごした渡辺、子どものころに震災を体験した森山未來と佐藤江梨子が、リアルな感情で挑む。
私は全く知らずにいたドラマ.
深夜の放映を録画して,余り期待せずに見始めたところ---
ぐいぐい引き込まれあっという間の74分.
“神戸で学生時代を過ごした渡辺、子どものころに震災を体験した森山未來と佐藤江梨子が、リアルな感情で(NHK紹介文)”挑んだドラマは,飛び抜けた質にまで磨き上げられていました.
初回放映時に評判を呼び,異例の劇場公開もされていました.
もう一つの番組は,
「巨大地震と“未治療死” 〜阪神・淡路から26年 災害医療はいま〜」 - NHKスペシャル - NHK
“病院まではなんとかたどりついたけれども,満足な治療を受けられずに亡くなってしまう「未治療死」”をとりあげた好番組.
冒頭から約1/3を再録します.
26年前の今日(1995年1月17日),日本の災害医療は,余りにも厳しい現実を突きつけられました.
6434人が犠牲になった阪神淡路大震災.
(当時の病院内映像)
「助けられる人を助けないかん.やめなさい.ストップ.次の人にかかろう」
一命を取り留めたにもかかわらず.適切な医療を受けられずに亡くなった「未治療死」が相当数にのぼったのです.
最新の研究でも未治療死の課題が明らかに.
南海トラフ巨大地震で8万人以上が犠牲になるという試算が出たのです.
試算した医師「未治療死というのは,絶対に起こしてはいけない.この問題は決して看過することはできない」
今後直面する巨大災害で,医療の崩壊を食い止めるために何ができるのか.
阪神淡路大震災をきっかけにつくられたDMAT(ディーマット)です.
発災直後に全国から駆けつけるこの医療チーム.AIの導入で更に進化を続けようとしています.
巨大災害の時,何処に医療が必要か,瞬時に判断し,人や物資を届けようとしています.
そして今
DMAT事務局医師「災害時には情報共有が命になってきますから,判断するツールとして役に立ちます」
今,危惧されるのは,コロナ禍と巨大災害の複合災害.より厳しい状況を想定した議論も始まっています.
「ケガとかで,今すぐやらんと,その場で死んでしまう人らを最優先」
「人を増やすって,そんなにたやすくできない.今,いてる人たちが,どれだけの患者さんを受け入れられるのか」
救えるはずの命,未治療死を食い止めるためには何ができるのか.阪神淡路大震災から26年.日本の災害医療の現在地を見つめます.
巨大地震と未治療死
〜阪神・淡路から26年 災害医療は今
去年11月,災害医療に携わる医師やデータサイエンスの専門家による新たなプロジェクトが始まりました.
テーマは「未治療死」.
災害時,一命を取り留めながらも,その後,必要な治療を受けられずに亡くなることを指します.
「入院もできない,搬送もできない,処置ができないまま死亡に到る未治療死の方が,---」
布施さんが未治療死をテーマに据えたのは,そこに救えたはずの命があると考えたからです.
阪神・淡路大震災で犠牲になった6434人の内,地震による家屋の倒壊などで亡くなった直接死は,およそ85%にぼります.
しかし,直接死を詳細に検証すると,病院に搬送された時点で必要な治療を受けていれば命を落とさずに済んだケースがあったことが見えてきたのです.
布施教授「あの阪神・淡路大震災の教訓を,これからも生かしていかなければいけない.病院まではなんとかたどりついたけれども,満足な治療を受けられずに亡くなっていった患者さん,未治療死の患者さんがおられるのではないか.その問題を決して看過することはできない」
病院にたどりつきながら医療の手が届かずに亡くなる未治療死.
その現実に直面した遺族がいます.
「コーヒーとタバコがすごい好きだったので」
西宮市に住む横山則子さんです.
「これが残ってたものなんです」「これ,全部ご主人の」「そうです.主人を感じるものと言ったら,ほんとうにこれだけですもんね」
26年前のあの日,横山さんの住む地域は,壊滅的な被害を受けました.
木造二階建ての自宅は全壊.横山さんと二人の娘は無事でしたが,1階で寝ていた夫の吉孝さんは,崩れた家の下敷きになりました.
地震からおよそ8時間後.吉孝さんはレスキュー隊によって,救出されました.右半身に大けがを負っていたものの,会話ができるほど意識はしっかりしていました.
則子さん「『大丈夫?』って言ったら,『うん大丈夫』とは,何回か言っていましたけど.ほんとに出して頂いたときには,どんなにうれしかったか.助けて頂いて,その時,おかげでよかったなって思って」
吉孝さんが運び込まれたのは,市内の民間病院でした.
則子さん「外見変わってないみたいな---.多分あのあたりから入ったような」
一命を取り留めたと安堵したのもつかのま,院内に入ると,想像を絶する光景が広がっていました.
則子さん「多分,戦場ってあんなんじゃないかなっていうぐらいの状態でしたね.次から次へ運ばれてきて,もう寝かせる場所もなかったので,薬もないし,注射もないし,点滴もないし.結局,何も手当てするものがないとおっしゃっていました」
発災直後,被災地の病院は負傷者が次々に運び込まれ,混乱を極めていました.
横山さんが被災した西宮市の基幹病院の映像です.
震災当日だけで300人以上のけが人が搬送されてきたこの病院.しかし,職員の多くが自らも被災.病院に駆けつけることができたのは,全体の6割に止まっていました.
更に医療を継続するために欠かせないライフラインも止まり,患者を受け入れる能力は,極度に逼迫していました.
取材者「今,患者さんはどのくらいいるのですか」
医師「患者さんは入院患者が80名ぐらいいますね.概算ですけど.もうちょっと多いと思いますけどね」
取材者「まだ,運ばれているみたいですか?」
医師「まだね,どんどん運ばれているんですけど,医療資源がもう底をついているからね.見てあげたいと思うけれども.点滴るいだとか輸液,輸血がそろそろ限界に来ていますからね.もう,これ以上ちょっと」
26年前にこのインタビューに答えた小林久さんです.
救命救急の専門医でしたが,当時はこれほどの災害を想定した備えはなかったといいます.
小林医師「時々,本当はもっとできたかな,どうかなと自問自答をくりかえすんだけどね.何にもできへんかったなぁ.自分の人生で助けるべきスキルも磨いたつもりなんだけど,いざというときに,全く役に立たなかったのはむなしいよね」
崩れた家で一命を取り留め,民間病院に搬送された横山吉孝さん.治療のための検査さえ行われず,4時間が過ぎていました,
その時,
則子さん「『苦しい』と言いだしたときに,先生に『苦しいって言ってます』って言ったら,「酸素の吸入,これをつけるぐらいしかできひんな」って,先生,おっしゃってたし,それ以外は何もできなかったと思うんですよね」
吉孝さんは,最後まで十分な医療を受けることなく,息をひきとりました.
「適切な医療を受けていれば,助かった可能性がある」.震災後,かかりつけの医師からそう告げられた横山さん.それでも,当時の病院の状態を思い出すと,夫の死を受け入れるしかありませんでした.
則子さん「自分の中で整理しないことには,どうしようもないですもんね.仕方がないと思わないと.やっぱりね,そう思わないとやってけませんもんね」
横山さんのように適切な医療を受けていれば助かった可能性のある人はどれくらいいたのか.
それを知る手がかりが,大阪大学に残されていました.
救急医学が専門の吉岡敏治さんです.
「これが資料ですね」
吉岡さんは被災地の病院に入院した患者の膨大な診療記録を調査しました.
分析したのは6107人.
その内527人が病院にたどりついた後に亡くなっていました.
詳細な検証の結果,およそ1割が救えた可能性があったと吉岡さんは考えています.
両足が家屋の下敷きになった男性.病院に搬送されたものの,薬品が不足し,治療が困難に.その後,容態が悪化し,亡くなりました.
倒壊した家の中から救出された女性.人工透析や手術を受けていれば助かる可能性がありました.
吉岡さん「医療に従事できるマンパワーと患者数のアンバランス.これが一番大きな原因で,被災地内の病院では,医療がなかなか困難になる.生きて病院に来られた患者さんは,救いうる可能性のある症例だと,我々医療人にとっては,その人たちを何とか
救いうる道を今後は求めなければならない」
病院の機能がまひし,未治療死が相次ぐ事態.
更なる医療の崩壊を招いていました.
もともとの入院患者など,支援を必要とする災害弱者にも命の危険が及んだのです.