スポーツが呼んでいる「野球とパン」 藤島 大
日本流独自の文化だ
和菓子屋は国と結びつき.パン屋なら違う.戦時下の話しではない.つい最近の「小学校道徳の教科書検定」を巡るニュースだ.
申請段階では「友達のパン屋」が物語に登場した.ところが文部科学省から「我が国や郷土の文化と生活に親しみ愛着を持つこと」の内容について「扱いが十分でない」との注文がつき,教科書会社は意をくんで「和菓子屋」に差し替えた.
スポーツ面のコラムとして,ひとまず述べたいのは,ただ次の一言である.
「ならば野球はどうなのですか」
教科書の挿絵で「生徒たちが相撲や剣道に励む姿」が大きく扱われ,よくよく目を凝らすと「野球のようでサッカーのようで実はよく分からない競技」が薄くかすれる遠景として描かれる.もはや笑い話ではないのだろう.
日本のパン屋は日本ならではのパン屋である.
黒々としてアンコを生地でくるむ.ソースの焼きそばと紅しょうがをはさむ,小麦粉たっぷりの和風カレーが主役の一角をなす.フランス人の思い描く「プーランジェリー(パン屋)」とは似て非なるものである.家の近所の調理パンは郷土の味.和菓子屋のおはぎにしても国よりも先に郷里の記憶だ.
日本の野球は日本ならではの野球だ.
上手な者もそうでない者も部活動という共同の場を生きる.大義は個の内部より集団にしばしば宿る.長時間練習で技術の細部を整えて磨く.スモールの美学.当然,日本列島にも米国流ベースボールの理論や強化法は存在する.そうだとしても,資料による1872年(明治5)年には日本に野球は伝えられており,以来,「我が国」にあって,その球史は人間の寿命より長い.
ちなみに「相撲の歴史」(新田一郎著)を引くなら,相撲を「国技」とする言説は,常設館開設の歳に国技館と命名された1908(明治42)年からである.この6年後,高校野球の甲子園大会の前身である「全国中等学校優勝野球大会」は始まっている.どちらも庶民に定着した文化である.
古今東西,国策はスポーツにつきまとう.「愛国」という同調圧力は,まず非日常の楽しみに襲いかかる.
教科書会社が「野球」の話をこっそり「国技」のそれに書き換える.まして「スノーボード」なんてもってのほか.担当者が親指を上に立てて「これににらまれるぞ」.
苦笑をともなう滑稽な場面は,油断すると,怒濤の展開で深い悲劇へと至る.
(スポーツライター)