昨日取り上げた,線路沿いのカンナ.
ここから裏道を通って旧川喜多邸:鎌倉市川喜多映画記念館にむかう道---
目立っていた花はムクゲ.
4種類のムクゲの花*に出会うことができました.
(*1種類は,見たことがないタイプで,ムクゲではない可能性が大.
ポピーにあるような花の色.花の形はムクゲの仲間=フヨウ属にみえました.葉はフヨウとは明らかに違うムクゲタイプ---.
同属ハイビスカスに最も近い.しかし,ハイビスカスを地植えでここまで大きくできる?冬越しは?)
ムクゲは大好きな花で,このブログで何回も取り上げてきました.
例えば
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/06/25/025011
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2019/06/24/014858
yachikusakusaki.hatenablog.com
現在の我が家のムクゲ.
八重咲きはそろそろお休みの時期.8月下旬〜9月にはまた咲くでしょう.
一重の薄い青花は真っ盛り.
ムクゲは,次から次へと花を咲かせます.しかし一つの花は一日で終わり.初めは気づきませんでしたが.
「早朝の3時頃に開花した花は夕方にはしぼんでしまう『一日花』」http://www.hana300.com/mukuge.html
このようなムクゲ(槿)の花を例えた熟語があります.
槿花一日の栄(キンカイチジツノエイ)
もしくは,
槿花一朝の夢(キンカイッチョウノユメ) / 槿花一朝の栄
/ 槿花一晨の栄(キンカイッシンノサカエ)
どれも同じ意味.
栄華のはかないことのたとえ.つかのまの盛り.槿花一日.
※妻鏡(1300頃か)「松樹千年終に是朽ぬ.槿花(キンクハ)一日の栄(サカヘ)に誇る事なかれ」〔白居易‐放言五首詩〕
(精選版日本国語大辞典 槿花一日の栄(キンカイチジツノエイ)とは - コトバンク )
私は今まで全く知らず,「なるほど,巧い例え!」と感心.
白居易の詩全文を知りたくなって,検索したところ---
この熟語について次のように異議申し立てをしておられる方が---.
「槿花一朝の夢とは,儚く(はかなく)脆い(もろい)うたかたの栄華を評する言葉である.ただし,この熟語は国字と同じく,本邦においてのみ流通する.花そのもの及び熟語の典故において,認識が誤っているからである」
「花そのものの認識が誤っている」:
「ムクゲとアサガオの呼び名が長い間混乱していた」という事実を指しておられます.これは私も知っていました.
問題はその次:
「熟語の典故における認識が誤っている」:
確かめてみると---この方のご指摘通り,白居易の詩文における「槿花一日」は,全く異なる意味でした.
以下に,勝手な推測を付け加えさせていただくと--
日本国語大辞典「槿花一日の栄」の項にある引用は,鎌倉時代の仏教書「妻鏡」(無住著).
無住という著者(臨済僧道鏡一円とされています)が,白居易の詩文の意味をねじ曲げて伝えたように思います.
著者無住は漢文に素養のある方でしょうから,うっかりミスは多分ない.自らの仏教思想に合わせて故意に書き換えた可能性大!
▽妻鏡の文章は
「槿花(キンクハ) 一日の栄(サカヘ)に 誇る事なかれ」
▽元の詩文の書き下し文と(解釈)は
「槿花一日,自ら栄を為す.(むくげの花は一日にして自ずからその生を全うする)」
なお,下記に,白居易詩文の全文・書き下し文・解釈を引用させていただきました.
槿花一日の栄とは - ことわざ・慣用句 槿花一朝の夢 | 井手敏博の日々逍遥
白居易「放言五首」の其の五.
泰山不要欺毫末 顔子無心羨老彭
松樹千年終是朽 槿花一日自為栄
何須戀世常憂死 亦莫嫌身漫厭生
生去死来都是幻 幻人哀楽繁何情
泰山は毫末(ごうまつ)も欺く(あざむく)を要せず,顔子は老彭(ろうほう)を羨む(うらやむ)心無し.
松樹千年,終に是れ朽ち,槿花一日,自ら栄を為す.
何ぞ須ひん(もちひん)世を恋ひ(したひ)常に死を憂ふるを,亦た(また)身を嫌ひ漫り(みだり)に生を厭ふこと莫れ.
生去死来(せいきょしらい),都て(すべて)是れ幻(げん),幻人哀楽(げんじんあいらく),何情(かじょう)に繁る(かかる).
あの雄大な泰山は少しも拘泥するところなく,夭折した顔回は彭祖の長寿を羨む心無し.
松の木も千年すれば終には朽ち,むくげの花は一日にして自ずからその生を全うする.
いたずらに世を恋しみ死を憂う必要はなく,いたずらに身を嫌い生を厭う必要もない.
生死の去来はすべて幻,されば幻なる人が哀楽するは果たして何の情なのか.
大地も草木も大自然のままにある.
人にもまた大自然なる人がいる.
然るに,多くの人は生死を憂え名誉富貴に拘泥する.
人生は夢幻の如きなるに,人々が哀楽ばかりしているのはどういうわけなのだろうか.
大いなる泰山は,些細なものであっても,いい加減に扱ったりはしない.天才顔回は夭折したけれど,八百の生を保った彭祖を羨むことなどありえない.
松の寿命は千年というが,いつかは朽ち果てる時を迎える.それに対しムクゲの花はただ一日の命ながら,その命を立派に花咲かせて全うしている.
どうして,いつも生きるに恋々として,びくびくと死を怖れるのか.あるいは,いたずらにわが身を無用なものと思って,生きていることを厭うのであろうか.
繰り返す生も死も,すべては幻にすぎない.幻に生き,幻に死ぬ人間にとって,喜びや悲しみはいかなる心に繋がるのか――どんな感情だと思えばいいのだろう.