「そんな状況で来たから,本当なら親として喜ぶべき子どもの成長を,私は、もう一人そのまま成長が止まってしまった将くんのことを思うと,優ちゃんの成長が喜んであげられなかった」「娘が『私と将くんどっちが死んだらよかった』って聞いたときに,私の中で当時,最大限に娘を愛していたつもりなんですけど,娘にそういうふうな質問されるっていうことは,娘はそんなふうには受け取っていなかったんだろうなっていうことを,そのとき初めて気がつきましたけどね」母が語る ~阪神・淡路大震災から20年~ ( 1 ) NHK スタジオパーク

母が語る ~阪神・淡路大震災から20年~ ( 1 )

第36回「地方の時代」映像祭で優秀賞に輝いた作品。阪神・淡路大震災で1歳半の双子の兄を亡くした妹が大学生になり作った母親の20年を見つめたドキュメンタリー。

NHK スタジオパークからこんにちは

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|NHK スタジオパークからこんにちは

阪神淡路大震災から,まもなく22年を迎えます.亡くなった6434人の中には一歳半の男の子がいました.

「ほら,将くんです」

高井将くん.妹の優ちゃんと双子の兄弟でした.しかし家が全壊,将くんだけが亡くなりました.

 

大学のメディア学科に進んだ優さんが,去年,卒業制作で友人(春籐未希子さん)と一緒に,母の20年をみつめたドキュメンタリーをつくりました.

(表彰式映像)アナウンス「優秀賞『母が語る〜阪神淡路大震災から20年』です」

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第36回「地方の時代」映像祭2016を開催していま…|トピックス|大学紹介|関西大学

作品は高く評価され,地方の時代映像祭で優秀賞に輝きました.

高井優さん「2年間この作品を撮るにあたって,カメラがまわってないときでも,母と亡くなった兄の話をすることが増えました.この様な機会もててとても嬉しく思います.有り難うございました」

 

あの日から22年,震災でかけがえのない命を失ったある家族のメッセージに,今日は耳を傾けてみて下さい.

 

(ナレーション 春籐さん)関西の私立大学に通う,私の友人高井優は,ことし22歳になった.私と優は三年生の時に,同じ実習,同じゼミを取った.いつも明るくてマイペース.きっと一人っ子だろう.私はそれまで勝手に思い込んでいた.でもそうではなかった.

 

(字幕)「母が語る〜阪神淡路大震災から20年」

2015年,1月17日.阪神淡路大震災からちょうど20年.追悼行事に集まった中に優とその後両親がいた.

「黙とう」

早朝,地震のあった時刻に合わせて,祈りをささげた.

 

優が生まれたのは,93年7月.大震災の1年半前だった.二卵性双生児で優には将という名前の兄がいた.

 

1995年1月17日.午前5時46分.

マグニチュード7.3の直下型の地震が,兵庫県南部を襲った.優の家族は当時お父さんの勤務地である山口県に住んでいたが,この日お母さんと2人の子どもは,たまたま西宮市の実家に帰ってきていた.川の字になって2階で寝ているときに,大きな揺れに襲われた.

母高井千珠さん地震が起こった瞬間というのは何が起こったか分からない状況で,背中が洗濯機で回されるような揺れがあって」

木造の家屋は一瞬で倒壊した.

千珠さん「隣にいた息子の『ううっ』という声が聞こえて,その時初めて,私は我に返って,息子---子どもたちのことにやっと意識が,その時点で,いったんですけど.

そのこと自体が私にとって,今も引きずっている部分なんですけど,その揺れた瞬間に,なぜ私はすぐに子どもたちのことを思わなかったかっていう.ただ揺れることにビックリして,子どもたちがどうなっているか,全くとんでたということが,トラウマになっているんですけど.

息子の『ううっ』という声が聞こえたときに,ぱっと手を横に伸ばしたら,普通だったら息子が寝ているはずなんですけど,触ったのは板というか,タンスが息子の上に倒れてきていて,その板だったんです.次に残っている記憶は,タンスを持ち上げて持ち上がらないという記憶しかなくて---.状況は,家がつぶれているっていうのは何となく分かったんです.どんなふうにつぶれているかも分からないし,もちろん,周りがどうなっているかも分からない状況で.ただ,タンスを持ち上げなきゃって言うことしか頭になくて」

 

親戚や近所の人が壊れた家の屋根瓦をはいで,3人を外に引っ張り出してくれた.

優とお母さんは無事だったが,将くんは倒れてきたタンスの下敷きになり,既に心停止の状態だった.お母さんは将くんを抱いて,病院に急行した.そこで,必死になって心臓マッサージを続けた.しかし.

千珠さん「もう絶対無理だって,これ以上やっても植物人間.もし心臓が動いても植物人間って言われたんですけど,それでもいいからって言ってたんですけれど,どんどんいろんな人が運ばれてきていて,今処置をすれば助かる人も一杯いますって.

あなたの息子はこれ以上やっても,絶対心臓は動きませんって言われて,助かる人のためにこの場所を空けて下さいって言われて.その時に初めて,これ以上---助からないんだなっていうのが分かったのと,これ以上わたしのわがままは言えないんだなって思って,止めたんですけど」

 

震災から今日までの家族の歴史を映像に残したいと優が言い出した.

大学の実習授業の最初の日だった.優が取材を担当し,私が撮影と編集を担当することになった.

そこでこの日初めて,優はお葬式の写真をお母さんから見せてもらった.当たり前のことだが,優はお兄ちゃんである将くんのことは全く何も覚えていない.また,これまで積極的に将くんや地震のことを両親に尋ねたこともない.

お母さんの話を聞きながら,優とその家族の20年を振り返る.

 

将くんの死によって,笑い声にあふれていた高井家は一変した.

お母さん,そしてお父さんは将くんの死をどのように受け入れたいったのだろうか.

千珠さん「双子だからこそ,私はつらかったんですよ.

娘の成長が.一歳半だったので,日々いろんなことを成長していく.例えば,スプーンで食べるのが上手になったり,とか,話す言葉が増えていったり,とか.できることがどんどん増えていく.一歳半までは,それがどっちが早いかなって.これは将くんが早かったけど,こっちは優ちゃんが早いねって.でも,お互いに刺激し合って,1人ができたら1週間以内にもう一人もできるみたいな.

そんな状況で来たから,本当なら親として喜ぶべき子どもの成長を,私は、もう一人そのまま成長が止まってしまった将くんのことを思うと,優ちゃんの成長が喜んであげられなかった.つらかったんですよ.このまま成長しないでって,ずっと思って.だから,おむつがとれたときも泣きましたし,何かできるたびに,喜ぶことではなくて,ただ悲しいっていう気持ちしか,私にはなかった」

双子の兄妹がいて,ある日兄だけが突然いなくなった.周りの人々は,妹の存在が,母親を慰めることになるだろうと考えた.でも,違った.その成長さえもお母さんを悲しませた.

 

「もう,その部屋にいることがつらい.

一つ一つ.例えばおもちゃも,これもあれも.例えば襖一つにしても.ここ開けて遊んでた,と.それを思い出すとそれでつらいし,台所に立てば,台所に立っている時,こうだったなって思うとつらいし.お風呂に入ればこうだったと思うとつらくて.できない状況で,でも育てないといけないということが,すごく負担で.

だからほんとうに---.どれくらいかな,夏----,半年以上はそういう状況が続いて.この子がいてくれたから生きてこられたっていうのは,もっと後の話で.最初の半年間は---,何だろう,自分自身いろんな感情があって,これがこういう(手振りで錯綜している様子を表す)状態で,息子のことしか頭にない状態だったので」

何を見ても将くんを思い出す.それが悲しみを深くする.一方で,片ときも将くんのことを忘れたくない.矛盾する二つの感情に翻弄された.

 

「息子が遊んだ公園を記録しようと思って.

ここは将くんが遊んだ公園です,とかしゃべってるんですよ.そこに娘がちょろちょろちょろちょろしてるんですね.普通だと,娘撮るじゃないですか.でも撮りながら,ここは将くんのためにいけたお花ですと,いろいろ話していて,娘の首から上が映っていないんです.明らかに,目の前に娘がいるのに,娘を撮ってなくって.その時点で私は娘を撮ろうって言う意識は全くなく,息子と過ごして場所から離れることがつらくて,それを記録してた」

(過去の映像とそ時の千珠さんの音声)「これは将くんと優ちゃんがキーホルダーを掛けて遊んだカーテンのフックです.なかなか上手に掛けられなくて,よくソファの下に落としていました.この出窓は二人が一生懸命登ろうとして遊んだ出窓です.ここに置いてあったおもちゃを将くんと優ちゃんは引きずり下ろしてだーっとこぼしていました.よくここに乗って二人はこのお外を見ていました.お外で遊んでいるお友達----」

優と将くんが1年半を過ごした山口市内の社宅を引っ越すとき、お母さんはうちの中をビデオに収めた.見えないものを捜すようにカメラはさまよい続けた.

 

「いろんな人が,もう一人いるんだからとか.

この子のために頑張って生きなきゃ.って言ってくれるんですけど.言われれば言われるほど,でも将くんは一人で天国に行って,私のこと後追いして泣いてたんで,天国で泣いてるはずだと思って.

この子にはパパもおばあちゃんもいる.だから私がいなくても,この子にはちゃんといる.

将くんはたった一人で天国で,私を捜して泣いている.だから私が行かなきゃって,ずっと思ってたんですけど.なので,そういうふうに言われれば言われるほど,心配してもらえればもらえるほど,私は気持ちは将くんにいってたんです.つらくて自殺するっていうんではなくて,独りぼっちの将くんの所に行ってあげなくちゃていう思いがあって,死にたいっていうのがあって---」

将くんを失ったお母さんは,息子のいる世界に行きたいと思った.そして,その時には娘も連れて行こうと考えた.

「この子残していけないなって思って,次に考えたのは二人で死ぬっていうことで.この子も連れて死のうって思ってて,いくつくらいかな,幼稚園へ行くときぐらいまでかな,そういうふうに本当に思ってて,主人もいらいらしているし,私もいらいらしてて.震災から3年目ぐらいが,それのピークで」

お母さんは自殺の方法が書かれている本を買い,必死で読んだという.

 

「私はすごく,主人が仕事に行ってること自体も,信じられない.

なんで子どもが死んだのに仕事に行けるのと?とか.仕事に行ける状態であることを私は信じられないし.

主人自身の性格にもよるんですけど、私が『将くんどうしてるのかな』って言ったら,『死んだら何も残らない』って言ったりとか.そういうこと主人に言われると,私がどんどんどんどん主人に対する不信感が募っていって.あげくの果てに何でこの人と結婚したんだろうというふうになって,離婚----なんで私はこんな変な人と結婚したんだろうってすごく思ってて.だから主人のために生きていなきゃって思いは全くなくて.

でも,将くんは,パパが大好きだったんですよ

パパが会社に行くって言ったら,もう玄関に行って『行かないで』って泣いて.パパが車で行くのを窓から見送るくらいパパが大好きで.だから私が離婚して,誰が一番悲しむかなって思ったら将くんかなって思って」

 

(小学校で特別授業の映像:優の父高井敏浩さん)

神戸市内の小学校で震災を忘れないための特別授業があり,お父さんとお母さん,それに優が招かれて,自らの体験を子どもたちに語った.皆,真剣に話を聞いていた.

その後,子どもたちの一人がお父さんに質問した.

「優ちゃんを悲しませないように一緒に笑っていた.そう思ったけど,本当はどうなんですか」

「なかなか鋭い観察ですね.多分お母さんが家の中で泣いていて,優ちゃんがその横で,遊んで欲しいけど遊んでくれなくて.そういう空間があるんですよね.

ママはママで悲しみたいとき悲しめばいい.でも子どもは遊びたい.そうしたら子どもは外に連れて行く.連れて行った先でパパが泣いたらまた同じことになる.場所と時間を区切って,ここでは子どものために笑顔で遊んであげようと思った.

秘密が一つだけあって,将くんが生きてたときの公園に優ちゃんを連れて行って,一回だけ泣きました.多分誰も知らない」

てれ屋のお父さんは,これまで将くんの死について,ほとんど語ったことがない.真剣な子どもの質問に,心を動かされたのだろうか.優にとっても父親の深い悲しみをかいま見た一瞬だった.

 

優はこれまで,お兄ちゃんや震災について知りたいと思ったことが一度もなかったそうだ.

むしろ過去から逃げてきたようなところがある.

お母さんは優の前で次々に当時のものを広げた.優にとっては初めて見るものばかりだ.

「これだ,一番始めに作ったおむつカバー.これ,これだけに生きてたね,その時,これをすることで」「これ,どうやってつくったの」「これ,クロスステッチっていう刺しゅうの仕方があるの.かばんも2人分作って」「ああ懐かしい,それ」「優ちゃんのは同じサイズなのに,優ちゃんのはいっぱい洗ったから縮んじゃったけど.将くんと優ちゃんに見立てて,こうやってアップリケを作って,名前も書いて.この時買ったんだよあのミシン.給食セットも2人分作って.スモックも作って」「あのミシンはこういうことができるんだね」「そうだよ」「懐かしい,覚えてるわ」「覚えてる?」「うん」

 

将くんのいない日々が積み上げられていく.

しかし,何年経ってもどこに行くにも,お母さんは将くんの遺影を持ち歩いた.優が幼稚園を卒園するとき,お母さんの気持ちを察した園長さんが2人分の卒園証書を作ってくれた.

「卒園証書を2人分用意してくれたんですね.高井将という名前を入れて.なんか,すごい嬉しくて,でも悲しくて.でも,卒園証書をもらったのが,私の中で大きな変化になったと思うんですけど.

ここまでしてもらえたら,私はもういいかなっていうか,これから小学校になって,いつまでもこんなことはできないだろうとどこか思ってたんですよ.小学校の机買ったりランドセル買ったりとかお道具箱とか,全部二つは買ったんですけど.最初の頃はみんな認めてくれても,そういう人たちばかりじゃないから.それによって娘もいろんなこと言われるかもしれないし.いつまでもできないだろうなって思っていたとき,卒園証書を頂いて.何か私の中で区切りができたんですよ」

 

小学校の入学式.

この日も将くんの遺影と共に記念写真を撮った.でもお母さんはこの頃から自分の内面で少しずつ変化が起きているのを感じたという.

「入学式に出ているときにやっぱり息子のことは思うんですけど,ああ,私,もしかして,息子が出るはずの入学式に,今出てるのかもしれないって.

本当だったら,子どもが死んじゃったら,死んだ子どもの入学式って出られないじゃないですか.

でも,娘がいてくれたから,双子だから,今,私は,息子が本当は出るはずだった入学式に出られるんだって.

すごい感じて.入園式の時とはまた違う感じで入学式を迎えることができて.私の中でちょっと変わってきたのは,卒園して入学があって」

 

お母さんは震災後の家族の日々を一冊の絵本にして出版した.

(「優しいあかりにつつまれて」文たかいちづ,絵ひらたゆうこ)

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優の成長ぶりも描かれている.八歳になった優がお母さんに話しかけている.

「しょうくんとゆうちゃん,どっちがしんだらよかった?」

「自分が生きることに必死で,娘のことは全く意識がないまま最初の頃過ごしていて.

娘が『私と将くんどっちが死んだらよかった』って聞いたときに,私の中で当時,最大限に娘を愛していたつもりなんですけど,娘にそういうふうな質問されるっていうことは,娘はそんなふうには受け取っていなかったんだろうなっていうことを,そのとき初めて気がつきましたけどね」

 

 (以下続く)

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