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「(東日本大震災で家族を失った人のインタビュー映像をみて)助けられなかった思いとか,自分が生き残ってしまった思いとか,そういうものも含めて,もう全部,当時に戻ってしまう」「悲しまなきゃいけないって思ってたんですよ.----今思うのは----息子のことや娘のことを思って,楽しく生きていこうって思うことも,大きな意味で,息子や娘への思いっていうこと」母が語る ~阪神・淡路大震災から20年~ ( 2 ) NHK スタジオパークからこんにちは

テレビ ドキュメンタリー,情報番組,ニュース等 震災・災害/公害・環境問題

母が語る ~阪神・淡路大震災から20年~  ( 2 ) 

第36回「地方の時代」映像祭で優秀賞に輝いた作品。阪神・淡路大震災で1歳半の双子の兄を亡くした妹が大学生になり作った母親の20年を見つめたドキュメンタリー。

NHK スタジオパークからこんにちは

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母が語る ~阪神・淡路大震災から20年~ ( 1 ) NHK スタジオパーク からこんにちはyachikusakusaki's blog

「しょうくんとゆうちゃん,どっちがしんだらよかった?」

 

その言葉はやはり胸に刺さりましたか?

母高井千珠さん「はい,ささりましたね.でも,目の前で言われているので,答えなきゃって思って.で,その時に,当然ですけど,将ちゃんが生きていて,優ちゃんが死んで欲しかったとは思ってないわけですよ.どっちも生きてて欲しかったとしか,私は言えなかったんですよ」

優さん「無意識なもんで,あまり記憶にはないですし,どういう感情で言ったのかもあまり覚えてないですけど.なんだったのかな.私って言って欲しかったんだろうなって思います.どっちが生きてたらよかった?私の方が生きてて欲しかったんだろうと思うんですけど」

子どもの無邪気な一言.優には責める気持ちなど全くないが,お母さんにはその言葉が刺さった.

 

千珠さん「私が死ぬことを選択しなかった一番の理由は娘がいたから.そういう意味で当時はいなかったら死ねたのにって本当に思ってたから,あの----何だろう----.5年とか10年立ってた頃は分かっていましたけれど,この子がいたから私は死なずに済んで,今,いる.その選択がよかったと,私は,あの時の精神状態では思えなくて.死ねたら本当に楽だなって思ったし,なんで生きていないといけないんだろうとか,なんであの時私も死ななかったんだろうとか,そういうことをずーっと思っていて,今も,何にも,もし娘もいない,親もいない,って思ったら,生きる意味って見いだせない.20年経っても,娘がいるから,私は,やっぱり娘がいるから,私は生きているなっていうのが,すごくあるんですけど」

 

(西宮市震災慰霊碑)

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夏,家族で震災慰霊碑を訪ねた.こんなふうに3人でここに来るのは,もう何度目だろう.亡くなった人の名が刻まれている中に、高井将の名前もある.もし双子でなかったら,お母さんの記憶の中では,一歳半のままだったはずだ.でも,実際には,お母さんはいつも成長していく優の横に同い年の男の子の姿を見続けている.

優さん「反抗期が,私,14歳なんですけど,中2.中2から美術部に入りまして,こう言っては,あれなんですけど,部活行かずにゲーセンに入り浸って,怒られるだろうなっていう感じなんですけど,それで過保護なんだろうなって---.それもあって嫌だったのかなと思うんですけど.将くん,死んだことによって,親が過保護になっているんですよ.私に対して.すごいそれが嫌だっていうのもあるんで」

千珠さん「今振り返れば,私が娘に気持ちがいきたかった---息子の思いがいっぱいあって,娘に『どっちが死ねばよかった?』って言われてから,私は娘の方へがーっと気持ちが全部.そこでちゃんとしてあげなきゃ,娘のことを,って思ってきて,その反発が多分思春期の娘にとってはうっとうしくって.それが高校二年の時にちょっと楽になりました.もう大人かなって思ったので」

 

震災で長男を失い,家族の真ん中にぽっかり大きな穴が開いた.そんな家族は他にも沢山ある.でもそう考えても慰めにはならない.お母さんはそこから抜け出せず,ずっともがき続けた.そして優はそれを見ないようにして,ここまで生きてきた.

 

2011年3月11日 東日本大震災 

(映像 大槌町「うわー!来た」--「うわー,家がながされてる」)

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大槌町 津波 画像 - Google 検索

2011年3月,未曾有の災害が,再びこの国を襲った.地震津波,そして原子力発電所の事故が大きな被害をもたらした.

千珠さん「最初は,津波の映像だけだったんですけど,だんだん,家族を失った人へのインタビューが.インタビューしている人,泣いている人を見ると,その人が私になるんですよ.だから助けられなかった思いとか,自分が生き残ってしまった思いとか,そういうものも含めて,もう全部,当時に戻ってしまう.要するにフラッシュバックってああなんだろうなっていう.光景だけじゃなくて,感情もそういうふうになってしまって.

ボランティアしなきゃ,何かしなきゃって思って.救援物資を送るボランティアをしたりとか,それで,気が紛れていたんですけど.実際に被災地に行って,向こうで,がれき撤去とかいろんなことをしたんですけど.日程的に向こうで動ける時間というのは2日間ない位なんですよ.そうすると,一つのおうちのお庭のがれきをどけるのが精一杯で,まだ,みんな困っている人いるんですけど,帰らないといけなくて.

それが自分には何もできないって.自分の力は全然役に立たないっていうふうに思って.帰ってきてから,ばーっていろんなものが出てきて.それが日に日にひどくなっていって,夢に出てくるんですよ.息子が死んじゃったとき,夢の中で再現したりとか,失って欲しくない娘まで,そこで死んじゃうっていうような状況が続いて.しばらくカウンセリングは,娘が反抗期の時に行ってたんですけど,ちょっと休憩していたんですけど.もう一回行って話を聞いてもらって,そこで治療をしましょうっていうことなんですけど.

でも,だんだんひどくなって,ヘリコプターが飛んでて,それが墜落するんですけど.私,今まで飛行機が墜落する夢はみるんです.どっか遠くのほうに墜落するんですけど.ばーっとこっちに墜落して,プロペラがばーっと回ったまま,家に突っ込んできて皆が怪我するっていうような夢を見はじめて.もうこれは絶対無理って思って,それでカウンセリングを再開しました」

 

お母さんは再びカウンセリングを受けることになった.

そこでは自分が見たくないもの,避けているものを(映像:将くんの骨壺を20年ぶりに骨袋から出した),あえて直視するという治療法が採られた.将くんの遺品や将くんの映っている映像など,これまで高井家で封印されてきたものに向き合うことになった.

千珠さん「カウンセリングの中で,治療する中で,認知行動療法っていって,つらいことをやることで,ちょっとずつ慣れていきましょうっていう治療なんですよ.

一番私がつらいって挙げたことはビデオを見ること.絶対できない,したくもないって思ってたんですけど.それを,治療する中で,先生といろんなやりとりがあって,見なきゃいけないのかなって思い始めて.いつかね.今じゃなくていつかは見ないといけないのかなーって思ってるときに,たまたまいろいろあって,見ることになったんですけど」

 

将くんと優が楽しそうに遊んでいるビデオ映像(1994年12月).

将くんの死後,ご両親も,そして優も,この時まで一度も見たことがなかった.

千珠さん「もう絶対,一生見られないって思ってた息子の映像をみることになったんですけど,それを一緒に見たんですよ.

娘も.で,見たときに初めて娘が言ったのは,『将くんって本当にいたんだね』って.『ママの想像の中の人物かと思ってた』って.だから,『本当に将くんっていたんだね』って話をして,『可愛いね』って言って,そこから将くんへの思いがすごく娘は強くなる.それまでも『いたらいいいのにな』とかいろいろ言ってたんですけど.実際に小さい2人がいる映像を見て,将くんって,本当にいて欲しかったなって多分思ったと思うんですよね」

優さん「あまり動いている将くんがなかったので,自分と一緒に将くんが動いているっていうのを見て,いたんだなっていうのを,そのとき,わりと初めて,改めて実感したっていう感じです.いた可能性があったなら,ずっと一緒にいたかったなって思うようになりました.大学で2人暮らしをこの辺でしてみたいな,っていうのもありましたし,2人でどっか行ったりとかもしたいなっていうのが,大学に入ってから,自分でいろいろできるようになってから,思いました」

 

「娘にはいつか何もかも話したいとずっと思っていた」とお母さんは私たちに語った.「これで少し重荷を下ろすことができた」とも言った.一方,優にとってはどうなのか.これから長い時間を掛けて,古い荷物を解くように,母の言葉をかみしめていくのだろう.

優さん「父は,あまり将くんの話をしないんですよ.しないから本当に将くんのことを悲しんでるのかなと思うことも多々あるんですけど,やっぱりそれは母親と父親の違いっていうことで,それなりに乗り越えてきているんだなと思うんですけど.

将くんの話を振らないようにしてますね,父には.『もう過ぎたこと仕方ないじゃない』みたいなこと言うんで.そういうのが乗り越え方なのかなって思ってます

母,お母さんは,将くんのために何かをすることによって,ボランティアとか絵本作ったりすることによって,将くんのために何かをして,それで乗り越えている感じがします」

 

双子の妹,でもお兄ちゃんを震災で亡くしたと言われ続けて20年がたった.

優さん「小中学生のときは,特別視されるのがわりとよかったので,嫌だなとは思わないですけど,こういうふうに,改めて自分,今みたいな感じで向き合うと,何も思ってないっていうか,1歳半でいなくなったので、一人っ子のつもりなんで,どうだった?って言われても,別に一人っ子だしっていう感じですし.悲しいですけど,いてほしいですけど.最近,いくら思ってもいないものはいないし,生き返らないしっていうのが分かったんで.やっと」

千珠さん「死んじゃっても,姿が見えなくても,親にとって子どもは子どもであって,忘れることは絶対ないし,ただ住んでる世界が違うだけで,私は2人の子どもを産んで,2人のお母さんであるとずっと思っていくし.最初は悲しむこと---悲しまなきゃ息子のこと思っていない,悲しまなきゃいけないって思ってたんですよ.息子が死んじゃって笑顔になってはいけないとか,楽しく生きちゃいけないとか.けど,今思うのは悲しむことだけが息子を思うことじゃないというか,息子のことや娘のことを思って,楽しく生きていこうって思うことも,大きな意味で,息子や娘への思いっていうこと」

 

消えてしまった小さな命.残された人はいつまでも心引かれ,そこから離れられない.時間では消せない悲しみがある.優が,なぜ今,家族の記録を映像に残したいと思ったのか.社会に出る前に双子の妹としてけじめをつけたいと思ったのかもしれない.優しい優のことだから,お母さんにもうそろそろ将くんから子離れして自分たちの人生を楽しんで下さい,と言いたかったのかもしれない.

この映像は大人になった優から,お母さんへの心を込めた贈り物である.

私はそう考えている.