沢山の栗が,青果売り場に並ぶ季節.
私が追っかけている番組; 梅沢富美男と東野幸治のまんぷく農家メシ!も,選「くり~埼玉県日高市~」として,栗を取り上げていました(先週10月13日).
http://www4.nhk.or.jp/manpuku/3/
このブログでも何回か取り上げた栗.
https://twitter.com/hidakacity_pr/status/945490395101663232
改めて簡単にまとめてみよう,まずは,縄文〜奈良時代の遺跡/文献から.
とはじめたのですが,---.時間がない中,“まとめ”と呼べるものになるかは不明.
栗 基本情報1 日本のクリ第一回
栗は,縄文期の日本人にとって,もっとも大切な食料の一つ.
“縄文初期にはそのまま食べられる栗とクルミが主食”.
この後にあく抜き=灰を加えて煮る,の技法を学んで,ドングリやトチの実が食べられるようになって,人口の増加につながった.
とのことです.
実際,縄文遺跡からは,数々の植物が見つかっています.
歴博「日本の遺跡出土大型植物遺体データベース」
によれば,
「クリ」は953件登録されていて,時代としては,縄文時代前期の遺跡からも見つかっています.
ちなみに,「トチ」で検索しても903件がヒット.
しかし,こちらは,縄文時代前期末葉(三内丸山遺跡等)が最古.
奈良時代に入っても,栗は,食料として重要であり,時の政府によって,「五穀を助けるもの」として,その栽培が奨励されています.
https://nihonsinwa.com/page/2455.html
持統天皇(四十五)桑・紵・梨・栗・蕪菁を植えるよう勧める
詔(ミコトノリ)をして、天下に桑・紵(カラムシ=繊維が取れる植物)・梨・栗・蕪菁(アオナ=今でいうカブ)などの草木を植えるよう勧めました。これらは五穀を助けるものになる。
丙午、詔令天下、勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木、以助五穀。
栗は,身近で好ましい食べ物.その姿形も美しく,歌の中にも読み込まれます.
山上憶良の有名な一首.
瓜食(うりは)めば, 子ども思ほゆ,栗食めば,まして偲(しぬ)はゆ,いづくより,来り(きた)しものぞ,目交(まなかひ)に,もとなかかりて,安寐(やすい)し 寝(な)さぬ 山上憶良 (第5巻-802)
甜瓜を食ふと,子どもが思い出される.栗を食ふと尚更思ひ出される.さうした風に,何につけても,思ひ出される子どもといふ者は,いったいどういふ処から(ところから)どうしてやって来たものであるか知らぬが,目の間に,心もとないばかりに,始終ちらついていて,安眠をばさせないことだ. (折口信夫 口語万葉集)
古事記では,栗は三回取り上げられていますが,いずれも食べ物としてはなく,比喩的に読み込まれているようです.山上憶良の歌以外,万葉集では“三栗”が,「中」にかかる枕詞とされていますが,古事記の歌もほぼ同じ形式で用いられています.
そのうちの一つを三浦祐介氏の口語訳(口語訳古事記)で
古事記 人世編その五
欲しいと思っていた女子を,ほかの男に先を越されて悔しがっている二つの歌の前半部分.
秋の実りを言祝ぐ宴を和らげようと,大君が歌ったとされています.
その折に,大君(応神天皇)は歌を歌うた.
さあいとしい子 ノビルを摘みに
ヒルを摘みにと われが行く道のほとり
かぐわしく咲く ハナタチバナは
上の枝は 鳥が咋(く)い散らし
下の枝は 人が摘んで枯らし
三つ並ぶ栗の実の その中ほどあたりの枝の
色づいたつぼみのごと 美しく輝くおとめよ
ああ,刺されば いかにうれしかろう
いざ子ども のびるつみに
ひるつみに わがゆく道の
かぐはし はなたちばなは
ほつえは とりゐがらし
しづえは ひと取りがらし
みつぐりの なかつえの
ほつもり あからをとめを
いざささば よらしな