「無属の人」と「8050問題」
「家族だけ」では解決困難 水無田 気流
「社会から孤立した中高年」を軸に,やりきれない事件が続く.五月二十八日に,川崎市で五十一歳の男が登校時間にスクールバスに乗ろうとしていた小学生やその保護者を包丁で襲い,二十人を殺傷.その後すぐに,男は自殺した.
このような事件は,社会的孤立や絶望感,長期にわたる不満により,不特定多数の人々を巻き込んだ壮絶な「無理心中」の性質を持つため,精神医学では「拡大自殺」とも呼ばれる.
類似の事件に,古くは戦時中の「津山三十人殺し」から,近年では二〇〇一年の「付属池田小事件」,〇八年の「秋葉原通り魔事件」,一六年の「相模原障害者施設殺傷事件」などがあげられる.世界中で問題となっている「自爆テロ」も,これに類する.
ネット掲示板「2ちゃんねる」の創設者・ひろゆき氏は,かつて「失うものがない」がゆえに,大胆な犯罪行為に及ぶ「無敵の人」が増えると予見.この言葉は,事件直後からネット上で話題となった.私見では,彼らは「無敵」というより「無属の人」と呼ぶべきではないか.
犯罪社会学者のジャック・ヤングは,近年の社会変化と犯罪との関係を,次のように述べた.
先進産業国では,一九七〇年初頭より以前から犯罪発生率が上昇し始め,その後景気の後退とともに加速した.
背景には,個人主義の台頭と,それにともなう「包摂型社会」から「排除型社会」への移行が指摘できる.
八〇年代から九〇年代にかけて,製造業を中心とする安定した労働市場が再編されるとともに,既存の家族関係・コミュニティーとの関係も解体・再編され,社会の分断も進んでいった,と.
ヤングの説を軸にすると,私たちは現在,三つの「排除への不安」を抱えている.
第一に,自らが労働市場から排除される不安.
第二に,人々の間から社会的に排除される不安.
第三に.これらから排除された「孤立した他者」により,犯罪被害に遭う不安.
以上である.
「不安」に具体的な対象はないが,「恐怖」はそれをもつ.
「無敵の人」は,不安を恐怖に転化し,具体化させるマジックワードかもしれない.そして「恐怖」が極点に達したとき,人々の感情的爆発が起こる.
川崎殺傷事件の犯人に対し,テレビのコメンテーターが「死にたいなら一人で死ぬべきだ」と発言し物議を醸したのは,この代表だろう.
個人的には,子どもが被害者となる悲惨な事件には,近ごろめっきり弱くなってしまった.だから同発言の「感情」は分からなくもないが,道義的には容認しがたい.
これは孤立し死を考えるほど追い詰められた人,ならびにその関係者への想像力を欠くだけではなく,社会的排除に苦しむすべての人々の現状を,「自己責任」論へと収斂(しゅうれん)しかねないからだ.
この雰囲気に呼応するかのように,六月一日,七十六歳の元農水相次官が四十四歳で引きこもりの息子を殺害する痛ましい事件が起きた.
隣接する小学校の運動会がうるさいと言う息子に対し,同容疑者は怒りが子どもに向かうことを恐れ「殺すしかない」と決意したとみられる.その絶望的な決意に,言葉を失う.
これらの事件には,高齢社会も大きな影を落とす.川崎殺傷事件の犯人は五十代の引きこもりで,同居の伯父夫婦は八十代.「8050問題」と呼ばれる「中高年引きこもりの子どもとそれを支える老親族」の家族問題でもあるのだ.
内閣府は今年三月,自宅に半年以上閉じこもっている「引きこもり」の四十〜六十四歳の人が,全国で推計六十一万三千人いるとの調査結果を発表した.
労働市場や社会関係が急速に変動する中,適応できずはじき出された人たちを支援する責任は,現状ではまず家族が負わされる.「個人的」に「家族だけ」で背負うにはあまりに重い,と言わざるを得ない.