七草がゆは,江戸時代に「人日の日」の祝いとして定着したとされていますが,若菜の汁やおひたしは,古代から重要な献立でした.万葉集には,菜を摘む歌が,スミレ菜・ヨメナを含めて数多く見られます.古事記でも,后の目をぬすんで恋人を追いかけて吉備まできた仁徳天皇がうたいます.“やまがたに まけるあをなも きびひとと ともにしつめば たのしくもあるか”

1. 七草がゆの起源と副菜としての若菜/青菜

七草がゆの起源については,ネット上でも沢山の情報が得られます.

どの記事も概ね同様で,七草がゆは,江戸時代に「人日(じんじつ)の日」(五節句の一つ)の祝いとして定着していったとしています.

 

ごせっく 【五節句/五節供デジタル大辞泉

五節句/五節供(ゴセック)とは - コトバンク

年間の五つの節句.人日(じんじつ)(正月7日)・上巳(じょうし)(3月3日)・端午(たんご)(5月5日)・七夕(しちせき)(7月7日)・重陽(ちょうよう)(9月9日)

【みんなの知識 ちょっと便利帳】五節句・五節供 **

 

人日と七草がゆ

沢山の充実した文化情報を掲載しているサイト;Blue Siginal(JR西日本)では,次の通り.

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https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/04_vol_93/food.html

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春の七草~1月7日には七草粥を~|食楽レシピ

1月7日に,春の七草を入れて食べる「七草粥」の風習は,古くは平安時代の宮中の儀式として行われていた.

『師光年中行事』には,918(延喜18)年正月7日,宮中で七種の若菜を献じたと記載されている.

それが江戸時代になり,五節句のひとつ「人日(じんじつ)の節句」の祝いとして,一般に広まったとされている.

人日とは,文字通り“人の日”.中国では,元旦から八日までの各日を,鶏・狗・羊・猪・牛・馬・人・穀を当て,その日に当たるものを大切にする風習があった.7日の人の日には七種の若菜を羹(あつもの:汁)にして食べると,邪気を祓い万病を防ぐと伝えられていた.それが日本に伝わり,もともと日本にあった穀物を取り合わせた「七種粥」に影響を及ぼし,七草粥の行事が生まれたといわれている.

粥に入れる七草には多くの説があるが,今日伝えられるのは,芹,薺(ペンペン草),御形(母子草),繁縷,仏の座,菘(かぶ),蘿蔔(大根)である. 

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この記事では,平安時代に,「七種の若菜」が,七草がゆとして供されたかどうかは,曖昧な記述になっています.

引用部分の前の文章に,米の跡が残った甕型土器(かめがたどき)と匙の出土を根拠に,弥生時代から米の炊き方は粥(汁粥)が主流であったとする説が紹介され,平安時代にも粥に入れていた可能性も示唆されています.

 

しかし,庶民は白米は貴重でなかなか食べられなかったとされており,また,若菜の食べ方としては「汁」「おひたし」などが一般的と考えられています.

嵐山町web博物館で再現した古代食は次の通りhttp://www.ranhaku.com/web04/c5/3_04.html

役所の下働き:「稗(ひえ)ご飯と青菜入りの汁、ワラビ、塩少々」

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下級役人:「主食は玄米.副食としてシジミの汁、焼き魚、青菜のおひたし」

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実際,農水省のサイトでは,「粥となったのは室町時代」とのこと.

加えて,日本の七草がゆの起源には,穀物を取り合わせた「七種粥」を挙げず,もともとあった「正月の若菜摘み」の習俗と中国の行事が合体したとしています.

(ただし,これらの記述の根拠/文献は示されていません)

 

事と食文化:農林水産省

人日(じんじつ)とは,古代中国の年中行事を記した『荊楚歳時記』に人を占う日として人日とよび,七種菜の羹(あつもの)を食し無病を願う行事と記されている.

わが国では,正月の若菜摘みの習俗と中国の行事と合体して七草粥が生まれたとされる.

この日,平安時代には七草粥は公式行事に入らないが,室町時代から江戸時代にかけて,七種類の若菜を粥に入れて食べる七草粥の風習が形を整え五節句の一つに加えられたのである.

平安時代当時は羹(熱い汁)であったが,室町時代から粥になる.

  

2. 万葉/古事記にみる菜/若菜/春菜/青菜

若菜を粥に入れて食す習慣は,室町時代から江戸時代にかけて広まったようですが,菜/若菜/春菜/青菜自体は,古代から重要な食材であることが万葉集古事記からもうかがい知れます.

 

万葉集の菜/若菜/春菜/青菜

万葉集では,巻頭歌から,いきなり「菜を摘む娘」が描かれます.

 

万葉集 巻1 -1

籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます兒(こ) 

家聞かな 告(の)らさね そらみつ大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは告らめ 家をも名をも  雄略天皇

折口信夫 口語万葉集

籠や,篦(へら)や,その籠や,篦(へら*)を持って,この岡で,菜を摘んでいなさる娘さんよ.

家をおっしゃっい.名をおっしゃい.この大和の国は,すっかり天子とて私が治めている.一体に治めて私が居る.どれ,私から言い出そうかね.わたしの家も,名も.

 

 万葉集には,この長歌も含め,春菜・若菜を詠んだ歌は7首あるそうです(たのしい万葉集 たのしい万葉集: 春菜(はるな)・若菜(わかな)を詠んだ歌 ).しかし,菜の種類はわかりません.

これら種類が不明な菜が詠まれている歌以外に,菜の種類が詠み込まれている歌もあり,2種類の菜が挙げられています.

 

一つはスミレ(菫菜):

菫(すみれ)を摘む歌が一首ありますが,これは「菫菜を摘む歌」と解釈されています.

 

万葉集 巻8 -1424

春の野に すみれ摘みにと 来し(こし)われそ 野を懐かしみ 一夜(ひとよ)寝にける 山部赤人

斎藤茂吉 万葉秀歌

春の原にすみれを摘みにきた自分は,その野を懐かしく思って一夜寝た(宿た)

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/02/17/024301

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/12/19/002827

 

 

もう1種類はヨメナ

「うはぎ」を摘む歌が二首あります.「うはぎ」は,ヨメナのこと.ヨメナの若芽は食用として好まれていたそうです.

 

万葉集 巻2 -221

 妻もあらば、摘みて食(た)げまし、沙弥(さみ)の山、野の上(へ)の、うはぎ過ぎにけらずや  柿本人麻呂

斎藤茂吉 万葉秀歌

もし妻が一しょなら,野のほとりのうはぎ(菟芽子 よめ菜)を摘んで食べさせようものを,あわれにも唯一人こうして死んでいる.そして野のうはぎはもう季節を過ぎてしまっているのではないか.

http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/04/09/010152

 

 

古事記の菜/若菜/春菜/青菜

古事記でも菜を摘む娘が描かれます.

 

三浦佑之 口語訳古事記では;

政(まつりごと)は巧みでも,女の扱いは今ひとつのオホサザキ(仁徳天皇).

大后(おおきさき)イハノヒメの嫉みで逃げ帰った吉備のクロヒメを追い,吉備まで行き着きます.

喜んだクロヒメは,熱々の汁を煮るために,山のほとりにはえている菜を摘んでいました.

大君はおとめのそばに来て歌を歌います.

 

やまがたに まけるあをなも

きびひとと ともにしつめば

たのしくもあるか

 

山の畠に 蒔いた青菜も

吉備の人と ともに摘むのは

楽しいことよ

 

 

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デジタル大辞泉ご‐せっく【五節句/五節供

五節句/五節供(ゴセック)とは - コトバンク

年間の五つの節句.人日(じんじつ)(正月7日)・上巳(じょうし)(3月3日)・端午(たんご)(5月5日)・七夕(しちせき)(7月7日)・重陽(ちょうよう)(9月9日).

 

祝祭日|日本大百科全書(ニッポニカ)|小学館

中世以後の武家社会では将軍家(幕府)の家祭が祝祭日の形になり,民間の伝統的節供行事と中国の節日儀礼を習合した形で,宮廷儀礼とは別個な行事体系が生成した.いわゆる「五節供」の制で,室町期にいちおう成立した形が江戸幕府に引き継がれ,1616年(元和2)の制令などで,いわゆる「五節供」の式日の制が確定した.

歳首(さいしゅ)(元日)をもっとも重い「式日」として,上巳(じょうし)(3月3日),端午(たんご)(5月5日),七夕(たなばた)(7月7日),重陽(ちょうよう)(9月9日)の「五節(ごせち)」を定め,そのほかに嘉定(かじょう)(6月16日),八朔(はっさく)(8月1日),玄猪(げんちょ)(10月10日)と,歳暮の諸祭日を加えた行事体系である.この行事体系は民間の古い農耕儀礼(とくに稲作)の系列とも習合しやすいものがあり,要は中国伝来の陰陽道(おんみょうどう)を媒介にして,旧来の農耕儀礼と伝来習俗との習合が無理なく行われて定着したといってよい.