インドとミャンマーの国境地帯.
川幅600メートルに及ぶ大河(チンドウィン河)と2000メートル級の山々が連なる(アラカン山系).
今から73年前,日本軍はこの険しい山岳地帯を越え,470キロを行軍するという前代未聞の作戦を決行した.目指したのはインド北東部の町インパール.
しかし,誰一人この地にはたどりつけず,およそ3万人が命を落とした.
太平洋戦争で最も無謀といわれたインパール作戦である.
日本と戦ったイギリス軍が撮影した10時間を超えるフィルムが残されていた.
3週間という短期決戦をもくろんだ作戦は,数ヶ月に及んだ.
補給を度外視しため,兵士は密林の中で飢え,病に倒れていった.
元日本兵A
「水を飲むでしょう.アメーバ赤痢で一日か二日でみんな死んじゃう」
元日本兵B
「日本人同士でね.殺してさ,(一人でいると)肉切って食われてしまう」
兵士が戦いを強いられたのは世界一といわれる豪雨地帯.
飢えた兵士たちが行き倒れた道は,白骨街道と呼ばれた.
敗走した兵士たちは,濁流の大河を渡れにまま,命を落としていった.
元日本兵
「置きっ放しで来ちゃってるから,それが一番寂しいです」
戦場の現状を無視して,作戦を強行した陸軍上層部.
戦後もその責任に向き合おうとはしていなかった.
イギリスで発見されたインパール作戦に関する膨大な機密資料.
終戦直後,連合軍が大本営の参謀,現地軍の司令官ら17人を訊問していたのである.
自らを正当化していた.
第15軍司令官牟田口廣也中将「戦況の潮目を変える,最も有効な計画だという強い信念が私にはあった」
中永太郎参謀長「インパール作戦は,いかなる犠牲を払っても精神的価値として続ける意義があった」
新たな資料や,兵士の証言から浮かび上がる,日本軍の実相.
この地で無念の死を遂げた幾多の魂は,私たちに何を突きつけているのであろうか.
この様なナレーションと証言/映像で始まったNHKスペシャル「戦慄の記録 インパール作戦」
新たな資料の発掘と調査及び証言の採取から,日本軍の実相を浮かび上がらせた好番組でした.
NHKオンデマンドで視聴できます.NHKオンデマンド | NHKスペシャル 「戦慄の記録 インパール」
戦争証言アーカイブ
[NHKスペシャル]ドキュメント太平洋戦争 第4集 責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~|番組|NHK 戦争証言アーカイブス
ともども,是非---.
この番組で用いられた新たな資料,取材は以下のようなもの.
▽「連合軍による現地軍司令官ら17人の訊問調書」
▽「約3万人といわれる死者のうち13577人分の戦没者名簿」:各戦没者の死の場所や日時の特定
▽インパール作戦「全行程」を再度取材・記録:現在の現地撮影:軍の遺品や村人の証言を撮影
▽「第15軍司令官牟田口廣也中将の遺品(肉声も含む)」
▽元兵士の多数の証言
そして,
▽牟田口司令官に仕えた斎藤博國(ひろくに)少尉が現地で綴っていた日誌や回想録.
以下,ほんの一部,斎藤博國少尉の日誌・回想録の部分のみと言っても良いものですが,再録します.
-----
1944年2月 作戦開始の一ヶ月前に,陸軍経理学校卒業したばかりの一人の若者が配属されました.23歳の斎藤博國(ひろくに)少尉.
牟田口司令官に仕えました.
今回,現地で綴っていた日誌や回想録が見つかりました.
司令部内の一挙一動を知る事ができる貴重な記録です.
斎藤少尉手記「牟田口中将は平生,盧溝橋は私が始めた.大東亜戦争は私が始末をつけるのが私の責任だと,将校官舎の昼食時によく訓示されました」
斎藤少尉手記「経理部長さえも『補給はまったく不可能』と明言しましたが,全員が大声で『卑怯者,大和魂はあるのか』と怒鳴りつけ,従うしかない状況だった」
-----
1944年3月8日 インパール作戦開始.
雨期の到来を避けるために三週間の短期決戦を想定.3つの師団を中心に9万の将兵によって実行.大河と山を越え最大470キロ.
食糧は3週間分のみ.
-----
インパールまで110キロのシンゲル一帯で最初の大規模な戦闘.1000人以上の死傷者を出す大敗北.今も日本兵の遺骨が見つかっている.
第33師団長柳田元三中将:3週間で攻略するのは不可能、作戦変更を進言
電報「敵拠点を占領するにいたらず,突進隊を玉砕に瀕せしめた.至急適切なる対策を----」
多の師団からも作戦変更を求める訴えが相次ぎました.
斎藤少尉手記「師団長と牟田口司令官のけんかのやりとりが続いた.司令官は『善処しろとは何事か.バカヤロウ』の応答だった」
斎藤少尉手記「牟田口司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり,『はい,5000人殺せばとれると思います』と返事.
最初は敵を5000人殺すのかと思った.それは味方の師団で5000人の損害が出るということだった.まるで虫けらでも殺すみたいに隷下部隊の損害を表現する.
参謀部の将校から『何千人殺せばどこがとれる』という言葉をよく耳にした」
------
1944年5月中旬(作戦開始から二ヶ月) 現場の指揮官:3人の師団長を更迭
インタンギーへ司令部を移設
斎藤少尉手記「私たちの朝は,道路上の兵隊の死体仕分けから始まります.司令部では,毎朝,牟田口司令官の戦勝祈願の祝詞から始まります.『インパールを落とさせ賜え』の神がかりでした」
-----
1944年6月雨期に入っていた.しかも記録的な豪雨(1000ミリ/一ヶ月)
6月までに死者1万人近く.
------
7月1日作戦中止.
しかし,戦死者の6割がこの作戦中止後であった.
牟田口司令官は兵士に先駆けて現場を離脱・任務を解かれて帰国.
斎藤少尉は前線でマラリアにかかり置き去りにされました.
斎藤少尉手記「密林中に雨は止まぬ.喘ぎ喘ぎ10メート歩いては休み,20メートル行っては転がるように座る.道端の死体が俺の行く末を暗示する」
佐藤哲夫元曹長証言「インドヒョウが人間を食うてるとこはあるよ.見たことあったよ.2回も3回も見ることあった.ハゲタカもそうだよ.転ばないうちは,人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども,転んでしまえばだめだ.いきなり飛びついてくる」
望月耕一元上等兵証言「(一人でいると)肉切って食われちゃうじゃん.日本人同士ね.殺してさ.その肉をもって,物々交換とか.それだけ,落ちぶれてたわけだよ.日本軍がね.友軍の肉を切ってとって物々交換したり売り行ったり.そんな軍隊だった.それがインパール戦だ」
------
チンドウィン河周辺に死者の3割が集中していました.
前線に置き去りにされた斎藤少尉.
チンドウィン河の近くで死の淵をさまよっていました.
斎藤少尉手記「7月26日.死ねば往来する兵がすぐ裸にして一切の装具を褌(ふんどし)に至る迄(まで)はいで持っていってしまう.修羅場である.生きんがために皇軍同志もない.死体さえも食えば腹がはるんだと兵が言う」
斎藤少尉手記「野戦患者収容所では,足手まといとなる患者全員に,最後の乾パン一食分と,小銃弾,手榴弾を与え,七百余名を自決せしめ,死ねぬ将兵は,勤務員にて殺したりきという.私も恥ずかしくない死に方をしよう」
------
大本営作戦課長服部卓四郎大佐証言「大本営はどの時点であれ一度もいかなる計画も立案したことはない」「インパール作戦は大本営が担うべき作戦というよりも,南方軍,ビルマ方面軍,そして,第15軍の責任範囲の拡大である」
-----
70歳を過ぎた牟田口司令官国会図書館に赴き作戦の正当性を記録に残した.
牟田口司令官「私ども,戦争当事者としてとった作戦の方針並びに指導なりが時宜に的中していたことは,事実に徹して証拠立てられた場合,その喜びはいかなるものであるかをお察し願いたい」
----
斎藤博國少尉.
敗戦後,連合軍の捕虜となり,1946年に帰国した.
その後結婚し,家族に恵まれたが,戦争について語ることはなかった.
車椅子の斎藤博國さん(96歳)「(手記を見て)良く見つけたなあ.あんまり見たくないね.あんまね〜.ああ.インパール---」
73年前,23歳だった斎藤博國少尉は,死線をさまよいながら,戦りつの記録を書き続けた.
斎藤少尉手記「片足を泥中に突っ込んだまま力尽きて死んでいるもの」「水を飲まんとして水に打たれている死体」
斎藤少尉手記「そういえば死体には,兵,軍属が多い」
斎藤少尉手記「確かに将校,下士官は死んでいない」
車椅子の斎藤博國さん(96歳)「日本の軍人がこれだけ死ねば(陣地)がとれる.自分たちが計画した戦が成功した.だから,日本の軍隊の上層部が---,うん----.
(涙,振り絞るような声で)悔しいけれど,兵隊に対する考えはそんなもんです.(その内実を)知っちゃったら辛いです」