ユリ(“山由理草” / 笹ゆり)2
イハレビコが妻としたイスケヨリヒメは,ヤマユリ(“山由理草” / 笹ゆり)が多く咲く河のほとりに住んでいました.
さて,そのイスケヨリヒメの家は,狭井(さい)河のほとりにあっての,
大君は,そのイスケヨリヒメの許(もと)に出かけていって,一夜の共寝(ともね)を楽しんだのじゃった.
そうじゃ,その河をサヰ河と言うわけはの,その河のほとりにヤマユリが多く咲いておったからじゃ.それでの,そのヤマユリの名を取ってサヰ河と名づけたのじゃ.
というのはの,ヤマユリの元の名はサヰと言うたからじゃった.
この古事記の記述は現代にも引き継がれ,イスケヨリヒメ(伊須気余理比売命 いすけよりひめのみこと)を祭神とする三枝祭(さいくさのまつり 奈良市率川神社)では,笹ゆりが供えられ,笹ゆりを手にした巫女が神前で舞を披露します.
三枝祭(さいくさのまつり) | 率川神社(いさがわじんじゃ)
イスケヨリヒメは,「神の御子」と呼ばれ,三輪山のオホモノヌシとヤセダタラヒメの娘.
オホモノヌシ(大物主)は,かつてオオクニヌシが国づくりに悩んでいたときに,美保の岬に依りついてきた神で,しばしば,女の元に依りついて子供を生ませる神(三浦祐介氏 訳註).
ヤセダタラヒメに子供を生ませた顛末について,古事記では,古代の神話ならではのストーリーが語られています.
美しきおとめが厠(かわや)で大便(くそ)まれる時に,赤く塗った矢に姿を変えまして,その大便(くそ)まりをしていた溝を流れ下って厠まで行き,おとめの秀処(ほと)をぐさりと突き刺したのです.
すると,そのおとめは驚いて立ち上がってあわてふためいたそうです.
それでも,根がしっかししたおとめで,すぐさま秀処を突いた矢を持ち来て,おのれの床のそばに置いておくと,その矢はたちまちにうるわしい男に成り変わりまして,二人はすぐに契りを交わしました.
そのおとめを妻として生ませた子というのが,その名をホトタタライススキヒメと言い,またの名は,ヒメタタライスケヨリヒメとも申します.このヒメタタラという名は,ホトと言うのをいやがって後に改めたそうです.(“三浦祐介訳・注釈 口語訳古事記[完全版]文藝春秋”)
このようないきさつで,「神の御子」と呼ばれたイスケヨリヒメ.
七人で連れだって遊んでいるところを,イハレビコのお伴オホクメが見つけ,歌で大君に伝えます.
やまとの 高佐士野を
七たりで連れ立つ おとめたち
そのなかの誰と共寝しましょうか
大君の返した歌は
ともかくも まっさきに立つ
かわいいおとめと枕を交わそう
オホクメからこの言葉を伝えられたイスケヨリヒメの謎かけの歌(冒頭の4種の鳥の名前は大きく見えるオホクメの眼の比喩とのこと)とそれに返したオホクメの歌.
謎かけには答えなければ結婚できません.
アメドリ ツツドリ チドリにシトトドリ
どうしてなの あなたの裂けた鋭い目
いとしいおとめに まっすぐに逢いたくて
わたしの裂けた目
そして,冒頭に記した場面となります.
さて,そのイスケヨリヒメの家は,狭井(さい)河のほとりにあっての,
大君は,そのイスケヨリヒメの許(もと)に出かけていって,一夜の共寝(ともね)を楽しんだのじゃった.
そうじゃ,その河をサヰ河と言うわけはの,その河のほとりにヤマユリが多く咲いておったからじゃ.それでの,そのヤマユリの名を取ってサヰ河と名づけたのじゃ.
というのはの,ヤマユリの元の名はサヰと言うたからじゃった.
----中略
後に,そのイスケヨリヒメは大君の住まう白檮原(かしはら)の宮に入ったのじゃが,その時,大君は歌を歌うての,その一夜の契りを懐かしんだ.
葦茂る原の 荒れ果てた小屋で
菅のたたみを 清らかに敷き重ね
わが二人でともに寝たおり
えろう楽しかったのじゃろの.
そうして,生まれた御子の名はヒコヤヰ,つぎにカムヤヰミミ,つぎにカムヌナカハミミ,この三柱じゃった.