ユリ(“山由理草” / 笹ゆり)  大君は,そのイスケヨリヒメの許(もと)に出かけていって,一夜の共寝(ともね)を楽しんだのじゃった.  そうじゃ,その河をサヰ河と言うわけはの,その河のほとりにヤマユリが多く咲いておったからじゃ.それでの,そのヤマユリの名を取ってサヰ河と名づけたのじゃ. 「植物をたどって古事記を読む」シリーズ

「植物をたどって古事記を読む」シリーズ 

 昨日とりあげた

ニラ(からみ)とサンショウ(はじかみ)

yachikusakusaki.hatenablog.com

に続き,今日は-- 

 

ユリ

 

古事記では,“山由理草”の名で記されています.佐韋考−山由理草之本名をめぐって(三浦佑之)

是に、その伊須気余理比売命の家、狭井河の上に在り。

天皇、その伊須気余理比売の許に幸行して、一宿御寝し坐しき。

<その河を佐韋河と謂ふ由は、その河の辺に、山由理草多に在り。

故、その山由理草の名を取りて、佐韋河と号けき。

山由理草の本の名は佐韋と云ふ> 

 

三浦祐介氏の現代語訳では,これを“ヤマユリ”と訳していますが,“山由理草”は,現在ヤマユリと呼ばれている種ではなく,ササユリをさしています.

f:id:yachikusakusaki:20201105000152j:plain

 ヤマユリの写真<1> - 育て方図鑑 | みんなの趣味の園芸 ササユリ群生地(北野農村公園「治郎兵衛のイチイ」) | ひだ荘川|荘川町まちづくり協議会

 

▽三浦氏も,別の稿(“ヤマユリの元の名はサヰ”の考察)では,“山ゆり(笹ゆり)”と記しています.

佐韋考−山由理草之本名をめぐって(三浦佑之)

 おそらく,狭井河の辺には山ゆり(笹ゆり)が多いことから,ユリ(百合)という語が導き出され,そのユリが,懸け詞がそうであるように「ユリ(後に)」という意味を連想させ,そこからユリ(後)の対になるサキ(先・前)=サイが浮上して,音の相通する地名サヰが説明されることになったのである.

 

▽湯浅浩史氏による日本大百科全書の解説では,古事記に描かれるユリはササユリであることを,次のような文章の中で明示しています.

ユリとは - コトバンク

奈良市の率川神社(いさがわじんじゃ)で開かれる6月17日の三枝祭(さいくさのまつり)(百合祭)には,ササユリを手にした巫女(みこ)がササユリを供えた神前で舞う.

祭神の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)は『古事記』によるとササユリの古名佐韋(さい)にちなむ狭井川(さいがわ)の地に住んでいたとされる”

f:id:yachikusakusaki:20201105001004j:plain

f:id:yachikusakusaki:20201105001021j:plain

三枝祭(さいくさのまつり) | 率川神社(いさがわじんじゃ)

 

万葉集の解説の文章になりますが,ヤマユリとササユリは生育する地域が異なり,関西地方でユリと書かれた場合には,その多くはササユリであることが,次のように記されています.

yachikusakusaki.hatenablog.com

山田卓三 万葉植物つれづれ(大悠社)

ヤマユリ中部地方以北に,ササユリは中部地方以西に分布します.山野のユリを詠んでいる場合.関東ではヤマユリ,関西ではササユリを指すと考えられ,「筑波嶺(つくばね)のさ百合の花---」の百合は確実にヤマユリです.

家持が越中で詠んだ百合もヤマユリですが,坂上郎女(さかのうえのいらつめ)や紀豊河(きのとよかわ)などが詠んでいるユリはすべてササユリと思われます. 

 

 

古事記では,

東征後のイハレビコ(神武天皇)の妻求めの場面で,ユリが登場します.

日向に坐したとき妻としたのがアヒラヒメでしたが,東征後求めたのはイスケヨリヒメ.

 

“三浦祐介訳・注釈 口語訳古事記[完全版]文藝春秋

さて,そのイスケヨリヒメの家は,狭井(さい)河のほとりにあっての,

大君は,そのイスケヨリヒメの許(もと)に出かけていって,一夜の共寝(ともね)を楽しんだのじゃった.

 そうじゃ,その河をサヰ河と言うわけはの,その河のほとりにヤマユリが多く咲いておったからじゃ.それでの,そのヤマユリの名を取ってサヰ河と名づけたのじゃ.

というのはの,ヤマユリの元の名はサヰと言うたからじゃった.

 

f:id:yachikusakusaki:20201105001739j:plain