こころの時代~宗教・人生~「“在る”をめぐって」1
【出演】作家…辺見庸
【朗読】ミッツ・マングローブ
辺見庸「皆さん今晩は」「今晩は」
「辺見です.あの〜,子供の頃にですね.今,老人である私のようなですね,老人の,すぐ後をですね,まねをして歩いたことがあるんですね.で,罰が当たって,同じような格好をすることになったわけです」
辺見庸 1944年生まれ.
著書に,小説『自動起床装置』(芥川賞)
ノンフィクション『もの食う人々』『1★9★3★7』など
2004年,講演中に脳出血で倒れ,右半身にマヒが残る.
「今日は,最新作の『月』について話してくれという事できたわけですけども.
自作をですね.面白いと褒めるわけにもいかない.さりとてですね.つまらないから買わない方がいいと言うわけにもいかない.という,結構,微妙な立場で,今,座っているわけです」
2018年10月末,小説『月』を刊行した.
「自分は『月』を書きましたと.書いて良かったのか,書くべきではなかったのか.
あの『月』という560枚の原稿はですね.あの事件がきっかけになってるということは間違いない.それは,私は認めなければいけないっていうふうに思うんです」
2016年7月26日 相模原障害者施設殺傷事件
アナウンサー「今日,午前2時半すぎ,相模原市緑区の障害者施設津久井やまゆり園の職員から,刃物を持った男が施設に侵入したと通報がありました.警察は,男を殺人の疑いで緊急逮捕しました.男は20代と見られ,この施設の元職員だと話しているということで,警察が詳しい状況を調べています」
アナウンサー「警察の調べに対し.意思の疎通ができない人たちを刃物で刺したことは間違いありません.障害者がいなくなればいいと思ったという趣旨の供述をしているという事です」
辺見庸『月』より
ふと目が覚める.まぶたがひらいたまま,目がさめる.
みえない.とくに何も.
いつもどおり,ごくうすく,とてもやわらかそうなマスカットグリーンのとばりだけ.
(小説『月』の登場人物「きーちゃん」は,園の入所者.
目が見えず,言葉を発せず,顔も手足も動かない.
しかし,思うことはできる)
頭蓋はまだ澄んでいる.
わたしは,マスカットグリーンの闇に,ぼんやりとうかんでいる.死んだ胎児のように.それが,私の自意識だ.
辺見庸「なぜ,ノンフィクションではなく,小説『月』を書いたのか.今日---何て言うんですか,僕がお話しする,したいことがあるとしたら,そのことだっていうふうに思うんです.
小説,ないしは,詩ですね.ポエムの.---でしかできないこととして,自由にやってみたかった.
例えばですね.ノンフィクションで,あるいは新聞とか,テレビのニュースなんかではですね.こういうことはできないと思うんですね.
死者をして語らしめる.
---ていうようなことはできないと思いますね.
あるいは
語らないものを語らしめる.
黙す(もだす)っていうか,沈黙するものをして語らしめる.
ってことは,ノンフィクションにはできないことなんだろうなっていうふうに思うんです.
動物や,あるいは意識がないとされる草や木にはですね,ほんとに意識がないかどうか.
あるいは,意識がないとされる人間には,ほんとに意識がないのかどうか.
外側から見るのではなく,内側から見るということをするにはですね,小説という手段,詩という手段を使わなければできないっていうふうに思うんです.
これは,時空間の移動とか往還をですね,自己規制しないで済むということがあると思うんです.
皆さんもそう思いませんか?ぼくらの日常っていうのは,全てが整然と時系列的に整理されて起きてくるわけでもないし,我々によって経験されているわけでもない,っていうふうに思うんです.
我々の内面にはですね,これは僕の言葉ですけど,内面の風景のですね,不意の,突然の立ち表れっていうのがあって,考えもしなかったですね.それが人間の霊妙なところだというふうに思うんですけれど.
それを小説や詩では抑制しないことができる.新聞では,それをやったら終わりですね.誰も新聞,読んでくれないわけです」
辺見庸『月』より
さとくんには,れいがいてきに,やさしい指とこころがある.
(「さとくん」は園の職員 食事や排泄など,入所者の生活を介助する)
なぜって,かれは私の〈存在しない肛門〉から,見事な手つきでとどこおった便をかきだし,少しの苦痛を与えることもなく,それらをきれいにこそげとってくれたことが,なんどかあるからだった.
マシュマロみたいにやわらかな指の腹.それは『恩寵』といいたくなるほどのやさしい感触であった.
わたしはかんぜんに緊張をとかれ,あたしの奥にひねこびて,とどこおったものを,少しずつとりのぞいてもらいながら,しばしばまどろみ,青い蝶になってそよ風にのり,空を飛ぶきぶんをあじわったものだ.
あたしはヘレナモルフォになって海原を舞った.
(「さとくん」は園の仕事を通じ「世の中をよくしなければならない」と決意する)
辺見庸「ある夏の未明にですね,青年が,重度障害者の首を刃物で斬って回る.
これがですね,悪意からじゃなくて,むしろ,善意と使命感からなされたということに,どうしても,やっぱ注目せざるをえないものがある.ぼくとしては,内心の心の沼をかき乱されるというんですか,---ような思いをしたわけです.
この異様さをどういうふうに名状できるか.
報道ではですね.例えば,どんなに間違ってもですね,実はあの容疑者である青年と同じような負の情念のようなものを,実は,この社会っていうものが共有しているんだよ,というようなことは,言うわけにはいかない.
じゃあ,あの青年の背中を押したものは何なのかっていうことを,徹底的に追求しようとはしない.
全体として,この社会というものが,あの青年を突き動かしたんではないか.
それから,生産性っていうことを言った人がいるけれども,生産性っていうような発想の中に,彼のような凶行に導いていくようなものは,なかったのか.あったのか」
続く
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