樹勢が盛んで大木になるため,神聖視されたケヤキ.万葉時代は槻(つき)/ 万葉集 とく きても,みてましものを,やましろの,たかの つきむら,ちりにけるかも 高市黒人 

卒業した小学校の校庭に,大きなケヤキ(欅)の木がありました.しかもメインのグラウンドの中に.運動会があるときには,トラックの中に欅の木が.秋の運動会の前には,落ち葉を掃いたように記憶しています.

思い起こせば,小学校のころはこのケヤキで季節を感じていたようにも--.

環境庁(当時)が平成元年に行った第4回自然環境保全基礎調査、巨樹・巨木林調査(別名、緑の国勢調査)を参考にした「日本の巨樹 ランキング TOP50」を掲載したサイトがありました.http://www.kyoboku.com/top50/

おそらく最もよく知られている巨木は縄文杉でしょうが,これは第12番目にランクされていました.

そして,1位は鹿児島県蒲生町のクスノキ,通称蒲生の大クス.幹周24.22mとのこと.

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ベストテンのうち9本までがクスノキ.トップ50中では35本(35/50).

次に多いのが杉で11/50.イチョウとカツラが5/50.その次がケヤキで3/50.

ケヤキはクスノキ,スギにはおよばないものの,巨木が多いことがこのデータからも分かります.

巨木は大事にされ,天然記念物に指定されているものも多いですね.

なぜか,環境庁の調査から漏れてしまった「東根の大ケヤキ」は縄文杉などと同じ国指定の特別天然記念物.樹高28m,幹まわり16mで樹齢は1500年以上だとか.(巨木写真 東根の大ケヤキ

大きくて美しいですね.ウェブ上で見る限り,巨木ケヤキは損傷の激しいものが多いようですが,このケヤキは最も保存状態が良いものと言って良いようです.

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国指定天然記念物とされたケヤキは15ほどあるようですが(植物天然記念物一覧 - Wikipedia),その中で唯一ケヤキ並木として指定されているのが東京府中の「馬場大門のケヤキ並木」.200本ほどのケヤキが植えられ,江戸初期のものも数本残っているそうです.(http://www.kankou-fuchu.com/entry.html?id=38209

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ケヤキは,ニレ科.ニレ科には他にエノキやムクノキがあります.

万葉時代は槻(つき)と呼ばれていました.

山田卓三先生の「万葉植物つれづれ(大悠社)」によると,

ケヤキは樹勢が盛んで大木になるため,神聖視され,その樹木の下は聖域とされました.大化元年(645年)の明日香の法興寺飛鳥寺)の大槻の下の,君臣一体となって天下を保つ誓いは有名です」

「材は堅く,木目も美しいので家具や建築に用いられます.古代では梓弓,槻弓の弓材としても用いられていたようです」

「種子は落葉につき,風で散布されます」

 

 

槻 (欅)/ 万葉集

とく きても,みてましものを,やましろの,たかの つきむら,ちりにけるかも

疾(と)く 来(き)ても,見(み)てましものを,山城(やましろ)の,高(たか)の 槻(つき)村(むら),散(ち)りにけるかも  高市黒人(巻3・277) 

疾く 来ても,見てましものを,山城の,高の 槻村,散りにけるかも 

伊藤 博 新版万葉集一現代語訳付き(角川ソフィア文庫)では

はや きても,みてましもの.やましろの,たかの つきむら,ちりにけるかも

早 来ても,見てましものを,山背の,多賀の 槻群,散りにけるかも


◎早く来てみておいたらよかったものを,山城の国の高槻の村の(注 斎藤茂吉解説では,高(たか)という村の槻の林)村の名になった槻の紅葉は,散ってしまった.

(黒人ほど,客観の動揺しない人はいない,描写の確実な人はいない.人麻呂も,この点では及ばない.叙景の歌に傑れた(すぐれた)ものの多いのは,このためである)

折口信夫 口語万葉集


◎黒人 覊旅八首の一つ、これは山城の旅になっている。原文の「高槻村」は、旧訓タカツキムラノであったのを、槻落葉(つきのおちば)でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群(こむら)をいふ成(なる)べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国綴喜(つづき)郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉(いづみ)の小菅」、「山城の石田(いはた)の杜(もり)」などあるのを参考し、「山城の高(たか)の槻村」だとした。爾来(じらい)諸学者それを認容するに至った。
 一首の意は、

もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高(たか)という村の槻の林の黄葉(もみじ)も散ってしまった

というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさりして居る。是は単に旅の歌だから自然この程度の感慨になるのだが、つまりは黒人流なのだということになるのであろう。

斎藤茂吉 万葉秀歌)

 

◎もっと早くやって来て見たらよかったのに.山背の多賀のもみじした欅,この欅林は,もうすっかり散ってしまっている.

(伊藤 博 新版万葉集一現代語訳付き 角川ソフィア文庫)