竹は秋になると葉が青々となって,筍の季節に葉を落とすやや珍しい植物.
とはいえ,はじめに季節外れの歌の歌詞への疑問から---
「ささの葉 さらさら のきばに ゆれる お星さま きらきら ---」
七夕の日に歌ったり聞いたりしていました.別に何の違和感もなく.
でも,こんな記事がありました.Y.R君は立派!
質問者: 中学生 Y.R
竹と笹の違いについて教えてください。
学校の授業で、竹の葉を笹と呼ぶと教わりました。調べてみると、竹と笹は違う植物のように思えるのですが、本当に、竹の葉=笹 なのでしょうか?
お願いします。
Y.R.さま、
先生のいうことを鵜呑みにしないという姿勢、関心です。もちろん、間違う先生が悪いという事ではありません。
さて、竹と笹ですが、どちらもイネ科タケ亜科です。成長の初期には、節に稈鞘(かんしょう)とよばれる特殊な葉(タケノコの皮)をつけます。茎が伸びた後、この特殊な葉が落ちるものをタケ類、長く残っているものをササ類と言います。大阪大学 柿本 辰男 回答日:2010-06-16
必ずしも先生が間違っているとは言えませんが(下記 山田先生の説明参照)---.
回答者の説明では「稈鞘(かんしょう)とよばれる特殊な葉」が見分けるキーになっているとのこと.竹の部位図と説明が 森林総合研究所 関西支所/竹の部位図 に記載されています.やや専門的ですが----
稈鞘(かんしょう): 通常「タケの皮」といい、節間成長を行う際に重要な役割を果たす器官です.
と書かれていました.
加えて,この図でびっくりするのは竹の地下茎の太さ!そして竹・タケノコ(筍)の生え方.
身近な竹ですが,まだまだ知らないところばかり.
このサイトはたくさんの種類の笹/竹を見ることが出来ます.足を運べば実際に見ることも.森林総合研究所 関西支所/竹見本林 竹、笹配置図
http://chitakan.com/renraku/110423mosochiku/index.html
山田卓三先生の「万葉植物つれづれ(大悠社)」の説明は次の通りです.
一般に,稈(かん)が太く丈の高いものを竹,細く丈の低いものを笹と言っています.このため万葉時代にはヤダケやメダケなど「篠(しの)」といわれるものも竹としています.もともと竹と笹の呼称は曖昧なので,笹と言って竹の葉を指すこともあります.
植物学的な分類では,皮が成長すると脱落するものをタケ,枯れるまでついてくるものをササとします.マダケ,ハチク,モウソウは三大有用竹と呼ばれますが,モウソウは万葉時代にはまだ入っていませんでした.
笹/万葉集
ささのはは,みやまも さやに,さやげども(みだれども),われは いも おもふ,わかれ きぬれば
小竹(ささ)の葉は,み山もさやに さやげども(乱れども),われは 妹(いも)思ふ,別れ 来ぬれば 柿本人麻呂 (巻2-133)
小竹の葉は,み山もさやに さやげども(乱れども),われは 妹思ふ,別れ 来ぬれば
◎自分が越えていく山一面に生えた笹が,山もとよむ許り(ばかり)に,やかましく騒いで居るが,その音にも紛れないで,私はいとしい人のこと許り思うて居る.哀しい別れをして来たので. (折口信夫 口語万葉集)
◎人麿が馬に乗って今の邑智郡(おおちぐん)の山中あたりを通った時の歌だと想像している.-----
大意. 今通っている山中の笹の葉に風が吹いて,ざわめき乱れても,わが心はそれに紛れることなくただ一向(ひたすら)に,別れてきた妻のことを思っている.
今現在山中の笹の葉がざわめき乱れているのを,直ぐに取りあげて,それにも拘わらず(かかわらず)ただ一筋に妻を思うと言いくだし,それが通俗に堕せないのは,一首の古調のためであり,人麿的声調のためである.そして人麿はこういうところを歌うのに,決して軽妙には歌っていない.あくまでも実感に即して執拗に歌っているから軽妙に滑っていかないのである.(斎藤茂吉 万葉秀歌)
◎ささの葉が風にそよいでざわざわと鳴っていても、私はあの人のことを思ってやみません、別れて来たあの人のことを。
ささは、古代から神降しのための聖なる植物とされていたようです。ささは、歌に詠まれるとき、「ささ」という音と、その風にゆれる音を意識していたのだろうと考えられています.(楽しい万葉集)
竹/万葉集
わがやどの,いささ むらたけ,ふくかぜの,おとの かそけき,この ゆうべかも
わが屋戸(やど)の、いささ群竹(むらたけ)、吹く風の音(おと)の、かそけきこの夕(ゆふべ)かも 大友家持(巻19-4291)
わが屋戸の、いささ群竹、吹く風の音の、かそけきこの夕かも
◎自分の屋敷の,少し許りのかたまった,竹を吹く風に建てる音が,微かに(かすかに)聞こえる,今日の夕暮れであることよ. (折口信夫 口語万葉集)
◎「いささ群竹」はいささかな竹林で,庭の一隅にこもって竹林があった趣である.一首は,
私の家の小竹林に,夕方の風が吹いて,幽かな(かすかな)音をたてている.あわれなこの夕がたよ
というので,これも後世なら,「あわれ」というところで,一種の寂しい悲しい気持ちである.この句は結句で,「この夕べかも」と名詞に「かも」をつけているが,これも晩景を主としたいい方で,この歌の場合はやはり動かぬものであるかも知れない.「つるばみの解洗(ときあら)い衣(ぎぬ)のあやしくも殊に着欲(きほ)しきこの夕べかも」(巻7−1314)という前例がある.
小竹(ささ)に風の渡る歌は既に人麿の歌にもあったが,竹の葉ずれの幽かな(かすかな)寂しいものとして観入したのは,やはりこの作者独特のもので,中世期の幽玄の歌も特徴があるけれども,この歌ほど具象的でないから,真の意味の幽玄にはなりがたいのであった.---- (斎藤茂吉 万葉秀歌)
◎わたしの家の小さな竹(たけ)の茂みに吹いている風の音がかすかに聞こえるこの夕方です.(楽しい万葉集)