論点 戦後75年
「コロナ禍」への視点
「生き方」を変える時期 ちばてつや 漫画家
毎日新聞オピニオン 2020年8月14日
コロナ禍の日常を,漫画家がリレー形式で短編に描く企画「MANGA Day to Day」でトップバッターを務めた.
緊急事態宣言で生活が制限され,社会が窮屈になった.読者の気持ちを癒やしたり,元気づけたりするのが漫画の役割だから,出版社の企画に賛同した.
不要不急の外出の自粛で,散歩や草野球といった日常の楽しみが制限された.仕事場の屋根裏部屋にこもって日常を描いていると,記憶がよみがえってきた.
まだ6歳だった終戦直後の旧満州(現中国東北部)で体験した,息を殺すように家族で屋根裏に潜んだ日々のことだ.
父は奉天(現瀋陽)の印刷会社に勤めていた.75年前の8月15日夕方,日本の敗戦を知った中国人が暴動を起こして会社の寮に乗り込んできた.
あちこち逃げる中,父が会社で仲がよかった中国人の徐さんに偶然出会い,小さな物置の屋根裏部屋にかくまってもらった.
徐さんは私を「デスヤ(てつや)ちゃん」と呼んでかわいがってくれた.
父は昼間,中国人に変装して徐さんの行商の仕事を手伝った.母と私たち兄弟4人は,一歩も外に出られない,物音さえ立てられない環境だった.
本を読んだり,絵を描いたりするのが好きだった長男の私は,退屈した弟たちのために自分で作った物語の絵を描き,話して聞かせた.
「次はどうなるの?」と聞いてくる弟たちを,どうしたら楽しませてやれるか,一生懸命考えた.難しかったけれど「受ける」とうれしかった.
数週間の屋根裏生活の後も,逃避行は続いた.冬は氷点下20度を下回る大陸で,ずっとおなかがすいていた.道にあった馬ふんを見て,食べたくなるほどだった.
日本への引き揚げ船が出る港に向かった時は,線路沿いを延々と歩いた.栄養失調で,歩けなくなってうずくまる日本人がたくさんいた.死んだ子をおぶったままの若いお母さんも見た.
食料の交換を母が中国人と交渉した時,「子どもが欲しい.4人もいるんだから1人置いていけ」と言われているのを聞いた.母はピシャリと断り,「この人についていけば大丈夫だ」と子ども心に思った.
終戦から一年ほどたってやっと乗った引き揚げ船内でも死者は随分出た.同じ社宅にいたキョウちゃんも,さっきまで一緒に遊んでいたのにあっけなく亡くなった.
夏場で腐ってハエがたかり,疫病がはやる恐れがあったから,遺体が4,5体たまると舟を止めてすぐ葬られた.ボロ布みたいのにくるんで,船尾から海に落とした.家族がわあわあ泣き叫んでいた.
死が本当に身近だった.人間っていつどうなるか分からない,という考えが,頭にしみついたような気がする.
コロナ禍で経済が落ち込んだ今,世界中が悲観的になっている.
だけど,経済がどんなに悪くなっても,道ばたに落ちている物を食べたくなるほど,飢えることはないと思う.
公害が大きな社会問題になっていた1970年代ごろ,漫画家の仕事も環境破壊に関連していると悩み,それをテーマに作品を描いたことがある.
漫画は紙を使うから,原料の木を切る原因になっている.紙を作る工場の排水も河川を汚す,人間は地球や自然を汚しまくっている,と.
人間は楽に暮らせるように,どんどん自然に手を入れて壊していった.地球だって生き物だ.人間だけが好き勝手にしよとしたら,地球だって怒る.そんなお仕置きとして,コロナが現れたのかな,とも思う.
コロナでこれをしちゃだめ,あれもだめと制約がいっぱいあるけれど,仕事のやり方や従来の価値観なんかを変える時期なのでは.
できるだけ自然を壊さず,自然に合わせて生き方を変える.
そう考えることも大切だと感じるし,そういう漫画も描いていきたい.
屋根裏の体験が漫画家になる原点だった.
逃げる中で,人ってこういうことまでするんだ,と人間の本性も間近に見た.主人公がチャンピオンになって,やったー!みたいなハッピーエンドを,なかなか私が描けないのはあんな体験があるからかもしれない.
【聞き手・高田房二郎】