横たわる冷ややかな視線
水無田 気流(みなした きりう)
東京新聞夕刊 2018年9月19日
一九七〇年代半ばすぎ.私の通っていた相模原市の小学校には,養護学級が一クラスあり,昼休みによく遊びに行った.
緑色の軟らかい絨毯(じゅうたん)が敷き詰められたその部屋は,様々な障害をもつ子どもたちがいた.車いすに乗っている子も,みんなと一緒にごろごろころがって,笑っていたのが記憶に残っている.
その後,私が四年生に上がったはるだったか.あのこたちはどこに行ったのかな,と言う話題になると,誰かが「障害の重い子は,津久井やまゆり園ってところに,行くかもしれないって聞いた」と言った.
二〇一六年七月,その園の名前を,久しぶりに聞いた.
死者十九人,重軽傷者二十六人を出したという陰惨な事件の内容とともに,話題を呼んだのは,容疑者が犯行前に衆議院議長に宛てて送ったという手紙に認(したた)められた「障害者は不幸を作ることしかできない」との発想だ.
「歪んだ優生思想」との批判がなされる一方,ネット上では「正論」との声も上がった.
賛同の意見を要約すると「社会の中で役に立たない人間は排除すべきだ」という結論に行き着く.
「役に立つ人間」とは,何か.
働いて,お金を稼いで,身辺自立し生活する「自立した人間像」がその前提条件である限り,人はそこからの距離感で,価値が計られていく.
障害者だけでない.乳幼児,児童,高齢者,そして妊産婦----.ケアを必要とする人たちは二流の労働者であり,それは二流市民であることも意味する.
ただこの正しい市民像は男女で異なっており,女性はときに生産労働への参加以上に,次世代の再生産(=出産・育児)に貢献してこそ価値があるとされがちだ.
出産しない性的少数者を,「生産性がない」と語って批判された国会議員の事例が示すように,経済と人口規模に「貢献」してこその発想は,近代国民国家成立時より私たちを駆り立てていく.
同時に,これらに貢献し得ない人たちの「新しい役立ち方」もまた,生産性の論理の延長線上で提唱される.
冒頭で述べた養護学校がなくなってから,学校で障害児と遊ぶ機会はなくなり,代わりに道徳の時間などに,映像資料で見る対象となった.
たとえば障害者が残された機能を活(い)かして懸命に頑張る姿を見せられた後,先生は,「ああいうお友達も頑張っていて,とてもえらいですね.みなさんは,もっと頑張らないといけないね.それでは感想文を書きましょう」というようなことを言った.
たしかに,障害がある子どもたちが頑張っている姿は美しかった.
だが,だから健常者の子どもは,もっと頑張るべきだ---というのは,違和感があった.そしてそれを正直に書いた.
後日先生から返却された原稿用紙には,三角と迷った後のある×がつき,「話をきちんと聞きましょう」と書いてあった.
今でも思う.
彼らは,私たちを奮起させる「ために」生きているのだろうか,と.
もし今,あのころ一緒に遊んだ養護学級の子どもたちに,何か言うことがあるとすれば,「一緒に遊んでくれてありがとう」以外に,何も浮かばない.
先日は,中央省庁をはじめ行政機関の多くが,雇用する障害者数を水増ししていた問題が明らかになった.
実際の雇用率は,公表されていた数値の半分以下だという.
理念としては障害者の社会参加を謳(うた)いながら,現実の職場には迎えない二枚舌にやりきれない思いがした.
職場のダイバーシティー(多様性)推進の理想とは裏腹に,この国には悪しき現場主義が横行している.
そこにあるのは,理想は実現できないもの,という冷ややかな視線だ.
それゆえ実現のための数値目標が掲げられたとき,現実の問題を解決するよりも先に,見た目をごまかす張りぼての数値が全面に押し出される.
現実は変えられない,のではない.
この国では,現実を変えないため,あまりにも不条理な努力が重ねられすぎている.
解決のためにも,悪しき現場主義と,それを下支えする冷笑の身ぶりこそを取り去るべきだ.