だれもが内心うろたえていた.どうじに,狼狽(ろうばい)をとりつくろおうとしていた. 事件の血しぶきにかすむ深奥の風景を,ほんとうのところは,だれしも見たがってはいないように思われた. あのできごとでみながあわてたのは,流された血の多さからだけではない. いわば,「われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ」たからなのである.
相模原事件1年後の視座(1)
http://yachikusakusaki.hatenablog.com/entry/2017/10/20/011130
相模原事件1年後の視座(2)
作家 辺見 庸
2017年8月5日〜
山梨日日新聞 共同体の見えない“異界”
臓器の感覚
「楢山節考」にであったときの深刻なショックを三島は腹蔵なく,かつ衒(てら)わず正確にしるしている.
「ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ」た,と.障がい者殺りくと「臓器の感覚」は,なぜかぴたりとかさなる.
「棄老」の習俗を背景とする短編小説と障がい者殺傷事件は,でんたつの困難な新旧の怪しい影がかさなり,交差する,まるで影絵のような世界ではある.
それはニッポンという共同体が,いまにいたるも内側にもちつづけながら,見て見ぬふりをして,明示するのを避けてきた,うつつのなかの“魔界”でもあるからだ.
山里の貧しい村落の掟(おきて)にしたがって,七十になろうとする母親を息子がおぶって雪ふる楢山へ捨てにいく物語は,〈親子の情愛と共同体の因習の葛藤〉といった,「かつてはあったが,いまはない悲劇」としてまとめられがちだった.
しかしながら,この因習は,寒村における余儀のない「口減らし」の集団的合意と約束に沿うたものでもある.
すなわち,無情な「棄老」は,人間性やヒューマニズムの美辞麗句にかくされた「経済合理性」の,いまでも形をかえて反復されているだろう,無言の実践でもあったのだ.
物語では山中によこたわるたくさんの白骨遺体や,70歳の父親をいままさに谷底につきおとしている隣家のおとこの姿などが淡々とえがかれる.
このようなシーンをつきつけられ,三島由紀夫は「美と秩序への根本的な欲求をあざ笑はれ」ている---という不快感を吐露しているのだが,悪夢そのものの風景が歴史の暗部に「事実」としてしずんでいることを否定しはしない.
棄老伝説は「大和物語」「今昔物語集」にもあり,さらには乳児の「間びき」,障がい者殺し,「座敷牢(ざしきろう)」への閉じこめなどが,ニッポン近代の「美と秩序」とうらはらな,見るのも見せるのもはばかられるとされてきたダークサイドにいくつも伏在しつづけるからだ.
(続く)